|
『峠』を歩く @
朝日山からの眺め
司馬遼太郎さんの『峠』をはじめて読んだのは、四年前である。
『峠』は、幕末の長岡藩家老・河井継之助(一八二七〜一八六八)の後半生を描いている。もともと河井家は家老の家ではなく、父の禄高は一二〇石でしかなかったが、時勢も時勢、藩が継之助を必要とし、彼は異例の出世を遂げた。
継之助は最終的には家老上席(家老の筆頭)にまでなっている。いくら幕末とはいえ、一二〇石扶持からそこまでのぼりつめた者も珍しいだろう。
彼は藩内にてさまざまな改革を行っている。当然、改革には「抵抗勢力」の反発がともなうが、継之助はそれらを黙殺し、改革を断行した。その改革の芯は、制度や法律をつくりだすことではなく、それらを廃止することにあった。郡奉行のとき、彼は賄賂という悪習をなくした。町奉行になると、賭博・遊郭をも禁止した(実は継之助ほど郭遊びが好きだった男もいなかったが)。妾も認めなかった。国を富ませるために金の無駄づかいを厳禁したのである。また、株の特権を廃止したのは、藩内にて商業・産業をさかんにしたいとの考えがあったからである。
当時、藩には多くの借金があったが、それらは継之助の改革により三年ほどですべて清算され、さらに藩庫には十万両もの金が蓄えられた。継之助の富国強兵策は見事というほかない。
興味深い事実がある。
継之助ははっきりとした陽明学徒だった。陽明学は儒学の一派だが、このころ武士の一般が学んだ朱子学とは一線を画す。中国の王陽明を学祖とし、「知行合一」つまり己が正しいと判断した知識・道徳はすぐに実践することを説く(なお、日本における陽明学徒としてほかに大塩平八郎・佐久間象山・吉田松陰らが挙げられる)。いわば実利・実践の重視であり、これを継之助は藩政に生かそうとした。
しかし、継之助の改革は完成を見ることがなかった。大政奉還のあと「官軍」となった薩長軍が東に向けて進軍してきたため、藩内の改革にかまっているどころではなくなったのである。
長岡藩主は牧野氏だった。牧野氏はもと三河国の出で、譜代大名である。その立場を慮って佐幕(幕府ヲ佐ケル)でゆくか、あるいは時勢にのって官軍に恭順するか。他の東国の譜代大名同様、長岡藩はその選択を迫られた。
当時、長岡藩軍事総督だった継之助の出した結論は「武装中立」というものだった。ヨーロッパのスイスのごとく長岡藩を一種、独立国のようにしようとした。ところが官軍にとってそれはとうてい理解しがたい理論であり、長岡藩は佐幕同然と判断した。この瞬間、激烈な長岡戦争が幕を開けた。
約三ヶ月の激戦の末、長岡藩は敗れた。このとき長岡城下は九割方が焦土と化した。継之助は会津へ落ちようとしたが、途中で膝の負傷が悪化し、死んだ。
『峠』を読んで以来、長岡に行きたいと思い続けていた。そしてこの夏、私はやっとその思いを遂げたのである。
今回は二泊三日のひとり旅だった。今回はもしかしたら山奥まで行くことになるかもしれず、だとすれば誰にも気兼ねせず行けるひとりの方が都合がよい、という考えもあった。
北越は遠い。
いうまでもなく太平洋側から行く場合は、いくつもの山を越えねばならない。
土地は人を規定する。もし上杉謙信が東海道に面した国の生まれだったなら、きっと天下をわがものにしていただろう。謙信はあれほどの軍事の天才でありながら、ついにその領国から出ることができなかった。深すぎる越の山が邪魔をしたのである。それほどに越の山は深い。
長岡へ出掛けたのは八月十六日、その日は継之助の命日だった。この日、岐阜県の多治見などでは、国内観測史上最高の気温を記録したというが、私の降り立った長岡駅周辺は心地よい風が吹きつけており、それほど暑さを感じずにすんだ。
現在、長岡城の遺構はまったく残っていない。が、かつてはJR長岡駅の場所に城があった。よって、駅の周辺は城下町ということになる。とりあえず、かつての城下町を歩いてみることにした。
