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三浦半島にて A
久里浜から衣笠へ
浦賀・久里浜に向かっている。
ペリー(一七九四〜一八五八)が黒船で浦賀沖に現れたのは、嘉永六年(一八五三)六月三日午後二時ごろだった。ペリーは突然やって来た。船は四隻だった。
ペリーの目的は、当時のアメリカ大統領・フィルモアの親書を日本に手渡すことだった。その内容は、見た目には両国の友好を願うものだったが、要するに今後、アメリカ船の入港を許可し、食料・水・燃料を積み込んだり、船の修理をしたり、さらには貿易をさせてほしい、ということだった。もちろん、軍艦四隻の姿は、そのまま恫喝を意味する。
日本の慌てぶりは凄まじかった。驚天動地とはこのことで、まず浦賀周辺の庶民は逃亡をはかった。かわりに、諸藩およびその江戸屋敷から人が来た。黒船到来の第一報を受け、それを確認するためである。
たとえば、吉田松陰(一八三〇〜五九)の場合。彼は当時、脱藩の罪を得て家禄を没収され、毛利家を召し放たれていたが、同時に長州藩士のハググミ(公式の居候のようなもの)の身分となり、修行と称して各地を歴訪していた。嘉永六年のころは江戸におり、佐久間象山の塾に出入りしていた。
六月三日、彼は何も知らず塾にいた。
翌四日。彼はなおも江戸の町をほっつき歩いていた。藩邸へ行く途中、はじめて知り合いに黒船の話を聞いた。真っ青になった彼は、すぐに佐久間のもとへ走った。留守をしている門人以外は誰もいなかった。すでに浦賀に急行していたのである。
松陰という、後日、諸人から神のごとく崇められた人物は、これで結構ドジな面があったらしい。鉄砲洲まで走ったが、そこから舟で行こうとした。やっとのことで漁師の小舟を雇ったが、風がないため漁師はつぎの日まで舟を出さなかった。
五日。朝四時に風が出て、松陰は舟上の人となった。しかし、いかんせん微風だった。午前十一時を過ぎてもまだ品川海岸にいた。
舟をあきらめた松陰は、そこから「心はなはだ急ぎ、飛ぶが如く飛ぶが如く」陸路を駆けに駆けた。
途中、保土ヶ谷で左折したころ、わらじのひもが二つとも切れた。そこからは素足で走った。あまりの急ぎように、彼を飛脚に見まちがえた者もあった。今の横浜市磯子のあたりで今度は便船に乗った。結局、夜の十時すぎ、浦賀に着いた。辻々には篝火が燃え、道は昼間のように明るかった。
以後、松陰は佐久間たちとともに黒船を見物している(あるいは佐久間による実地教育といった方がよいかもしれない)。突然、黒船から白煙が上がり、遠雷のようなとどろきが湾内に響き渡ることがあった。威嚇のための空砲で、そのたびに日本人は震え上がった。
長々と吉田松陰の話をもち出したのは、その行動が当時の日本人の気分を象徴的に表しているからである。もちろん、松陰ほどの行動家はまれだが、その分は差し引いたとしても、当地の日本人の中には、松陰と同じく未知なるものに対する不安と好奇心とが入り混じった感情がうごめいていた。
浦賀の海岸線を走っている。その先には、
「久里浜海岸」
がある。黒船が姿を見せて六日後の六月九日、ペリー一行は久里浜から日本に上陸した。当時、浦賀奉行だった戸田伊豆守が幕府から応接役を仰せつかり、ペリーから親書を受け取った。ペリーは即答を求めなかった。が、翌年、返答をもらうために再来日することを戸田たちに告げた。
「今度は軍艦四隻どころではない。全艦隊を率いて来る」
ともいった。日本側にふたたび衝撃が走った。
久里浜の海岸には、冷たい風が強く吹きつけていた。人影も少なく、閑散としている。わずかに砂浜が広がっており、その陸地の奥には、
「ペリー公園」
があった。中央に大きな記念碑が建っていた。
「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」
と刻まれた字は、伊藤博文によるものという。
久里浜の海岸は、まさに歴史の舞台といえる。黒船来航のときは、芋を洗うような騒ぎだった。あれから一五〇年あまり経ち、この歴史の舞台はほとんど忘れ去られたかのようだった。私にはそれが好ましいことのように思えた。なぜなら、歴史の舞台の観光地化ほど、歴史を訪ねて歩く者をがっかりさせることはないからである。その点、久里浜の海はさほど観光地化されておらず、わずかに海の右手に海釣りの人々が見えるのみで、私は安堵した。
いよいよ陽が傾いてきたが、日没までにはまだ二時間ほどあったので、衣笠に向かうことにした。
衣笠の地には、かつて三浦氏の居城があった。
平安時代後期から戦国時代初期にかけて、三浦半島で勢力をふるっていたのは、三浦氏だった。三浦氏のはじまりは桓武天皇の流れをくむ村岡為通で、前九年の役で功があり、三浦半島を与えられ、三浦氏を名乗ったといわれる。
為通は、三浦半島のほぼ中央部にあたる衣笠山に城を築いた。それが衣笠城のはじまりだった。
さて、為通の三代あとに、
「三浦大介義明」
とよばれる人物がいる。
「大介」
というのがおもしろい。彼は、中央から来る国司に仕える次官、すなわち、
「介」
