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三浦半島にて A
鎌倉、そして……
Mくんと新横浜駅で落ち合ったのは、午後七時ごろだった。Mくんはかなりお腹をすかせていたらしい。私の顔を見るなり夕食の話になり、駅内にある洋食店を指さして、
「ここにしようよ」
の一言にて夕食の場所を決めてしまった。たしかに、横浜には洋食と中華料理が似合うかもしれない。そんなことを思いながら、店に入った。
Mくんはワインが大好きで、この日も案の定、解禁して間もないボジョレーを飲んだりした。ワインが少しも飲めない私にとっては、それだけでも格好よく思えてしまったが、同時に、横浜まで来て友がボジョレーを飲んでいるのを、指をくわえて見ているのもまことに情けないことのように思えた。
多少の勇気を出し、Mくんと同じグラスのボジョレーを注文してみた。私がワインを飲めないことを知っているMくんはここでも心配したが、なぜかこの日の私にはボジョレーが飲めた。横浜という雰囲気が気持ちを高揚させ、よって味覚までも変えてしまったのかもしれない。
二人でボジョレーを飲みながら、明日の行き先について確認した。明日、訪れるのは鎌倉である。とにかく早朝の澄んだ空気の中で若宮大路を歩いてみたかった。今夜、宿泊するホテルは新横浜駅の前にある。新横浜からだと、鎌倉に行くには五〇分ほどかかる。逆算すると、新横浜を午前七時前には出たかった。かなりわがままなお願いだったが、Mくんは快諾してくれた。ボジョレーの酔いがほどよくまわっていたにちがいない。
翌朝、ホテルを出たのは六時半ごろだった。寒い朝だった。駅前のマクドナルドで朝食をすませ、すぐに地下鉄に乗った。地下鉄で横浜へ行き、そこからはJR横須賀・総武線に乗る。
横須賀・総武線は、まるで浅い谷底を走っているかのようだった。つまり線路の両側は丘陵がきわめて多く、その上に家がたくさんあった。おどろいたのは丘陵の斜面にあるマンションで、建物全体がまるで階段のような造りをしており、斜面にへばりつくようになっていた。
それにしても三浦半島は、山の様子がよい。三浦半島は小さい。それがほとんど丘陵となっているから、おのずと坂は急にならざるを得ない。その坂の具合も、たとえばわれらの住む濃尾平野にはないもので、見ているだけで胸が躍った。
鎌倉駅に降り立ったのは八時前だった。とにかく寒い。鎌倉がこうも寒いとはやや意外な気がした。
鎌倉駅は、鎌倉の街の中央を南北に走る若宮大路のすぐ西の脇にある。よって、駅前から一〇〇メートルも歩けば、はやくも大路に突き当たった。その地点がちょうど、一.八キロある大路の半ばくらいで、そこから北に上れば、鶴岡八幡宮へゆく。私たちはそこをあえて右に折れた。大路を一の鳥居からゆきたいと思ったのである。
一の鳥居まで南下してみた。一の鳥居は石造りだった。そこから踵を返し、今度こそ八幡宮に向かって歩いた。まだ早朝とあって、観光客の姿はほとんどない。途中、
「下馬」
という名の交差点があった。かつての参拝者はきっとここらで馬を下りたのだろう。その交差点の近くに、JAの経営する野菜市場があった。そういえば、三浦半島には、
「三浦大根」
というユニークな大根があることを思い出した。三浦大根は首の部分が細く、尻に向って太くなる。長さは六〇センチほどもある。とても柔らかく、煮物やなますに向くというが、今まで本物は見たことがない。
店頭をさがしてみた。よく見かける大根はあっても、三浦大根らしきものは見当たらなかった。市場の人に聞くと、まだややはやい、出るのは十二月に入ってから、とのことだった。
二の鳥居まで来ると、大路の様子は変わる。この先、三の鳥居までは、
「段葛」
がつづく。段葛とは、大路の中軸に設けられた周囲より一段高い道で、つまりは八幡宮へつづく参道である。石塁を積み上げてできており、長さは五〇〇メートルほどある。源頼朝(一一四七〜九九)は鎌倉に入って数年ののち、この段葛および若宮大路の工事に手をつけている。そのときには、頼朝や北条時政さえ工事に参加し、家人とともに汗を流した。頼朝らの鎌倉のまちづくりに対する思いが伝わってくるエピソードである。
