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愛媛散歩 A
秋山兄弟の生家(復元)
子規堂のあと、私は昨年開館したという、
「坂の上の雲ミュージアム」
へ行くつもりでいた。その旨を子規堂のおばさんに告げると、何とミュージアムは今週、展示物入れ替えのため閉館しているという。私はがっかりしてしまった。
松山といえば、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』についても触れないわけにはいかない。『坂の上の雲』は、司馬さんが昭和四十三年四月から四十七年八月まで産経新聞に連載した長編小説である。正岡子規と軍人である秋山好古・真之兄弟を中心に、日清・日露の両大戦を戦った明治日本の様子を描いている。私はこの小説を読んで、その詳細な描写に驚かされるとともに、極度の疲労をも感じ、難儀した。小説を読んでへとへとになったのは後にも先にもこの小説だけだが、明治日本の人々の気概を知るには実によい小説といえると思う。
この『坂の上の雲』はおもに戦争の話だが、これを司馬さんが書いた動機は、どうやら正岡子規にあるらしい。
松山城の北に練兵場がある。或夏の夕其処へ行
って当時中学生であった余等がバッチングを遣
っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四
〜六人の書生が遣って来た。余等も裾を短くし
腰に手拭をはさんで一ぱし書生さんの積もりで
いたのであったが、其人々は本場仕込みのツン
ツルテンで脛の露出し具合もいなせなり、腰に
はさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルなどで
あることが先ず人目を欹たしめるのであった。
(高浜虚子著「子規居士と余」)
これは高浜虚子の文章だが、司馬さんはこの文章が大好きで、「『坂の上の雲』を書いた唯一の動機はこの文章による何事かであったといっていい」と書いている。司馬さんはよほど正岡子規という人物が好きだったらしい。そして、この文章が『坂の上の雲』を生んだとすれば、この小説は前半こそ味わって読むべきなのかもしれない。つまり、この小説は文庫にして全八巻あるが、子規が登場するのは三巻までで、そこまでに子規と秋山真之たちの交流がおもしろく書かれている。そういった書生の交流らしきことを司馬さんはきっとおもしろがって書いたにちがいない。書生というものへの羨望といってもよいかもしれない。そういったことを思い起こしながら、松山の町を歩くのも一興だろう。
秋山真之のことも書く。
真之は「知謀湧くが如き」といわれた明治日本海軍の名参謀である。日露戦争の際、日本海海戦というものがあった。戦艦・三笠の艦上に東郷平八郎が立っている絵図は有名だが、その東郷の脇で図版を持った姿で描かれているのが真之である。当時三十八歳だった。
幼少、真之はいわゆるガキ大将だった。母親似の小柄ながら、色が黒く、走るのが速かった。度の過ぎるいたずらで警察に追いかけられることもあったが、
「巡査を相手に勇気をきたえるのだ」
といい、堂々と逃げた。得意は水泳とマラソンだった。
勉強もできた。小学生のときには漢学塾で孔孟の素読を習ったり漢詩をつくったりした。中学では短歌もやった。そういった文学の才能も豊かだった。
家は貧しかったが、兄・好古のはからいで彼は松山中学校に進学する。後年、夏目漱石が赴任した学校だが、そこで正岡子規と同窓になった(歳は子規の方が一年、年長だった)。真之は子規とよく遊んだ。
しばらくして、子規は中学を中退し、上京した。何の苦労もなく上京できるほど子規の家は裕福だったのである。そういった子規の境遇が、いつしか文学の道を志すようになった真之にとってはうらやましくて仕方がなかった。
ところが、当時、兄・好古が陸軍大学校の学生となっていて、東京にいた。その兄が何と真之を東京によんでくれたのである。真之は飛び上がって喜んだにちがいない。
東京では、真之と子規はともに大学予備門の予備校に通い(余談だが、この学校に教え方のうまい英語教師がいた。のちの総理大臣・高橋是清だった)、二人とも見事、大学予備門に合格すると、ともに文学の道をきわめようと誓い合った。
しかし、真之には兄の安い月給に甘え、文学を志すような余裕はなかった。この経済的な問題の現実的解決方法は、授業料免除の学校、つまり兵学校へ行くことしかなかった。子規を裏切るうしろめたさがあったにはちがいないが、食っていくために真之は文学の道を捨てた。海軍兵学校へ入学した真之は、その後、学校を首席で卒業し、海軍軍人となった。
日露戦争のころ、真之は海軍少佐にまでなっていた(戦争中に中佐に昇進)。少佐だったが、東郷平八郎は彼を参謀とした。前任者が中佐であったように、少佐が参謀に抜擢されるとは異例だった。
バルチック艦隊を日本海軍が破ることができるか。これが日露戦争最大の分水嶺だったかもしれない。バルチック艦隊は総数五十隻を誇る当時、世界最強といわれた艦隊である。バルチック艦隊は長旅の末、日本の西から来て、ウラジオストック港に入ろうとしていた。これが成功すれば、日本にとって日本海は安全な海でなくなり、満州への補給路がおびやかされる。それは満州における日本陸軍の敗北を意味する。つまりは戦略上、日本はこの世界最強の艦隊をほぼ全滅させる必要があった。
最大の問題は、バルチック艦隊が対馬沖を行くのか、太平洋を迂回するか、ということだった。戦力を分散できるほどの戦力を日本は持ちあわせていない。とすれば、どちらかに山をかけ、そこに全戦力を集中させるしかない。
参謀の真之は迷いに迷っていた。同僚の中佐が「海軍を一人で背負っているような自信家の秋山が、迷いに迷って、人相が変わるほど憔悴していた」と語り残している。行動も常軌を失わせた。たとえばこのころ、彼は靴を履いたまま眠った。
秋山たちの判断が、そのまま国の興亡に直結するのである。彼のこのときの神経と頭脳の極度の疲労は、もしかしたら秋山の寿命を本当に縮めたかもしれない。結局、秋山たちは対馬沖で世界最強艦隊を待ちかまえた。
日本海軍の判断は正しかった。バルチック艦隊は対馬沖に来た。
敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出
動、之ヲ撃滅セントス
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ
旗艦・三笠から大本営に向けた電文である。ある少佐が一行目を差し出したところ、秋山が二行目を書き入れた。秋山は一時、文学を志しただけあり、名文家であった。その文章は周囲から、
「秋山文学」
と称されるほどで、この「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の一文こそ、秋山の美文の代表格とされるが、長くなるから説明は省く。
秋山は、バルチック艦隊に対して、自らの頭で考え抜いた戦法で挑み、結果的に艦隊をほぼ全滅させた。日露戦争はこの五ヶ月後、ポーツマス条約の締結をもって終わる。(つづく)
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