だった。よって本来なら三浦介と称するところ、なぜか大介と自称し、周囲もそうよんだ。
大介義明の名を広く知らせしめたのは、
「衣笠合戦」
とよばれる戦いだった。治承四年(一一八〇)、源頼朝が伊豆にて挙兵した。それに呼応せよ、という頼朝の使者が大介のもとにも来た。三浦氏は、もともと源氏にゆかりがあった。大介は病床にいたが、すぐに子の義澄らを伊豆に向かわせた。しかし、石橋山の合戦には間に合わず、衣笠城に引き返してきた。間もなく、それを追尾してきた平家側の畠山重忠の大軍が衣笠城を包囲した。
『吾妻鏡』によると、初日の戦いは勝負が決することなく終わった。衣笠城は典型的な山城であり、攻めるに難い。畠山勢は黄昏時を迎え、いったん引き上げた。一方、三浦勢はいかんせん兵が不足していた。義澄は、これ以上の籠城は一族の滅亡をもたらすと考え、父・大介に夜陰にまぎれて城を退くことを勧めた。大介はそれを拒否し、つぎのようにいった。
我、源家累代の家人として、幸ひにその貴種再
興の秋に逢ふなり。なんぞこれを喜ばざらん
や。保つところすでに八旬有余なり。余算を計
るに幾ばくならず。今、老命を武衛に投げうち
て、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去
して、彼の存亡を尋ね奉るべし。我一人城郭に
残留し、多軍の勢に摸して、(平)重頼に見せ
しめんと云々。
(『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条より)
義澄たちは、この大介の厳命に従わざるを得なかった。泣きながら城から落ちた。
翌朝、大介は小雨の中、残った郎党と見事に戦ったが、ついに自刃した。享年八十余才、一説に八十九才という。
その後、安房で頼朝と合流した三浦一族は、直属軍として頼朝を助けつづけた。頼朝が鎌倉の地に幕府を開くと、頼朝は義澄を相模守護に、義明の孫・和田義盛を侍所別当に任ずるなど、三浦一族を重用した。
頼朝は大介の菩提を弔うため、建久五年(一一九四)、衣笠城に近い大矢部に満昌寺を建てた。寺は今日もある。
その寺に、大介の坐像(国重要文化財)がある。像高九七.五センチの木造で、写実性が実に見事だという。私は当初から衣笠山には登るつもりでいたが、ここまで来たのならその見事な像をどうしても見たいという衝動にかられた。
カーナビでさがすと、そう遠くはない場所に満昌寺があることがわかった。見せてもらえるかはわからないが、とにかく行こうと思った。が、ここからが遠かった。カーナビがあるにもかかわらず、何度も道をまちがえた。挙げ句の果てには、有料道路にまで乗り上げ、思わぬ遠いところまで運ばれた。
今から思うと、私がそのときぐるぐる回らされていたのは、往時の衣笠城の城域そのものだった。衣笠城は、かなり大規模な山城だったらしい。私は衣笠城にいいようにあしらわれた。
大介も呆れるであろうほどに旧城域を走り回ったあげく、やっと満昌寺を見つけた。わずかばかりの石段を駆け上がり、本堂へと向かう。本堂の脇に庫裡があった。恐る恐る戸口を開け、
「ごめんください」
と声をかけると、奥から齢七十余と思われる女性が現れた。来意を告げると、女性は申し訳なさそうに、
「今日は法要が四つもありまして……平日であればゆっくり見ていただけるのですが……」
とおっしゃった。やむを得ないとしかいいようがなかった。
大介像に未練を残しながら、この日の締めくくりとして衣笠城址を訪れることにした。
満昌寺の前の道をそのまままっすぐ北西に一キロほど行くと、アスファルトの道が突然なくなっている。その先に衣笠城址はある。車はここで駐めるしかない。
衣笠城は山城だから、当然、山道を行かねばならぬ。山道は細く、いささか急な道ではあったが、普段から人が通るようで、それほどの登りにくさはなかった。
一〇分ほど行くと、三人のグループとすれちがった。
「城址まであとどれくらいですか?」
「すぐそこですよ」
と先頭の男性が教えてくれた。たしかに、城址はすぐ近くにあった。
遺構はそれほどのものではない。さがせば空堀などの遺構もあるらしいが、私はそこまではしなかった。
遺構のもっとも高いあたりに、
「衣笠城址」
と刻んだ石碑が建っていた。その向こう側から、とてもやさしい色をした夕陽が差し込んできていた。間もなく日が沈もうとしていた。
やや急ぎ足で山道を下ろうとした。ふと右手を振り返ると、周辺の山々が夕陽に照らされ、まるでセピア色になっているのに気がついた。さらに遠くを見晴るかすと、かすかに海が見えた。きっと気の荒い関東武士といえど、こういった情景には美しさを覚えたのではないか。だとすれば、三浦氏は感動的な景色とともに日々を送っていたことになる。
ちなみに、鎌倉幕府の世になっても、この衣笠周辺は三浦氏が支配したが、それも宝治合戦(一二四七年)までだった。合戦後、三浦氏が滅びると、三浦氏の衣笠城は廃された。大介の死から七〇年ほどのちのことである。
(つづく)
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