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『峠』を歩く A
会見の間(慈眼寺)
戊辰戦争において長岡藩の戦いほど激烈をきわめたものはなかったかもしれない。また、長岡のまちは太平洋戦争の際も空襲に遭っている。昭和二十年八月一日のことだった。長岡はその歴史の中で二度も焦土と化していることになる。
「長岡は二度も焦土から復興した、ということが長岡人の誇りとなっている」
と、長町にある「河井継之助記念館」のガイドさんがいっていた。そういった自尊心を大切にしながら長岡の人々は生きてきたのだろう。
さて、その激烈な長岡戦争のことである。
その古戦場を見たいと思ったが、そもそも長岡駅周辺が古戦場なのである。長岡戦争では市街戦も展開された。戊辰戦争ならではといえるかもしれない。
それにしても、長岡駅周辺は思ったよりもうんと平地だった。つまり長岡城は平地のど真ん中にあった。西には信濃川が天然の堀の様相を呈してはいるが、あくまで西面のみであり、城自体は典型的な平城でありすぎ、とても戦争ができる立地ではない。その無防備さには戦争の匂いは感じられない。
ただ、これは当然といえば当然のことで、徳川時代の築城は幕府への遠慮が大きな主題となっている。そこには不逞の気持ちを表す要因が微塵もあってはならず、それは長岡城とて例外ではなかったのである。
長岡にて典型的な戦場の雰囲気を感じようと思うのなら、長岡駅からもう少し南へくだるとよい。長岡市と小千谷市の境に、榎木峠・朝日山がある。ここは長岡戦争の発端となった戦場である。
小千谷といえば「小千谷会談」が有名である。「武装中立」を唱えた河井継之助が、その和平交渉をすべく、小千谷に駐屯していた官軍の本陣に赴いた。継之助は数人を引き連れるのみだった。応対したのは、土佐出身の岩村精一郎という、わずか二十四歳の新米軍監だった。
交渉は三〇分で決裂した。どうやら岩村にははじめから継之助の話を聞く耳などなかったらしいが、もしこのときの官軍の交渉役が長州の山県狂介(のちの有朋)であったなら、もしかしたら戦争は回避できたかもしれない。
とにかくこの瞬間、開戦が決まった。開戦するやいなや、榎木峠および朝日山にて両軍の攻防戦が繰り広げられた。
二日目は朝からレンタカーで、小千谷の慈眼寺に赴いた(レンタカーで行くとなるといかにも情緒というものに欠けてしまっていけないが、致し方ない)。慈眼寺は小千谷会談の行われた場所である。
寺の門をくぐったとき、境内のあちこちに修復の跡があるのが目についた。三年前に起きた新潟県中越地震により、この寺が大きな被害を受けたのはニュースで知っていたが、修復作業はどうらや一通り終わっているようだった。
境内に子供たちの声があふれている。寺に隣接するかたちで幼稚園が設置されているのである。園児たちはちょうど寺の本堂前に置かれた簡易プールで水浴びをしていた。男の子も女の子も素っ裸で走りまわっていた。それらの姿にやや戸惑いながら、寺務所の戸口に声を掛けた。
応対してくれたのは若い女性で、私を本堂へと案内してくれた。本堂のもっとも北側の間が、会見の間だった。
住職は本堂の中央でちょうど読経の最中だった。その朗々とした声を聞きながら、私は会見の間に立ち、歴史の一場面を思い起こした。会見の間を出たところに展示棚があり、何やら遺品らしきものが並べてあった。その中に司馬遼太郎さん直筆の色紙があった。それをじっと見つめていると、読経を終えた住職が声を掛けてくださった。
「司馬さんがいらっしゃったとき、私も家内もいませんでね。私の亡くなった母がこの部屋(会見の間)で半日、お相手したのです。予告がなかったのですよ」
私を司馬ファンと察してくださったのか、そう教えてくださった。
「私は歴史はまったく苦手だから、人が来るとなるべく逃げ回ってるのですよ」