段葛の両脇には、枝々が妙に低い桜の並木がつづいていた。きっと春には人々のすぐ頭上で桜の花が美しく咲くにちがいない。
段葛は、とてもきれいに手入れされていた。日頃よほど気を遣っていなければ、これほどの美観は保てまい。
眼前を制服を着た二人の女の子が歩いていた。中学生だろう。よく見ると、この段葛を北に向かって歩く制服姿が少なくない。この子たちは毎日、この段葛を上って登校しているらしい。鶴岡八幡宮に向かって登校するなど、何と贅沢なことだろう。
三の鳥居あたりまで来ると、正面には八幡宮の社の朱色がはっきりと見えてくる。
三の鳥居付近でまたひとつの話を思い出した。西行(一一一八〜九〇)と「銀の猫」の話である。
歌人として有名な西行が鎌倉を訪れたことがある。八幡宮の社頭で頼朝に発見され、声をかけられた。その後、両者は夜を徹して語り合った。
西行は頼朝の屋敷で一泊した。翌朝、頼朝は謝
礼のしるしとして「銀作の猫」をあたえたと
『吾妻鏡』にある。(中略)西行が西門を出る
と、門前で子供があそんでいた。かれはいまも
らったばかりの銀の猫を、子供にくれてやっ
た。
(司馬遼太郎著『街道をゆく 三浦半島記』より)
私はこの話が何となく好きで、『街道をゆく』のこの場面は何度も読んだ。武権の象徴たる幕府の前で子供が遊んでいる光景が実に微笑ましくもあり、また、西行の行為も人間として清々しくてよい。
境内には、やはり人は少なかった。この八幡宮の特徴として、手前の舞殿の上に社殿の姿が見えている。社殿がかなり高いところにあることがわかる。
舞殿の脇を通り抜けると、長くて高い石段がある。この石段で源実朝が切られた。承久元年(一二一九)一月二十八日のことだった。享年二十八才。
石段の脇には有名な公孫樹の木がある。高さは三〇メートルほどあり、樹齢は一〇〇〇年を越えるというから、実朝の悲劇も目撃していることになる。私は、この公孫樹の紅葉を内心、楽しみにしていたのだが、目の前の銀杏の葉は呆れるほどに青々としていた。ほかの公孫樹に比べ、どうやらこの公孫樹は衣替えがのんびりしているらしい。
石段を登りきり、社殿の前に出た。後ろを振り返ると、やはり見晴らしがよかった。今来た舞殿の屋根の向こうに段葛がまっすぐのびており、枝しかない桜の木々の上に浮かび上がるように三つの鳥居が見えていた。若宮大路を南から来た者は、ついにはこの光景を見せられるような仕掛けにしたのかどうか、とにかく心に残る光景だった。
八幡宮を参拝した者は、そのまま東へ向かうとよい。そのあたりは、かつて頼朝が幕府の屋敷を置いたところである。
鎌倉を訪れたのなら、鎌倉武士の、
「潔さ」
について考えないのは、鈍感にちがいない。鎌倉時代の武士にとってはこの潔さこそ唯一の価値基準だったといってよい。
たとえば、鎌倉幕府の屋敷跡をやや北上すると、頼朝の墓がある。ここはもと法華堂のあった場所である。
大介の三浦氏は、大介ののちも頼朝をよく助けたが、大介のひ孫に当たる泰村のとき、時の権力者・北条時頼に狙われた。
鎌倉幕府は、権力の維持のために幕府の構成員である諸族をときに容赦なく抹殺した。梶原氏が追放され、畠山氏や和田氏も失脚し、つぎは三浦氏の番だった。
泰村らは勇敢に戦ったが、いかんせん多勢に無勢だった。敗色が濃厚になったころ、泰村は一族を法華堂に集結させた。一族が集まるとたがいに語り合い、かつてを懐かしんだ。時が来て、堂に集まっていた一族五〇〇人あまりがいっせいに腹を切った。
一族をこれほど見事に滅亡させた三浦泰村をしのびながら、法華堂の前にいる。
鎌倉武士は、三浦氏のみならずたしかに潔かった。加えて、虚飾を嫌った。そういった気分はまちづくりにも如実に表れた。たとえば鎌倉は、頼朝にとっては都そのものだったが、自らが覇王だったがゆえに軍都の性格をもたざるを得なかった。そのためには、都市の中央に朱雀大路のごとき若宮大路を配し、内裏として鶴岡八幡宮を置くだけでよかった。虚飾を徹底的に廃した。
それらは鎌倉時代における合理主義といってよく、その素朴な合理主義からは、
「切り通し」
という発想も生まれた。鎌倉に少しでもはやく援軍を迎えるためには、山を越えさせるのではなく、トンネルを掘ってそれを通せばよい、というのである。
