出雲のみち A

  
   旅の時期:平成19年3月30日〜4月1日


  
                出雲大社


出雲大社

 今回は二泊三日の旅である。ただし、三日目はほぼ帰途に費やされるであろうから、実質は二日間で見るべきものを見てしまわねばならない。
 旅立ちの日の朝は、早朝六時前に家を出た。名鉄で名古屋まで行き、名古屋からは新幹線に乗った。雲行きが終始あやしかった。岐阜を通過するあたりでは晴れ間も見えたが、岡山から特急「やくも」に乗り換えたころには曇ってきて、中国山地を越えるときには小雨が降った。
 出雲への道は、米子からがまた、遠い。車窓から空を見上げると、低く雲が立ちこめ、周囲のすべてのものが灰色に見えた。景色はひたすらとりとめがなく、無味乾燥な気がした。その土地の無表情さに私は半ば閉口していたかもしれない。しかし、しばらく行って右手に宍道湖が見えてくると、多少なりともこの土地の表情が見えてきたような気がして、救われた。
 特急「やくも」には三時間ほど揺られたであろうか。やっとの思いで出雲市駅に到着した。私は駅を降り、そのままバスで出雲大社へと向かうことにした。

 ちなみに、出雲大社の祭神はオオクニヌシノミコトである。オオクニヌシは別名も多く、オオモノヌシノミコト(大物主命)も実はオオクニヌシのことである。
 オオクニヌシは、スサノオとも縁が深い。オオクニヌシはスサノオの六世の孫であるらしく、また、スサノオの娘と結婚もしている。
 どうやらオオクニヌシは浮気性の神であったらしい。嫉妬深いスサノオの娘との生活に嫌気がさしたため、国を治める旅と称し、各地をめぐっては行く先々で妻をもった。結局、百八十一柱もの神々の親神となった。つまり、出雲大社が縁結びの社として名高いのは、オオクニヌシが数多くの妻をもち、子宝に恵まれたことに由来する。
 そういえば、私がよく訪れる大和の地には、大神神社という古社があるが、祭神はオオモノヌシ、つまりはオオクニヌシであった。この場合、オオモノヌシは三輪山に祀られた神であり、倭迹迹日百襲姫命とロマンスがあったとされる。両者は結婚したが、なぜか夫(正体はオオモノヌシ)は夜にしか妻のもとを訪れない。そこで妻が朝の光の中で会いたい、とせがむと、夫は櫛笥の中に身を隠してしまった。翌日、妻が櫛笥を明けてみると、中から一匹の蛇が現れ、妻は思わず悲鳴をあげてしまう。それを激怒したオオモノヌシは雲に乗り、三輪山へと帰ってしまった。それを嘆き悲しんだ妻は、自らの陰部を箸で突き、絶命してしまう。よって、姫の墓とされる箸墓にはその名がある。
 私ははじめ、なにゆえ出雲の神であるオオクニヌシが大和の地に祀られているのかわからなかったが、要するにオオクニヌシの性格によるらしい。
 このような恋多き神であったオオクニヌシであったが、彼の最大の功績はおそらく、
「国譲り」
 である。アマテラスオオミカミ(天照大神)の孫(皇孫)がこの国に降臨するに際し、オオクニヌシは自らが治める土地をそのまま譲った(この話に大和朝廷の全国平定の様子を連想するのは自然なことかもしれない)。このときオオクニヌシは、
「立派な宮殿をつくり、自分を祀ってほしい」
 という唯一の条件を出している。その宮殿こそ、出雲大社のはじまりである。
 以来、貞観九年(八六七)には正二位の神階を受け、『延喜式』には名神大社として唯一、大社に列した。もちろん社領も広大で、江戸時代には五千石をも有していた。
 また、出雲大社の宮司は今日でも、
「出雲国造」
 とよばれているところが、大社の歴史の深さを表しているといえる(国造家は千家氏と北島氏の両氏があり、現在は千家氏がこれを務めている)。

