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三浦半島にて @
戦艦・三笠
三浦半島を旅することにする。三浦半島の歴史は、東側と西側とでは大きくちがっている。東側の歴史は、海の歴史である。たとえば、日露戦争のときに活躍した戦艦・三笠を展示する横須賀があり、ペリーが来航した浦賀がある。一方、西側は鎌倉の歴史である。源頼朝が幕府を開いた鎌倉は、三浦半島の西の付け根に位置するが、この鎌倉を訪れずして三浦半島の歴史は語れない。この半島の東西の歴史を、やや欲ばって二日間のうちにめぐろうというのが、今回の私の目論見だった。
Mくんは仕事の都合で、初日の夜から合流することになっている。Mくんと合流するまでは、一人でレンタカーに乗り、半島の東側をゆくことにした。
新幹線を新横浜駅で降り、その足でレンタカーを借りに行った。旅先でレンタカーを借りることが多くなっている。私が訪れるところは、しばしば電車で行くには不便なところであり、それを考えるとレンタカーは実に便利なもので、重宝する。
しかし、Mくんは横浜の街を私が車で走ることを心配した。横浜の街は人が多く、当然ごちゃごちゃしており、坂も多い。もともと運転が得意でないのに大丈夫だろうか、というのである。
Mくんの危惧は、やや当たった。まず、新横浜駅周辺の細々とした道に難渋し、やっとその周辺から抜け出したかと思うと、大きな道の大量の交通量に驚かされた。おまけに、やはり坂が多い。一刻もはやく有料道路に入ろうと思った。こういう場合、有料道路の方が数段、気楽で安全である。
保土ヶ谷から横浜新道という有料道路に入り、道はそのまま横浜横須賀道路に接続した。この日は快晴だった。青空のもと、横須賀に向かって車を走らせるという贅沢さを私は味わった。
横須賀では戦艦・三笠を訪れたかった。三笠は、明治三十五年(一九〇二)、イギリスの造船所で建造された。日露戦争における日本海海戦では、連合艦隊の旗艦としてロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎え撃ち、果敢に戦い、勝利に貢献した。その三笠は今、横須賀の海に「永久停泊」している。
日露戦争については、司馬遼太郎さんが小説『坂の上の雲』にて詳細に描写している。私も一度だけ全巻を読んだが、これほど疲労感を感じる小説も少なかろうと思った。まるで自らが戦場にて戦っている気分になり、ロシアの圧倒的な強さに閉口し、はやく戦争が終わってくれたらいい、とすでに結末を知っている読者らしからぬ感想をもちながら読みすすめた。であるから、奉天会戦の最後の場面で、「雲霞のごとき大軍」が地を覆って動き、その動きは地平の果てまでつづいたというが、それがロシア軍の大退却とわかったときには、私は心底感動し、安堵した。
その後、小説は日本海海戦に関する描写に移っていく。
日露戦争についてである。
当時の日本にとって最大の懸案事項は、ロシアの軍事拠点の拡大だった。ロシアには古くから「南下癖」とでもいうべき性質があり、日本はそれを恐れつづけた。
北清事変を機に、ロシアは満州を事実上、占領し、その後も駐兵をつづけた。さらに南下の姿勢を見せるロシアに危機感を感じた日本は必死の抗議を重ねるが、ことごとく無視される。伊藤博文が提案した日露協商も合意には至らなかった。このままではロシアの南下を止められないと判断した日本は、大国・ロシアとの対決を決意せざるを得なくなった。
この戦いはまさに綱渡りだった。相手は世界に軍事力を誇るロシアである。日本は開戦の二年前に日英同盟を締結し、イギリスから支援を受けることができたとはいえ、戦力的には圧倒的に不利だった。よって、この戦争の本質は、
ロシアという大男の初動動作の鈍重さを利用し
て、立ちあがりとともに二つ三つなぐりつけて
勝利のかたちだけを見せ、大男が本格的な反応
を示しはじめる前にアメリカというレフリーに
たのみ、あいだへ割って入ってもらって止戦に
もちこむというものであった。(中略)この点
をひとつでも踏みはずせば、日本は敗亡すると
いうきわどさである。
(司馬遼太郎著『坂の上の雲』より)