法華堂より南へ一キロ弱も下ったところに、
「釈迦堂切通」
がある。見事な切り通しだった。穴の高さは一〇メートルを超えるのではないか。長さはそれほどでもなく、トンネルというよりアーチといった方がイメージとしては近い。岩肌は荒々しく削られているが、その感じがまた迫力があってよい。
私はそれがまるで一つの美術作品であるがごとく眺め、そして切り通しをくぐっては戻りを繰り返した。鎌倉という土地の本質は、きっとこういった切り通しなどにこそ表されている気がしてならなかった。
昼下がりに円覚寺を訪れた。ここの紅葉は三分くらいだった。
円覚寺の境内を歩きながら、あることが心残りでならなかった。
「大介に会いたい……」
昨日、見損ねた木造を何とかして見られないものか。まだ鎌倉の海も見ていなかったし、江ノ電にも乗っていなかったが、このときの私にとってもっとも必要だったのは、大介の姿を一目でも見ることのような気がした。見ないと、今回の旅に納得できそうになかった。
満昌寺に電話をしてみた。今日なら何とかお見せできる、という。胸が一気に高鳴った。
わが思いをいうと、Mくんは苦笑いしながらこれまた承知してくれた。Mくんは、いったら聞かない私の性格をよく知っているのだった。
衣笠駅までJR横須賀線で行った。衣笠駅は鎌倉駅から五つ目の駅だった。
駅前からはタクシーに乗った。二キロ半ほど行ったところに、昨日も訪れた満昌寺があった。
前日同様、庫裡の中に声をかけると、同じ女性が出てこられた。ああ、昨日の方でしたか、と少々意外な様子だったが、
「もう開けてございます。住職が不在でご説明はできませんが、どうぞご自由にご覧ください」
と、丁寧な口調でおっしゃった。
本堂の裏手に長くつづく石段がある。それを登りきったところに、宝物殿らしき建物があった。そこの戸口の錠が開けてあった。
建物の中に入った。そこには、大介をはじめとする三浦氏ゆかりの品々が展示してあった。そして、中央に厨子に入った大介の木造が鎮座していた。私たちは息を飲んだ。
その像には、おのずと威厳が備わっていた。こういう人物が怒ると、まことに恐ろしかったであろう。そんな印象を与える像である。
鎌倉時代末期の作と思われる。ほぼ等身大で寄木造、目には玉が込められている。かつては彩色がなされていたが、今はほとんど剥落し、古色を帯びている。衣冠束帯姿であぐらをかいており、右手にしゃくをもち、腰には太刀を帯びている。肩はやや怒らせている。顔はややうつむき加減にしているが、それくらいでちょうどよい。その鋭き眼差しに直視されれば、あらゆるものを見透かされそうに感じるかもしれないからである。あごにはひげを長くたくわえていて、その先は剣のようにするどい。頬はややこけている。いかにも武芸にすぐれていそうな顔立ちといってよい。口は固く結び、おでこはまことに広い。すべてにおいてうわさどおりの、見事な写実性だった。
「鎌倉武士の綺羅は、死である」
と、司馬さんはいう。そういったものを少しでも感じ取ろうとして、私はふたたびこの寺を訪れたにちがいない。さらにいうなら、三浦半島の真価は鎌倉の大仏や建長寺の紅葉にではなく、大介をはじめとする鎌倉の武士の剛胆さや潔さにある、ということを確かめたかったのかもしれない。
そんなことを考えながら満昌寺の門を出ると、門の脇にやや小振りな公孫樹の木があることに気がついた。この公孫樹は見事に黄色に染まっていて、それが夕陽に映え、美しかった。
三浦大介は、自らを大介と自称するあたり、何事にも自負するところが強かった。だから、たとえばこの公孫樹についても、きっと冥土で、
「頼朝公の八幡宮の公孫樹の色はまだまだなのに、わが菩提寺の公孫樹はもはや見ごろ。こればかりは拙者の勝ちでござる」
といって、自慢気に大笑いしているかもしれないと、ふと思ったりした。
前方には衣笠山が見えていた。昨日、かつて大介が死守せんとしたあの山頂の城址から眺めたセピア色の美しい風景を思い出した。あの風景をまた見ることがあるのかな、と思うと、なぜか鼻の奥がツン、となった。
(完)
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