と笑われる住職は、たしかに小千谷会談についてはさほど話をされなかったが、当時の砲弾についてだけは饒舌に話された。どうやらご自身が太平洋戦争でそういったものを扱った経験があるらしい。
慈眼寺を辞し、東へ向かった。そこには信濃川が流れている。
「川の王者をえらぶとすれば、この川のほかにはあるまい」
と書いたのは、海音寺潮五郎だったか。その水面は曇り空を映し出して暗い色をしていたが、日本の川としてはやはり雄大であり、興味をひかれた。
川を越えたところに長岡戦争の古戦場がある。榎木峠と朝日山である。私はぜひ朝日山(標高三四一メートル)に登ってみようと思っていた。
登山口でレンタカーを降り、そこからひたすら頂上をめざして歩くことにした。道は当初、アスファルトの道が続いていたが、途中から道なき道をいく様相となった。どうやら日頃、登山者は多くないらしい。
少々不安な気持ちをもちながら、息も切れ切れに登るしかなかった。こんな瞬間には当時、この山道を行軍した藩兵たちの苦難がしのばれる。峠ひとつ落とすことがいかに大変なことであるか。しかも雨中の行軍となるときもあるのである。
山道の途中、ふと振り返ると、山の斜面の隙間から長岡の平野を見ることができた。長岡藩兵なら、あの平野を何度も振り返って見たことであろう。それにしても、人影がまったく見当たらない。
山の頂上には三〇分ほどで到着した。山頂には休憩所が設置されていた。周囲を見渡すと、当時をしのばせる遺構がいくつもあり、塹壕跡なども現存していた。
案内板に時山直人の名があった。たしかに時山はこの山頂付近で死んでいる。
時山は長州人で、松下村塾の門下生だった。気概あふれる人物で、そのときも奇兵隊を率い、右肩に白刃を背負いながら霧の中を這うように登ってきたらしい。頂上を守るのは長岡・桑名藩兵だった。その桑名藩隊長は立見鑑三郎という人物だったが、彼は「いくさは立見」といわれたほどのいくさ名人で、見事に味方を操り、奇兵隊を返り討ちにした。その混戦の中、時山は死んだ。被弾による即死だった。味方がその死体を収容しようとしたがかなわず、やむなく首を切り落とし、それだけを持ち帰った。
北越の古戦場といえば、
「八丁沖」
も訪れないわけにはいかない。当時、長岡城の北東約四キロのところに大きな沼があった。八丁沖といい、長さが四キロあった。
長岡藩兵の奮戦むなしく長岡城は落城したが、二ヶ月後、何と継之助たちは長岡城を奪還している。常識的に考えれば城の奪回など不可能だった。城をとった官軍は、城を背負って前線を展開している。兵の数は官軍の方がはるかに多く、隙がない。
継之助は考えた。何と長岡藩兵七百人に、折からの雨季で増水している八丁沖を、深夜から明け方にかけて渡らせたのである。当時の藩兵が記した『槍隊戦争記』にいわく、
八丁沖は長岡第一の大沼にて、真中に萱野生い
茂り、無双の難所也。(中略)敵の番兵篝火を焚き、
固守致居候真中を潜行するその心苦しさ、言語に
絶えたり。(中略)深田にて萱野生い茂り、泥は膝
より上を過ぎ、艱難言語に絶えたり。
どう見ても非常識の策だったが、非常識をやらねば長岡藩に生きる道はない。すべては隠密行動である。暗闇の中、七百人は無言でところによっては底なしといわれた沼を、青竹を杖代わりに進んだ。全員が沼を渡り切るのに朝五時まで、七時間かかったという。
その後、全員が城へと突撃し、長岡城を奪還した。このときばかりは長岡城にいた山県有朋も、命からがら逃げるしかなかった(その四日後、長岡城は再び陥落している)。
現在、八丁沖は見事に干拓され、広大な美田となっていた。当時をしのぶものは何もない。しかし、八丁沖の故事を知るものは、その青々とした美田にさえ悲哀を感じる。
当時、八丁沖を渡りきった藩士たちは、
「長岡に死にに来た」
と口々に叫びながら城に攻め入ったという。
すべてが切ない、八丁沖の地であった。
(つづく)
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