出雲のみち C

  
   旅の時期:平成19年3月30日〜4月1日


  
              光明寺の朝鮮鐘


光明寺の鐘

 朝鮮半島ほど日本人の心境を複雑にする地域は、世界中のどこをさがしてもないにちがいない。
 古来、朝鮮と日本は、海を隔ててはいるものの、隣接しているがゆえにいろいろなことがありすぎた。
 古代より日本にとっての文明は、多くが朝鮮半島からもたらされた。稲作と金属器が伝わったのは、紀元前三世紀ごろと思われる。以来、儒教や医・易・暦をはじめとする学術、仏教なども伝わり、それらは日本に根づき、アレンジされた。
 その後、秀吉の朝鮮出兵があり、太平洋戦争があった。
 現在、戦後六十年を越えたが、日本と韓国・北朝鮮との関係ははかばかしいとはいえない。
 一方で、古代より日本と朝鮮半島との間には極めて深い関わりあいがあり、その歴史の深さを思えば、両国との交流の大切さを思わずにはいられない。

 私は最近、司馬さんの作品を通して、在日朝鮮人について考えるようになった。
 たとえば、司馬さんの小説に『故郷忘じがたく候』というのがある。
 十六世紀末、秀吉が朝鮮に兵を出したとき、島津義弘率いる薩摩軍は韓国南原城において数十人の男女を捕虜にした。その中には陶工がいた。
 当時、日本では茶道が隆盛し、陶磁器がもてはやされた。そういったことがさかんな中央に比べ、日本の西の果ての薩摩には茶道文化は届きにくく、陶磁器においては未開の地であった。そういったことを考えると、島津が南原城攻撃において、「とにかく城内に突入しつつ工人をさがすことに意を用いたに相違ない」(『故郷忘じがたく候』より)というのは、うなずける話ではある。
 捕虜として日本に来た朝鮮の民は、薩摩の苗代川に村を開いた。風景が故郷の丘陵に似ていたからだという。
 村で民は活溌に作陶活動をした。その中に、
「沈寿官」
 という姓名をもつ者がいた。その沈寿官家が今日も残っている。小説当時で十四代を数え、代々作陶を行ってきた。その沈家十四代目が、己の「血」(それは朝鮮貴族のけがれなき血であり、死もいとわぬ勇気の血でもある)を知り、自己の中で悩み抜きながら朝鮮人と日本人とのあいだを生きた。
 小説は、その十四代目が韓国の大学に招かれて渡韓し、講演を行ったり朴大統領(当時)に会ったりし、ついには先祖の故郷の町・青松にある沈一族の墳墓の山を訪れ、墓参する場面で終わっている。
 この作品など、異郷の地に生き続けた在日の悲哀を見事に表現しているといえる。
 そして、「砂鉄のみち」の朝鮮鐘の話もまた、在日について否応なしに考えさせられる作品である。そういった意味でも、朝鮮鐘は今の私には何とも心ひかれる存在となっていた。
 朝鮮鐘は、新羅〜高麗時代(四〜十四世紀)に朝鮮半島でつくられた青銅製の鐘で、和鐘に比べ、華麗な装飾文様が施されている点が特徴的である。鐘身の文様の種類としては、飛天像が多いのであろうか。
 先にも書いたが、朝鮮鐘は日本に五十四口存在する。分布は、九州・日本海沿岸・瀬戸内と朝鮮の航路にあたる地域に多い。島根県においては、安来市の雲樹寺、松江市の天倫寺にも現存している。

 吉田をあとにした私は、いよいよ光明寺のある出雲市加茂町に出発した。そういえば、大量の銅剣や銅鐸が出土したことで知られる荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡も光明寺から数キロの場所にある。せっかくなので、光明寺を訪れる前に見学することにした。
 道中、斐伊川の堤防を通りかかると、突然、あまりに見事な桜並木が現れた。並木はずっと奥へと続いている。週末とあって、人出もさすがに多そうであった。
 余談だが、斐伊川は船通山に源を発し、宍道湖へと流れる川で、下流域では土砂の堆積で形成された砂洲が目立ち、天井川になっているところも多い。よって古代よりよく氾濫したようである。神話でスサノオが出雲を訪れた際、この川の上流から箸が流れてくるのを見て、付近に人が住んでいることを悟る場面は有名である。

 荒神谷遺跡への道で、途中、
「学頭トンネル」
 をくぐった。そのときふと、Hさんの実家が斐川町学頭にあることを思い出した。どうやらHさんはこのあたりで生まれたようである。
 周りは緑豊かな山々で、時折、広大な棚田も姿を見せる。そのスケールの大きさと田の緑の美しさに、私は感動を押さえることができなかった。このようなすばらしい土地に生まれ育ったHさんを、うらやましいと思った。

 荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の見学はおもしろかった。が、そのため思わぬ長居をしてしまい、日没の時刻が迫りつつあった。
 加茂岩倉遺跡のガイドセンターの方に光明寺への道を尋ねると、
「どうしてそちらを訪ねられるんですか?」
 と逆に質問されてしまった。
「司馬遼太郎さんがかつて訪れているんです」
「そうですか……」
 と、その男性はうなずき、
「でしたら、光明寺の住職に電話しておいてあげましょう。この時刻ですから」
 といってくれた。
 その男性に聞いたとおり、山道をゆっくりとのぼっていった。アスファルトの道ではあるが、幅はどんどん狭くなり、傾斜も急になった。私は光明寺がこれほどの山中にあることを知らなかった。
 さきほど、ガイドセンターの方が電話してくれた意味がわかった気がした。こんな時刻に遠方よりやって来た者が、これほどの山道を行くのを多少は不憫に思ってくださり、寺にて最大の成果を得られるように、との配慮であったにちがいない。
 山道はくねくねとのぼっている。かつて大和の高取城(日本三大山城の一つ)に行ったときのことを思い出すような道であった。それにしてもカーナビとは便利なもので、寺まであと何キロといった情報を正確に把握することができる。その数字に勇気づけられながら、ひたすらのぼった。
 あたりはすでにかなり暗い。いつの間にか空一面に雨雲が広がっており、雨は今にも降りそうであった。
 やっと、目の前に光明寺の山門らしきものが現れた。想像したとおり、古色を帯びた趣のある山門であった。こぢんまりとしているが、造りががっしりしている点も好感がもてた。門の奥に石段が見えた。まっすぐに上へと続いている。
 私は車から降り、ゆっくり山門をくぐろうとしたが、そのときついに雨が落ちてきた。そして、雨はあっという間に激しくなった。冷たい春雨であった。
 石段を駆け上がった。その瞬間、山の頂上に向かって稲妻が走るのが見えた。あたりに轟音が響き渡った。
 傘もない私はただ本堂へと走るしかなかったが、本堂には雨宿りできそうにもなかった。ふと左手を見ると、本堂横に庫裡らしきものがあった。その玄関口に飛び込み、戸を開け、
「こんばんは」
 と何度か声をかけると、しばらくして住職らしき人物が現れた。思ったよりがっしりとした体格の人であった。
「先ほど電話していただいた者です。鐘を見せていただきたくてお伺いしたのですが」
 やや困惑したような表情で、住職は玄関口まで出てこられた。
「どうぞ……」
そういいながら、住職は鐘楼を指さした。
「レプリカがあちらにあります。レプリカといっても、ソウルでつくったものですが」
 現在は鐘楼にレプリカがぶら下がっていることは下調べによって知っていた。住職によると、実物は本堂の手前にある宝物庫に収蔵されているという。
 雨はますます激しくなり、雷鳴もひっきりなしに鳴り響いている。この状況では、住職の案内はとても乞うことはできない。
 私は、
「それでは見せていただきます」
 と住職に告げ、宝物庫へと走った。
 宝物庫は、鉄の扉によって閉ざされていた。それをゆっくりと開けた。ひどく鉄のきしむ音がした。今度は中に、木の引き戸があった。その戸をも開けと、暗い庫内の中央に小さな銅鐘がぽつんと置かれていた。
 司馬さんの「砂鉄のみち」の中で、司馬さんに同行したやはり在日の鄭詔文氏は、その面をなでながら、鐘を飽かず眺めていたという。
 その思いは、われわれ日本人には到底はかりしれるものではないが、私は何となく同じようにそっと鐘をなでてみたのであった。
(これが、光明寺の朝鮮鐘、であるか……)
 やっとの思いで見ることのできた鐘は、米俵を立てたようなかたちをしており、高さは八〇センチほどしかなく、想像以上に小さく見えた。その分、品のよさが感じられた。
 この鐘は新羅時代末期の九世紀後半の鋳造で、十四世紀末に海を渡って伯耆国のある寺に収められた。そのあと、明応元年(一四九二)に光明寺へと運ばれたらしい。

 私は、こうしていつまでも鐘を見ていたい気もしたが、おそらく住職は玄関にて待っている。それを気にかけぬわけにもゆかず、うしろ髪を引かれる思いで戸を閉めた。
 振り向いたところに、鐘楼があった。
 鐘楼は、谷に向かってせり出すようにあった。前方には、真っ白に視界が開けていた。どうやら眼下には川も見える。斐伊川であろう。方角的にいえば、その先には日本海がある。
「鐘、ついていいですよ」
 住職がこちらに向かって叫んでいる。この嵐の中における、住職の最大限のご厚意であった。
 私は、やや緊張しながら、力いっぱいに鐘を突いた。
「カーン」
 鐘は、日本のそれに比べ、軽くて高い音を出した。その音は、聞きようによっては実に美しくもあり、また、ある種の象徴的な悲しさを表現しているようにも思えた。
 それが、光明寺の鐘というものであった。
                             (完)