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千本松原(岐阜県)
私は岐阜県の生まれで長良川支流の流域に育ったが、小学生のころ、社会科の授業でよく木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水工事の話を聞いた記憶がある。先生がいつも黒板に、青いチョークで江戸時代当時の木曽三川の流れを描き、その図を使いながら、たくみに難渋した工事のようすを話してくれた。私は毎回、その話に釘付けになった。小学生にとって、工事に携わった薩摩藩士たちが工事の不具合の責めを負い、切腹するという事実は大きな衝撃だった。その衝撃は我が幼心に刷り込まれたらしい。私が旅行などで木曽三川を渡りかかると、心のどこかに重たい気持ちが生じるのは、そのためだろう。
木曽三川の治水工事が行われたのは、宝暦四年(一七五四)からである。当時、木曽三川の流れはあやとりの糸のごとく絡みあい、ねじれあっており、大雨のときは必ず氾濫した。その状況を改善するため、幕府は薩摩藩に工事を命じた。工事は難事をきわめるはずであり、これに取り組むということは、莫大な費用を必要とした(工事費は工事を行う藩の自己負担である)。その工事を幕府はあえて薩摩藩にやらせた。いうまでもなく、薩摩は長州と並んで外様の雄とされる藩であり、幕府としてはつねにその実力をそぐことに神経を使った。この工事もその一環であり、はっきりとした「薩摩いじめ」だった。
この報を受け、薩摩藩内は紛糾した。事実、
「国がつぶれるほどの借金をするくらいなら、いっそうのこと国を挙げて幕府相手に戦つかまつる」
と意気込んだ者も多かった。しかし、藩主・島津重年は、涙ながらに耐えがたきを耐えるよう説いた。薩摩藩の地獄はこのときからはじまった。
宝暦四年の一月、薩摩藩士が一千名、美濃の地へやって来た。翌月、一年三ヶ月におよぶ工事がはじまる。薩摩藩士は資金づくりに奔走しつつ、地元の百姓とともに泥にまみれながら堤を築いた。ときには、武士としての自尊心をずたずたにされるようなことも生じた。それに耐えられず、自ら命を絶った藩士も少なくなかった。
国元は国元で、血のにじむような節約を徹底せねばならなかった。武家でさえ一日一食とするようなこともあった。そのようにしてつくられた資金は、幕府旗本や村役人の不合理・不道徳な思考や行動により浪費されることもあった。それでも薩摩藩は耐えるしかなかった。それはまさに、太平の世におけるたった一藩だけの戦争だった(なお、このあたりの史実については、杉本苑子さんの直木賞受賞作『孤愁の岸』に詳しい)。
宝暦五年(一七五五)五月、工事は完成した。総工費は、薩摩藩の年間予算の丸二年分であったという。藩士で死んだ者八十余名、うち切腹した者五十余名。
完成直後、工事の総奉行であった家老・平田靱負は、工事中に多くの藩士が自決したことなど、工事におけるすべての責任をとり、帰国の途につくはずの日の早朝、香を焚いた役館内の自室にて静かに自決した。
先日、お盆を前に故郷に帰る際、少々遠回りをして千本松原を通った。千本松原は西の揖斐川と東の長良川とを仕切る細長い堤防だが、ここが宝暦の治水工事では最大の難所だった。当時は油島千間堤といった。その付近に車を駐め、堤を歩いてみた。
歩いてみて実感したことがある。堤の高さに比べ、川の水位が明らかに高すぎるのである。感覚として、今にもあふれ出るのではないか、という恐怖をおぼえるほどだった(現実にそんなことはありえないのだが)。とくに長良川の水位が高いのには驚かされた。流れはゆったりしているが、これが大雨のときには状況が一変するのだろう。
ちなみに千本松原というだけあり、油島千間堤には堤防に沿って松の木が植えられている。薩摩藩士が工事終了の際、その苦労をしのんではるばる地元から松苗を取り寄せ、約一キロにわたって植えたという。それが今では見事な松並木に成長している。
この苗木が根張りたくましい老松に生い立つこ
ろ……われわれは此の世に生きてはいまい。が、
松籟は千間堤あるかぎり、薩摩藩士一千名の悲
泣を奏でつづけるのだ
(杉本苑子著『孤愁の岸』より)
そんな藩士たちの声が聞こえてきそうな壮観である。
千本松原の姿は、実に美しい。広い美濃の空の下、ゆったりと流れる大川。それを仕切る堤は、今ではかつての苦悩を知ってか知らずか、車がひっきりなしに通っている。しかし、それらの堤はまぎれもなく「血堤」なのである。
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