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出雲のみち B
旅の時期:平成19年3月30日〜4月1日
菅谷たたら山内
鉄の里
「鉄」
という言葉を聞いて胸が躍るようなら、その人は歴史を楽しむ素養が十分にある人物だと断言してよい。それほど鉄は奥が深く、調べれば調べるほどおもしろい。
「鉄は国家なり」
とは誰がいった言葉であったか。このような、
「鉄こそがものをいう」
という通念は、製鉄の技術がこの世に出現した瞬間から発生した。
日本においては、鉄は紀元前三世紀ごろ、稲作とほぼ同時に朝鮮半島より伝わり、その日から日本も「鉄こそがものをいう」時代となった。
たとえば、大和盆地には三世紀ごろ、大和政権が発生したが、その発生に鉄が関わっていたことはまちがいない。
大和政権を最初にかたちにしたのは、崇神天皇であったろう。この崇神帝は征服者として盆地の外からやって来た可能性が高く、だとすれば、そのときにはきっと十分な鉄器兵器(といってもそれは数百本という、今からすれば素朴すぎる数であったと思われるが、逆にいえば当時、鉄はそれほどの絶対的価値をもっていた)をたずさえていたはずで、その兵器の前に大和盆地の土着勢力はなす術がなかったにちがいない。つまり、鉄器数百本をもっておれば国の覇者となり得たともいえ、当時は鉄器の量と権力の強大さとが完全に比例する世界であったともいえる。
もしかすると崇神帝は河内の方から来たのかもしれない。だとすれば、竹内峠を越えて大和盆地に入ったことになり、竹内街道が「鉄のみち」ということになる。かつて私はこの峠を車で越えたことがあった。見た目には何ということのない峠であったが、「鉄のみち」であるかもしれないと思いながら行く道は、私にとっては感慨深かった。
しかし、大和は製鉄の地ではない。一方、出雲は古代より製鉄の地として有名であった。それは、良質の砂鉄に恵まれていたことに最大の理由がある。
旅の二日目は、その製鉄の地を歩くことにした。
出雲の山間部には、かつては多くの、
「たたら」
が存在した。たたらとは、もとは足で踏んで空気を送る大形のふいごのことをいったが、これを装備した砂鉄精錬炉と周辺施設を総じてそうよぶようになった。
今日、その遺構が見られる場所は少なくなっている。そんな中、国内で唯一、たたらの中心施設である、
「高殿」
の遺構を今に残す、
「菅谷たたら」
を見に行くことにした。かねてからHさんに、
「出雲を行くなら、絶対にレンタカーが必要よ」
といわれていたので、この日は迷わずレンタカーのお世話になることにした。
今どき、レンタカーにはカーナビが標準装備されているらしい。とくにこの日は山中を行くとあって、このカーナビには大いに助けられそうである。
レンタカーで南下する。南下といっても、道はのぼっている。そして、出雲市駅から一〇分ほど行っただけなのに、周囲は山の景色になった。ここからの道は不安であった。道がどんどん本格的な山道になっていく。ある程度、覚悟はしていたが、どうも細い道を行くのは心細い。
さらに行くと、ついに道は車一台がやっと通れるだけの幅となった。対向車が来たら厄介だな、と思いながら、しかしその先にあるはずの秘境をめざした。
出雲市駅から三〇キロほど走った。そこに、その集落はあった。現在の住所でいえば、雲南市吉田町である(近年の合併の影響で市となっただけのことであり、本来なら吉田村とよぶべき地域である)。
集落入口に駐車場があった。そこで車を降りたとたん、私はたしかにタイムスリップしたように感じた。驚くべきことに、そこには今も江戸時代の空気が現実に存在した。
受付らしき建物があり、中に入ると、面長で少々痩せた感じの男性が一人、畳の部屋に坐っていた。齢六十を少し越えたくらいであろう。この方が受付兼案内係を一人で務めるらしい。
ガイドを乞うと、
「はい、わかる範囲でなら」
と快く承知してくれ、すぐに表へ出てきてくれた(残念ながらお名前がわからない。以下、ガイドさんと記す)。
ガイドさんは、私をまず高殿へといざなった。高殿は、錠前の代わりに太い木を横へ渡し、しっかりと閉じられていた。その横木をガイドさんがはずすと、高殿の戸は音を立てて内側へ開いた。
思わず感嘆の声をあげた、と自分でも記憶している。
高殿の内部は暗く、ひんやりとしていた。下はすべて土で、その中央にこれまた土でできた炉があり、その両脇にふいごの名残が見られた。上の方に目をやると、神棚のようなものがあった。どうやら神が祀ってあるらしい。これらすべてが、江戸時代からまったく変わらぬ様子で保存されていたのであった。
ガイドさんがたたら製鉄について、ていねいに解説をしてくれた。
すべてはまず、砂鉄を手に入れることからはじまる。砂鉄は、
「鉄穴流し」
という水で洗い出す方法で採集された。山中において花崗岩をツルハシなどで切り崩し、水路に流す。この土砂を水の力で、
「砂溜」
に送り込む。その下流には、大池・中池・乙池と段階を踏んで洗い場が設定されており、土砂混じりの濁流をだんだんと下手に流す過程で、砂鉄と土砂とを分離させた。比重の思い砂鉄は池の底に沈殿し、土砂だけが下流に流されていくわけである。
