『峠』を歩く B

  
          継之助終焉の地、只見


 継之助終焉の地は、現在の福島県只見町である。
 旅行の最後日、私は再びレンタカーを借り、長岡から只見をめざした。
 道中、峠をいくつか越える。越えるとき、思わず声が出たのが六十里越だった。六十里越は新潟県と福島県の県境であり、今はトンネルが走っている。そのトンネルを越えると、眼前にすばらしい山と水の景色が広がる。田子倉湖だった。どうやら田子倉ダムによって人工的にできた湖らしい。人工とはいえ、それにしても雄大な眺めである。
 しかし、この山道はなかなかつらい。長岡からの道のりは八十キロ弱ある。いかんせん山道でありすぎ、運転していても車酔いしそうだった。
 ちなみに、鉄道ではJR只見線というのが有名らしい。鉄道ファンなら必ず知っているといい、その眺望がすばらしいという。そうであろう。
 只見町役場を通りすぎ、大きなT字路にさしかかった。ちょうどそこに叶津番所跡があった。
 長岡戦争で長岡藩は敗れた。
 継之助はこの戦争の終盤、左膝に銃弾を受けた。重傷だった。以後、継之助は指揮不能となり、長岡藩の負けをはやめた。
 動けなくなった継之助は、下僕がこしらえた辻籠のような担架に乗せられた。会津へ落ちるためである。
「置いていけ」
 と彼はさかんに叫んだが、周囲はそれを許さなかった。傷はむごいほどに痛んだが、継之助はうめき声ひとつ立てなかったという。それが武士というものだった。
 担架は八月二日に見附を発ち、翌日、吉ヶ平に着く。四日、八十里越にさしかかったとき、継之助は自嘲を込めて、

  八十里 こしぬけ武士の 越す峠

 と詠んだ。この頃、左脚はもはや腐敗し、高熱が続いていた。
 五日、只見村に到着。そのときに泊まったのが、叶津番所だった。
 つぎの日から一週間ほどは五十嵐家に移り、当時名医として名高かった松本良順の診察も受けている(良順は包帯を取り替えたのみだった。もはや手遅れだったのだろう)。
 十二日、塩沢村の矢沢家に入る。
 十五日、容態が急変、翌日午後八時、死去。享年四十二歳。
 矢沢家は昭和三十七年まで現存したが、ダムの建設工事のため水没した。現在は、継之助が最期を迎えた屋敷の一室のみが、近くにある記念館内に移築されている。
 記念館の裏手に、医王寺という寺がある。そこに継之助の墓がある。継之助の遺体はすぐに下僕の手によって焼かれ、骨が拾われた。その残りの骨を地元の村人が拾い集め、墓をつくったのがそれである。

 晴天の昼さがり、ダムの水面は静かであった。水面を眺めながら、継之助のことを考えた。
 継之助の評価というのは、両極に分かれる運命にある。事実、全国的には人気があるのに(それは多分に『峠』の影響だろうが)、地元ではまったく反対の評価を受けてきた。そういった地元での評価は今も不変であり続けるのか、という疑問が長岡駅に降り立った瞬間から私の頭にはあった。
 実は旅行の二日目、私は長町の記念館のガイドさんにその質問をぶつけてみた。ガイドさんは地元長岡の人で、齢七十ほどの好々爺だった。私はその人に一時間ばかり展示品について案内をいただいたが、最後の最後にやや勇気を出して、
「継之助のことを讃えると怒り出すような人がいるとか、そんなことは今どき、ないですかね」
 と尋ねてみた。
「今どきはないと思いますけれども、まあ、親父の代ぐらいまではあったんじゃないですか。あのひとのおかげで、という。今は……まずないと思います。まずひとつは、人間というものは『健忘症』であるということ。もうひとつは、時代を経てやっと理解してもらえたということ。『なるほど、そうだったんだな』と……」
 その後、ガイドさんの継之助論はしばらくやまなかった。やむどころかついには五十六論にまで飛躍し、私が記念館を出たときには閉館時間をとうに過ぎていた。

 きっと継之助は聡明でありすぎた。おまけに彼は陽明学者なのである。陽明学は一種の原理主義であり、それを突き詰めるとそれを行う者の身を滅ぼすこともある。継之助がきっとそれであった。さらにいえば、長岡藩の生き方は彼の陽明学の体現であったかもしれない。その評価はたしかに難しく、栄凉寺の墓の姿も現在の評価なら、ガイドさんの話も現在のそれといえた。長岡戦争直後、地元の庄屋が、
「河井の評価は二十年も経たねえとわからん」
 といったらしいが、もしかしたら二百年くらいは必要な話なのかもしれない。
 結局、私は継之助をどう評価したらよいのか、わからずじまいでこの旅を終わろうとしている。それにしても今回の旅は、何やら終始寂しくていけなかった。こんな思いを持ち続けながら旅をしたのは、はじめての経験である。つまり、私たち『峠』を一度読んだ者にとって、河井継之助とはそういう人物であった。

 ダムには風がほどよく凪いでいる。静かな山の夏である。
 白い鳥が二羽、湖面を低く飛んだ。このあたりは白鳥の飛来地だという。冬には真っ白な白鳥の姿が見られるのだろう。
 真夏の空のもと、只見の自然は透きとおるように美しかった。
                              (完)