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愛媛散歩 @
正岡子規の勉強部屋(復元)
作家・司馬遼太郎さんの宇和島びいきは有名である。
ある文章には「日本でいちばんすきなところは長崎と宇和島」と書いているし、その作品には『南伊予・西土佐の道』『花神』『伊達の黒船』『重庵の転々』など、宇和島を舞台とするものが少なくない。また、司馬さんのお手伝いさんは初代より四代つづけて宇和島人だったという。
これほどまでに司馬さんが好きだった宇和島とはどんな土地なのか。そんなことを知りたいと思い、宇和島を訪れることにした。四国を訪れるのは高校時代の修学旅行以来だから、何と十六年ぶりになる。そして、せっかくだから宇和島の手前にある、これまた司馬さんにゆかりが深い松山にも立ち寄ってみることにした。
ひとり旅である。飛行機が苦手な私は、必然的に新幹線とJR特急を乗り継いで行くことになる。片道六時間あまりの長旅である。
途中、岡山で乗り換えた。いよいよ四国へ渡る。四国へ渡るには瀬戸大橋を行くが、このときに私は大きな感慨をもった。それは、いよいよ四国へ上陸するということでもあり、瀬戸内海の海や島々を目の当たりにした感動でもあった。
海にはいくつもの小島が浮かんでいた。その間を大小の船が行き来している。穏やかな春の海だった。地平線が白く見え、その白い線上にも島影が見え、美しかった。これほどのどかな海をもしかしたら今まで見たことがなかったかもしれない。
久しぶりに上陸した四国は、春の日差しがやけに明るく、なるほど、これなら人間も陽気にできあがるはずだと思った。ただし、見るかぎりちっとも桜が咲いていない。この日、東京では満開を迎えたというのに、四国の桜はまだ一分程度にすぎない。そのかわりに菜の花がさかんに黄色かった。
十一時過ぎに松山に着いた。松山は思ったより肌寒く、私は多少、驚かされた。
まず向かったのは、
「子規堂」
だった。俳人・正岡子規が十七歳で上京するまで住んでいた住居を忠実に復元したもので、内部には子規に関するさまざまな資料を展示している。
子規堂は松山駅から一.五キロほどのところにある。行く道中、城山とその麓にある堀を見たが、いかにも城下町という風情が心地よく感じられた。私は城下町を歩くのが好きである。城下町には現代においても独特の雰囲気がある。何やら目に見えぬ秩序のようなものがあり、それが町全体を落ち着かせている。そして、この松山の城下もその典型といえるかもしれなかった。おまけに松山には路面電車がある。私の故郷のそれはすでに数年前、廃止され、とても残念な思いをしたが、ここ松山では今も観光客に大いに利用されている。ときに、
「坊っちゃん列車」
とよばれる復元された汽車まで走る。ポッポーという汽笛が聞こえてきたら、汽車がやってくる合図である。
子規堂では、受付のおばさんがおもしろかった。最初、話しかけたのは私の方だったが、このおばさんは元来おしゃべり好きなのか、子規にまつわることみならず、道後温泉にはランクがあって、しかしひとりで二階や三階に上がるのはもったいないだの、とべ動物園のシロクマ、ピースがとってもかわいいだのと、話が止まらなくなった。挙げ句の果てに、
「これ、内緒だけど……」
と、道後温泉の割引券までくれた。夏目漱石の『坊っちゃん』の舞台はいわずと知れた松山で、たしか作品中に描かれている松山の人々には世話やきが多かったが、ふとそんなことを連想させるおばさんだった。
私が『坊っちゃん』をはじめて読んだのは大学生のころだった。今回、松山を訪れると決めたとき、久しぶりに再読した。
夏目漱石は、慶応三年(一八六七)、江戸に生まれた。父は地元の名主だった。漱石はその五男で、本名を金之助といった。漱石は生まれてすぐに里子に出されている。まもなく戻されたが、一歳になって今度は養子に出された。どうやら漱石はよほどの余計者と思われていたらしい。七歳のとき、養父母の不和でふたたび実家に返されたが、このあたりのいきさつはとても複雑で、漱石は不幸な生い立ちであったといわざるをえない。
ただし、たしかに秀才だったらしい。漱石は東京府立中学(現・日比谷高校)を卒業し、十七歳で大学予備門(現・東京大学教養部)へ進んだ。その後、東京帝国大学にて英文学を専攻する。
漱石はその学生時代、かの正岡子規と交友を結んでいる。二人は大学予備門の同級生だった。漱石は子規の影響で俳句をつくるようになり、子規の弟子・高浜虚子の主宰する俳句雑誌『ホトトギス』に俳句や随筆を寄せたりした。
東京帝国大学を卒業後、漱石はすぐに東京高等師範の講師に抜擢されたが、二年後、松山へ転任する。
漱石が松山中学に英語教師として赴任するため松山の地を踏んだのは、明治二十八年(一八九五)四月だった。いくつかの宿を転々としたが、六月からはいわゆる、
「愚陀佛庵」
に下宿する。そのころも漱石と東京にいる子規とは交流があったが、この年の八月には子規が病気静養のため、松山に戻ってきた。その際、子規はこの漱石の下宿に五十二日間、寄宿した。このとき、子規門下の若い俳人グループ、
「松風会」
の句会が連日催され、漱石も参加した。もともと俳句に関心があった漱石にとって、子規と同居したこの五十二日間というものは宝石のような時間であったにちがいない。
漱石が松山で暮らしたのは一年である。漱石は正直に「小生当地に参り候目的は、金をためて洋行の旅費を作る」ためと書いている。どうやら漱石は破額の月給を用意されたらしい。そのための赴任であって、漱石はもともと教師になりたかったわけではない。実際、漱石は自身について「余は教育者に適さず」と断言している。
では、教育者としての漱石はどのような人物であったのか。いくつかの証言がある。たとえば、漱石先生は俳句集を教室に持ち込み、黒板に英作文の問題を書いておき、生徒がそれに取り組んでいるあいだ、その俳句集を熱心に読んでいたという。あるいは、授業の半分は教科書をやり、残りの半分は東京の話をした。皇居や泉岳寺、不忍池などについて上手に話をしたという。
『坊っちゃん』の登場人物「山嵐」のモデルとされる渡部政和氏の話では、漱石はきわめて温厚な性格で、きちっと洋服を着こなし、つねにハイカラだった。生徒が何をしても怒ることがなかった。生徒が授業中に窓から抜け出したり、悪態をついたりしても、漱石は机にもたれて両肘をつき、右手に鉛筆を持って淡々と講義をすすめた。どうやら「坊っちゃん」のような野放者ではなかったらしい。
漱石にとって松山は居心地のよい土地ではなかったらしい。子規あての手紙には「松山の住み心地はあまりよくない」「日々東京に帰りたくなるのみ」と書き送っている。(つづく)
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