私は城下町を歩くのが好きである。何も萩のように見事な遺構が残っていなくてもよく、道筋に雰囲気のかけらでも感じられればそれでよい。その点、長岡は道筋のあり方に十分、かつての城下町を思わせる雰囲気があり、うれしくなった。
継之助は家老になるまで長町に住んでいた。駅から三〇〇メートルの近さである。現在、その跡地には彼の記念館が建っている。同じ通り沿いには当時、山本有三の「米百俵」の戯曲で有名な小林虎三郎(一八二七〜一八七七)の邸宅もあった。現在はそこが米屋になっているというから、これまたおもしろい。
長岡は、山本五十六(一八八四〜一九四三)を輩出した地としても知られる。ここでは話がそれるので、五十六の詳細には触れないが、その生家は継之助宅跡から驚くほど近い。西へ一五〇メートルほど行くだけである。当時は高野家といい、長岡の名家だった山本姓を五十六が嗣いだのだった。継之助の隣町から五十六が出たというのも実に興味深いことといえる。
長町を北に行くと、栄凉寺という寺がある。歴代の長岡藩主・牧野氏や藩士たちが数多く眠っている長岡藩の菩提寺である。そこに河井家の墓もあるという。
継之助は奥会津で死んだが、その遺骨は最終的にこの栄凉寺の墓におさめられた。その墓が長岡の地においてデリケートな存在であることは想像に難くないだろう。
つまり、継之助は地元長岡の人々から見れば、戦争犯罪人といえるかもしれなかった。たとえば、美濃大垣藩家老・小原鉄心は、継之助と同じ立場で同様の選択を迫られた際、官軍に恭順の道を唱え、大垣を「朝敵」にしなかった。その功績は今でも地元の人々に評価されている。
継之助も鉄心と同じように決心していれば、長岡は焦土とならずにすんだはずで、よって継之助を犯罪人としてとらえる長岡人は、長岡落城直後から多かったらしい。実際に、長岡戦争で家を失い、家族を失った者たちが、河井家の墓を引き倒したり、台石を破壊したことも何度かあったという。
被害を受けたのは墓のみでない。継之助の家族も同様であり、継之助の死後、中傷と罵声を浴びせられ続けた母や妻は結局、長岡から逃げ出して北海道江別に移住せざるをえなくなり、そのまま異郷の地で死んだ。
栄凉寺の墓地は、ところどころ墓石が倒れていた。ちょうど一ヶ月前に起きた中越沖地震の影響だろう。
そんな中、河井家の墓は実にひっそりとあった。案内の看板と石柱がなければ、きっとそれとはわからなかったにちがいない。
墓前にはわずかながら花が添えられていた。今朝方、立てたと思われる線香の灰が白かった。しかし、あまりにひっそりと存在しすぎる感があり、私にはこれがとても長岡藩軍事総督の命日の墓前とは思えなかった。今日でも河井家の積年の配慮が続いているのだろう、と思った。
私はしばらく境内を歩きまわった。同じ墓地には藩主・牧野氏の墓もあったが、さすがにこちらは立派なつくりをしていた。
三〇分ほど境内にいただろうか。その間、河井家の墓を参る人はただのひとりもいなかった。
寺をあとにし、この長岡で宿泊するホテルへと向かった。歩きながら、何ともいえぬ気持ちになっていた。栄凉寺の墓のありさまが頭を離れずにいた。
ホテルは駅前にある。駅前は人も閑散としており(盆休みのただなかであり、日常はもう少し人は多いかもしれない)、落ち着いた雰囲気だった。私はその空気を好ましいと思った。
今どき、土地柄というものは高校生の姿に表れやすいのかもしれない。長岡の駅前には、いわゆる今どきの高校生がきわめて少いように感じた。男子も女子も、何となくたくましそうな子が多く、素朴な感じがして好感が持てた。
「藩風」
という言葉は現代においては死語であろうが、そういうものがこの長岡の地ではいまだ少なからず影響を及ぼしているのではないか。長岡の藩風、それは雪深き土地固有の我慢強さであり、幾多の戦禍から立ち上がった不屈の精神である。
もちろん駅前の様子のみでそれらを判断することはできないが、私にはそう思いたい気持ちが多分にある。
(つづく)
|