という司馬さんの言葉に集約されよう。この日露戦争と、たとえばのちの太平洋戦争とを比べた場合、決定的にちがう点といえば、「終点」を明確に意識していたかどうか、ということになる。日露戦争の場合、まずは「判定勝ち」を前提とし、いかに勝負を五分五分あるいは六分四分へともってゆくかという点にのみ神経が注がれた。その際、太平洋戦争のときにように「大和魂」で苦境を乗り越えよ、というような非科学的な精神論がまかりとおるようなことは少なかったはずで、ましてや、
「日本の兵隊さんは強いと聞いているからなんとかなるだろう」
とノモンハン事件のときにつぶやいた日本軍の総指揮官など、日露戦争の時分にはいるはずもない。
つまり、日露戦争はのちの太平洋戦争とは性格がまったくことなる祖国防衛戦争だったと考えたい。「祖国防衛」であったかについてはいろいろな考え方があろうが、ただもし日本が日露戦争を戦わなかったら、あるいは日露戦争に負けていたなら、今ごろ私たちがロシア語を喋っているかもしれない可能性を、日本人であるなら一度は真剣に考えた方がよい。
この日、三笠が展示してある三笠公園では、「シーサイド・マラソン」なる大会が催されており、公園周辺は人でごった返し、駐車に苦労した。
車を降り、公園内に入ったが、とにかくどこにも人があふれ、すぐそこに見えている戦艦の巨体に近づくことさえ難しい。
どうやらたった今、走り終わったらしいランナーの群れをかきわけ、三笠への登艦口へと辿り着いた。五百円を払い、中へと入る。
戦艦に乗るのははじめてだったが、甲板に立ったとき、私は正直、軍艦にいるという感覚をほとんどもたなかった。そこら辺に子供たちが歩き回っている光景を見てしまっては、軍艦を軍艦と感じることは難しかったかもしれない。そもそも、この三笠自体がすでに「展示物」であり、軍艦としての魂が抜かれてしまっている。
それでも、甲板を歩き回り、艦体側面に突き出る補助砲を擬似的に操作してみたり、中甲板に下りては艦長室や士官室などを見るうちに、戦艦というものの存在がわかってくるような気がした。
甲板を歩きながら、艦長というものについても考えた。戦艦は場合によってはその艦体がそのまま鉄の棺桶となる。そうならないための艦長という存在が、どれほど戦闘員にとって神々しく、ときに父親のように頼りになるか、ということである。日露戦争の場合、その艦長が東郷平八郎(一八四七〜一九三四)だったことが日本にとって最大の幸運だった。彼を連合艦隊の司令長官に指名したのは当時、海軍大臣だった山本権兵衛だった。山本は「海軍の父」といわれるが、彼にとって生涯最大の功績は、もしかしたら当時、無名に近かった東郷を司令長官に抜擢したことかもしれない。
もっとも胸が躍ったのは、艦橋の上にある最上甲板に上ったときだった。通常、海戦がはじまると司令長官は艦橋内にて戦況を見守ればよい。日本海海戦のとき、東郷はそうはしなかった。艦橋上の最上甲板に愛用の双眼鏡をもって立った。
吹きさらしの床一枚の構造で、敵弾が海中に落
ちてあがるしぶきを頭から浴びる場所である。
開戦中、東郷はここで立ちっぱなしだった。海
戦がおわってかれが降りたあと、靴の裏のあと
だけが白く乾いて残っていたという。
(司馬遼太郎著『街道をゆく 三浦半島記』より)
この一事からも、東郷平八郎という人物の人となりがうかがえる。同乗する戦闘員にとっ
て、こういった指揮者の存在ほど心強く感じるものはないだろう。結局、一二二メートルある三笠の艦体は、当時、世界最強とよばれたバルチック艦隊を迎えても「鉄の棺桶」にならずにすんだ。
三笠の見学を終え、降りてきたころには多くのランナーの姿はなかった。さきほどは人にまみれてほとんど目立たなかった公園内の東郷平八郎像も、今なら写真に収めやすかろう。
公園を出て、横須賀街道の西に広がる商店街を少し歩いてみた。商店街をさらに西へ抜けると、そこは、
「ドブ板通り」
である。横須賀といえば海軍カレーが有名だし、「スカジャン」を売ったりする店もある。そういったものはドブ板通りこそメッカで、歩きたい気分もあったが、何せ時間がなかった。これから海岸線沿いに南下し、浦賀へと行かねばならない。後ろ髪を引かれる思いで横須賀をあとにした。
しかし、今から思えば、おかげでわが懐は寂しくならずにすんだ。衝動買いの得意な私が、本場のスカジャンなど見せられれば、着ても到底似合わぬのを承知で、きっと買ってしまっただろう。ちなみに、スカジャンの相場は最低でも一〜二万円である。
(つづく)
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