 バスは三〇分弱で出雲大社の門前へと到着した。門前には石の大鳥居があった。その脇には、
「出雲大社」
 と大きく彫られた石柱も建っている。
 門前から奥へとまっすぐにつづく参道の中央には、松並木があった。その間をやや神妙な気分で歩いていくと、正面にやっと出雲大社の建物が見えてきた。
 ふと脇見すると、神苑に桜の木が何本かあり、きれいに花を咲かせていた。五分咲きであった。
 境内の雰囲気はひんやりとしていた。その境内でまず目に入るのは、拝殿である。総檜造で、高さは一三メートルある。旧拝殿は十六世紀に尼子経久が寄進したものであったが、昭和二十八年の火災で全焼した。六年後、再建されたのが現在の拝殿である。注目すべきは正面頭上にかけられた大注連縄で、太さ三メートル、長さ八メートル、重さは一.五トンもある。
 私は拝殿に向かって二礼二拍手一礼をしたが、周りの人がより多く拍手しているようであったので、おやっ、と思った。よく見ると拝殿の横に、大社では二礼四拍手一礼にて拝礼する、とのただし書きがあった。
 つづいて、国宝の本殿である。現存の本殿は、延享元年(一七四四)に再建されたもので、広さは一辺一〇.九メートル四方ある。
 本殿の特徴は何といっても、
「大社造」
 とよばれる独特の神社建築にある。大社造は、古代の住居がそのまま社の形式になったといわれ、両面屋根の側面の山形面に正面が設けられた、妻入り様式である。
 とくに目をひくのは、やはり屋根の造りである。檜皮葺で、棟上には長さ七.九メートルの千木(破風の先端が棟上にのびて交差した木)をいただいている。この千木がかたちづくる×印がまた、この社の格調をさらに高いものにしている。
 私は、この形式の社をはじめて見た。造りとして何とも格好がよい。
 本殿を囲む廻廊の周りをぐるっとめぐってみることにした。正面からは見事な屋根の様子が際立ったが、側面から見ると本殿の腰高の様子がよくわかった。本殿は九本の柱で支えられている。それらは高床式倉庫ような造りになっており、本殿自体を高くしている。
 本殿の周りを歩きながら思った。神社の形式で、これほど神々しいものはないのではないか。この本殿はまさに、神の社であった。それは圧倒的なスケールを誇り、これを見て神の存在を感じぬことなど不可能であろうと思わせた。
 清々しい気分になった。同時に、やや畏れにも似た感情をもった。
 歴史とは、感じるものである。つまり、その場所のもつ力を感じることがもっとも肝要である。そういった意味でこの本殿は、ここでならもしかしたら本当に神に触れられるのではないか、と思わせる建築であり、興味深い。
 いつの間にか空は真っ青になっており、出雲大社の背後の山(この山を八雲山という。この山も実に雰囲気がよかった。神が鎮座するにはやはり山が必要なようである)から湧くようにして雲が白かった。八雲立つ社にふさわしい光景がそこにはあった。
 私が写真を撮るとなりで、若い女性が立ったままスケッチをはじめた。すぐ横に連れの男性も立っていて、そのスケッチをのぞきこんでいる。女性は立ったまま、一〇分以上スケッチをしていたのではないか。その光景が何ともほほえましかった。
 日は傾きつつあった。斜陽が大社の重厚な檜皮葺にあたっている。その上を鳥が飛んだ。そろそろ鳥たちも、大社の裏山へと帰っていくのかもしれない。

 宿泊するホテルまではタクシーに乗った。私はタクシーの運転手に出雲人の気質について聞いてみたかった。
「出雲の人は、本当にみんなおだやかなんですか?」
「そうです」
 運転手は見事に即答した。
「いつもこの雲が、どんよりと上から頭を押さえつけているんです。だからじゃないでしょうか。われ先に、という積極性は少ないですね。人間がすごく物静かです」
 やはり土地は人を規定するらしい。そして、Hさんもこの運転手も例外ではなかった。
                             (つづく)