つぎに、炉を築く。工事は、湿気を防ぐための地下工事から行う。炉体の周囲七メートル四方、深さにして三〜五メートルを掘り下げ、底に排水溝を設けたのち、その上に砂利や木炭、粘土などを入れてつきかためる。そのまた上に土を入れるが、炉体の真下はさらに入念に大量の薪を燃やし、木炭をたたきかためる。このようにして地下装置をつくるだけで約三ヶ月かかり、薪を一二〇トンあまりも消費するという。
炉体は厳選された釜土でつくる。高さは一二〇センチほどになる。炉体ができると、いよいよ火入れとなる。
たたら製鉄とは、この炉内で木炭と砂鉄を燃焼させ、最終的に、
「ヒ」
とよばれる鉄の塊を生成する作業である。この作業は、一回につき丸三日かかった。その三日間とつぎの操業の準備の一日を足した四日間を、たたらの人々は、
「一代」
とよんだ。この間、約七〇時間ものあいだ、炉は最高一、四〇〇度を超える温度で燃焼しつづける。ちなみに、ふいごは炉内の温度を上昇させるのに役立つもので、踏み板を踏むことによって風を炉内に送り込むというのがその原理である。
高殿を出たガイドさんは、出てすぐの窪地を指さした。
「これは鉄池といいます。できたヒをここにあった池に入れて冷やすんです」
その光景が想像された。たたらの人々にとって歓喜の一瞬だったにちがいない。男たちの歓声があがり、拍手が沸き起こったことであろう。
そこからガイドさんは道をくだっていった。ついて行くと、道の脇に、
「村下坂」
という看板が立っており、そこにやや急斜面の小さな坂がこしらえてあった。その坂をのぼると、さきほどの高殿に直接通じるようになっている。
たたら製鉄の棟梁を、
「村下」
といった。村下が率いるのは、二十五人ほどの男どもである。経験がものをいうたたら製鉄では、村下の腕によってヒの質がまったくちがうものになった。製鉄の工程管理は、すべて村下の経験や勘に頼るしかないのである。
村下はそのたたらにおいて絶大な権力を誇ったが、逆に、
「たたら三夜わかざれば村下を改易すべし」
の言葉どおり、三夜つづけて失敗すれば、容赦なく解任された。
その村下の権力を象徴するものが村下坂で、この坂は村下しかのぼることを許されなかったという。
坂のすぐ近くに川が流れている。見ると、川底が赤い。
「このあたりの鉄気で赤くなるんじゃないかと思います」
とガイドさんはいった。
ふたたび道をのぼっていく。高殿の近くに大きな木が立っていた。桂の木だそうだが、何やら全体が赤く見える。
「一年にこの時期の三日間だけ、赤い花が咲くんです。今年はちょうど一昨日、昨日、今日と咲きました。これはいいときに来られました。写真を撮りたいというお客さまがたくさんおられますけれども、なかなかタイミングが合わないんですよ」
私はどうやら随分と運がよかったらしい。桂の木は、赤い冬芽の中から花弁も萼もない、雄しべと雌しべだけの花を葉にさきがけて咲かせるという。
「あれはすぐに茶色になって、そのあと青い芽が徐々に出てきます。いつもは四月七〜九日くらいに咲くんですが、今年ははやいです」
木の赤々とした様子が三日間つづくことから、桂の木の花はちょうどたたらの一夜にたとえられるという。ただし、中でももっともすばらしい光景は、二日目の夕方に訪れる。二日目がもっとも花が多く、それらが夕陽に照らされると、まるで桂の木全体が炎のごとく燃えさかるように見えるらしい。私は、ガイドさんが昨夕、近くの丘の上から撮ったという写真を見せてもらった。まさしく木全体が天に向かって燃えていた。
それに比べると、目の前の桂の木はおとなしく見える。やはり夕陽が当たらないと、写真のような炎の色は出ないらしい。しかし、せっかくであるから、同じ丘から桂の木を見て、写真を撮りたいと思った。
「写真スポットに行きますか?」
ガイドさんから声をかけてくれたので、ご厚意に甘えることにした。
高殿の横を流れる小川を渡ると、そこは坂の急な例の丘である。ガイドさんはその丘をのぼっていった。
ウグイスが上手に鳴いているのが聞こえる。途中、ガイドさんが、
「こんなところにもノロが落ちてますね」
といって指をさしたその先に、黒っぽい石のようなものがあった。私にはそれがただの石にしか見えなかった。ノロとは、炉の操業中に、炉の下にある穴から不純物が流れ出したもので、温度が下がるとすぐに石のようにかたまる。
「見てすぐに、ノロってわかるんですか?」
「そりゃあ、わかります」
ガイドさんは笑った。坂をのぼっていくと、途中に畳数枚分ほどの平らなスペースがあり、折りたたみ式のパイプ椅子が二つ並べてあった。そこが写真スポットであった。そこから眼下を眺めると、たしかに先ほど見た写真と同じ角度で桂の木が見えたが、やはり燃えさかるようには見えなかった。
さらに上へとのぼった。のぼった先は山内生活伝承館の駐車場となっている。そのあたりからは菅谷たたら全体が一望できた。それらのたたずまいはひっそりとしていて、かつてここで国の命運をも左右する鉄づくりが行われていたとは到底思えない。
来た道を戻って丘をおりていくと、先ほどは気づかなかったが、途中にわずかながらの段々畑があり、小学生らしき男の子が鍬をふるっていた。祖母の手伝いをしているらしい。その男の子にガイドさんが手を振ったので、
「お知り合いですか? 小さいのに偉いですねえ」
というと、ガイドさんは、
「ウチの孫なんです」
といって、また笑った。
(つづく)
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