|
明日香村
甘樫丘(中央)
K先生と明日香村に行った。このたび、飛鳥資料館にてキトラ古墳の壁画「玄武」が公開された。そこで、
「翠先生、見に行きませんか?」
と、氏の方から誘ってくださったのである。
私の車で西へ西へと走った。
九時半ごろ、明日香村に到着。
ところが、資料館にはすでに観光客が殺到しており、肝心の「玄武」は観覧まで二時間待ちの状態であった。あまりのことに私たちは愕然とした。
仕方なく我々は、三時間後には確実に観覧できるという整理券を受付でもらい、一旦その場を離れることにした。
このあとの行き先についてはK先生が、
「翠先生にお任せします」
とおっしゃったので、ぜひ、
「甘樫丘」
にのぼってもらいたいと思った。
甘樫丘は、かつて蘇我蝦夷・入鹿親子がその麓に邸宅を構えていた。丘の頂上からは、有名な大和三山がよく見えるはずであった。
K先生の先に立ち、甘樫丘をのぼりはじめて気づいたことがある。二人の階段をのぼる速さがまったくちがうのである。それは単に年齢のちがいからくるものではなかった。K先生は、まわりをよく見渡しながら、さらにいえば、まわりの自然を感じながら歩いておられたのである。つまり、まわりの自然について感じるものが多ければ多いほど、おのずと歩く速さはゆっくりになる。
そういえば、K先生は草花の名前を実によく知っておられる。明日香の道を行く途中、私は氏に何度か、道端に咲く花の名前をたずねたが、K先生はすべて即答された。私の周囲にはこういったタイプの人は少なく、よって私はある種の新鮮さを感じた。
丘の上は、いつになく視界が開けていた。その丘の上を、爽やかな風が吹き上げ、そこにいた人々は思わず声をあげた。実に陽気がいい。そして、この風である。その爽快感は、久しく感じたことがないものであった。
頂上からは、いつもの通りに大和三山の姿がよく見えた。しかし、素敵な景色はそればかりではなかった。東を望むと、雰囲気のよい山地が見えた。その斜面の思ったより高いところまで、家屋の影が見えている。かつて、大学のゼミの先生とこの丘にのぼったとき、先生が、
「私の故郷は、この山を越えたところにあります」
と指をさしながらおっしゃったときのことをよく覚えている。その言葉のひびきが何とも格好がよく、うらやましく思ったものである。
さて、K先生もこの丘のことは気に入られたようで、さかんに歩きまわっては写真を撮っている。
丘のまわりをツバメが低く飛んだ。この陽気と風にツバメもいたくご機嫌なようで、私たちのまわりを何度も飛んでは舞い上がった。
甘樫丘の麓に、
「向原寺」
という寺がある。この寺は、欽明天皇十三年(五五二)、百済の聖明王から献上された釈迦像を蘇我稲目(馬子の父)が賜り、この地に安置したのがはじまりという。
この向原寺の門をくぐると、正面に本堂がある。私は何となく、その本堂を右へすり抜けてみた。そこは竹林であった。
竹林は、風で全体が揺れていた。そして、数えきれないほどの茶色の葉がひらひらと宙に舞っていた。はじめて見る光景であった。
「こういうのを竹の秋っていうんですよ。春の季語です」
とK先生が教えてくださった。K先生は俳句も嗜むのである。
竹にとっては今が晩秋なのだろう。強い風が吹くと、竹の葉はさかんに舞った。
ところが、私たちがその様子を写真に収めようとしたとたん、風がぴたりとやんだ。しばらく待っても、竹の葉は舞うことを忘れてしまったかのようであった。
私はカメラを構えつづけ、K先生は途中から手帳に何やらメモしはじめた。
一〇分ほど待ったであろうか。結局、そのあいだに満足できる写真を撮ることはできなかった。
少々落胆しながら寺をあとにしようとしたとき、K先生が手帳を見せてくださった。そこには、K先生が即興でつくった俳句があった。
待つほどに 葉は散らずとも 竹の秋
この即興句に、私は救われる思いがした。
|