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宝 慶 寺
現代において、名刹とよばれる寺が創建のころの風(それは風景・精神のいずれをも含む)を維持していくというのは、きわめて困難なことのように思われる。
先日、私は越前の名刹・永平寺を訪れたが、商業主義を顕わにしたようなそのたたずまいには、ただただ閉口するしかなかった。無論、今日でも永平寺の奥では厳しい修行を行っている雲水がいる。しかし、それと表裏一体のところで露骨に俗化した教団の姿を見せられては、失望の念を抱かずにはいられない。
そうはいっても、創建時の風を今も大切に伝える古寺がさがせばあるはずで、そんな古寺に巡り会いたいと思いながら、今一度、越前を訪ねてみた。
あてがあった。かつて司馬遼太郎さんが『街道をゆく』で訪れた、
「宝慶寺」
がそれで、私は祈るような気持ちで山中にそれを訪ねた。
私のあてには根拠があった。道元はもともと教団を組織し、寺を大きくしようなどという思惑はなかった。それをやってしまったのは、道元より数えて三世の義介という僧で、つまり義介以降、永平寺は、
「俗化主義」
のみちをたどった(このあたりの経緯は他宗も同じようなものであり、曹洞宗のみを責めるつもりはない)。
その流れに真っ向から異を唱えたのが、寂円という宋僧であった。彼はかつて、留学僧として宋に渡ってきた道元とともに禅を学んだ人で、その過程で道元という人物に心酔し、道元が日本に帰国すると、自らもあとを追って来日してしまった。以後、道元を師と仰ぎ続けた。道元の死後は山に入り、山中に宝慶寺を開き、道元の禅風をひとりで守ろうとした。その行為には禅に対する直向きさが滲み出ており、私は好感を持った。
そういった祖をもつ宝慶寺なら、今日においてもいにしえの風を伝えているのではないか、と期待したのである。
宝慶寺は、たしかに山中にあった。大野市役所からは道のりにして一〇キロほど離れている。その山道を車で上っていった。山道は最後までそれほど細くなることはなく、寺の駐車場へと続いていた。
駐車場で車を降り、背の高い杉の木に囲まれた参道をしばらく行くと、整備したばかりで趣など微塵もない石段があってがっかりしたが、その先にはこじんまりとしながらもかたちのよい山門があった。山門はほどよく古色を帯びており、小規模な山寺に実によく似合った。
山門をくぐると、本堂があった。本堂は昭和四十四年に改築されたものそうだが、別段どうということはない。ただし、屋根はかなり新しいようで、きれいすぎる瓦が人々に威を与えるように並んでいた。
本堂と廊下でつながっている向かって左手の建物には、雲水の姿が見え隠れしていた。その姿に、私は何となく緊張感を覚えた。
私には是が非でも見たいものがあった。
「道元禅師観月の像」
である。学校の教科書などに必ず登場する道元の肖像画の実物は、何とこの寺が所蔵している。それはおそらく境内の宝物殿に収められているのだろうが、宝物殿には施錠がしてあり、気軽に見ることができるような雰囲気ではなかった。
私はやや勇気を出し、本堂の右手にある寺務所らしき建物を訪ねた。
声を掛けると、中から外国人の雲水が現れた。あとで聞くと、この雲水はポーランド人だという。日本語は達者なようで、その雲水にしばし待つようにいわれ、従っていると、今度は齢三十前と思われる若い雲水が出てきて、
「では、こちらへどうぞ」
と、私を宝物殿へといざなった。この雲水には、まだ頼りなさが漂っていた。
「修行をはじめて二年半になります」
と自ら語ったが、そういわれれば納得できる気がした。
振り向くと、さきほどのポーランド人の雲水もついてきている。どうやら雲水になって間もないため、観光客と一緒に宝物殿を見て、学ぼうということらしい。
宝物殿はいつでも公開しているわけではなく、とくに要請があったときのみ開くようである。そんな話をしながら若い雲水は鍵を開けた。
中にはいくつもの掛け軸や文書などがあったが、私の目はすぐに一箇所にひきつけられた。そこには、教科書でなじみのある道元禅師の姿があった。
その顔を凝視してみた。道元のそれは、あごがやや上に上がり、口をわずかながら尖らせるようにして結んでいる。目は決してやさしくなく、禅風の厳しさを表すには十分な様子で、こちらが下手なことを申せば、容赦なくいい倒されてしまうような、そんな威を感じさせる像である。それにしても、深みのあるいい絵であった。
私たちは宝物殿から出た。すると、雲水はすぐにまた宝物殿の扉を施錠してしまった。道元の肖像画は、この寺にとってそういう扱いをすべきものであった。
私は感謝の意を込め、雲水に頭を下げた。すると、雲水も私に向かって静かに礼拝し、そのまま山門をくぐって社務所のほうへと消えていった。このとき、それまで続いていた緊張感がやっとゆるんだ。
宝慶寺という寺がどれほど寂円の禅を今に伝えているのか、その判断はやや難しい。たしかに、境内の様子には残念な要素もいくつかあった。雲水たちの仕草に何となく凛とした感じがなかったのも、そのひとつである。
しかし、今でも道元の肖像を気軽には見せようとせず大切にしているさまや、観光客がさほど多くない現状は、好ましいものであった。そういった多少、閉鎖的な面を保ちつつ、来る者に少なからず緊張感を要求する存在というのは、今時にしてはいにしえの風を割合よく守っているといってよいのではないか。
永平寺で失望した私としては、いくつか気になることはあったとしても、この宝慶寺のほうが道元に近い気がするのである。
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