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愛媛散歩 B
道後温泉
坂の上の雲ミュージアムの前には、私と同じように閉館を知らなかった人たちが集まり、皆一様に残念がっては去っていった。
スーツを着たひとりの老紳士が、そこにあったベンチに腰かけていた。私はたまたまそのとなりに座った。自然と会話になった。今治の人だという。私はぜひ伊予の人に方言について聞いてみたいと思っていた。
「こちらの人は『〜ぞなもし』なんて言葉を今でも使ってるんですかね?」
「もう今は使わないんじゃないですか。今治では『〜のもし』という言葉は年寄りがたまに使いますがね」
この質問を私は今回の旅で何度か地元の人にしてみたが、どうやら『坊っちゃん』や『坂の上の雲』に出てくる言葉づかいは、今の松山には皆無のようだった。
この話とは別に、この紳士はおもしろい話をしてくれた。
「七十歳過ぎの人までですけど、この地方の人には灸のあとがあります。風呂屋へ行くとよくわかります。この地方の人は弘法大師の影響か、灸をすえるのが当たり前なんです。昭和一〇年代生まれまでですかね。二〇年代生まれはないです。道後温泉に行ったら、お灸のあとがあれば地元の人と思っていいです。地元の人なら、少ない人でも二つ三つはありますね」
興味深い話ではないか。早速今晩、道後温泉で確かめてみたくなった。紳士の話はつづく。
「松山は結構、軍人さんが多いところですね。ここは第二十二連隊がありましたからね。私の祖父も日露戦争へ行った口ですけれども。水野広徳も松山の人です。ご存じないですか?日露戦争のとき、水雷艇の艦長だった人です。戦後、反戦を唱えて、日本、アメリカと戦うべからずと主張した人です。この方もすごい人でしたね」
私は水野広徳の名をこのときはじめて知った。それにしても、この紳士との会話のおかげで、私は何やら大いに気分がよくなった。気を取り直して、数年前に復元されたという秋山兄弟の生家を見学することにした。
秋山兄弟の生家は、ミュージアムと同じく城山の麓にあった。受付には例のごとく、おばさんがいた。料金を払うついでに話しかけてみた。ミュージアムが閉館していた、という話である。
「名古屋からですか。そんなら申し訳ないですから、松山市になりかわってこれ差し上げますから、こらえてください」
と、松山城の割引券をくれた。こういう場合に「こらえてください」というのは伊予弁である。私が、
「こちらの方は『こらえてください』ってよくおっしゃいますね。いい言葉ですね。こらえる気になりますね」
と笑っていったら、おばさんも愉快そうに声をあげて笑った。
話によると、このおばさんは松山北高等学校の出身だそうである。この高校は前身を北予中学校といい、何と秋山好古がかつて校長を務めたことがあった。しかし、おばさんはその事実を在学中にまったく知らされなかったという。折も折、戦前の軍国主義的な教育の反動で、戦後は軍人がまったく評価されなくなった。好古についても同様だった。おばさんが好古校長のことを知ったのは、卒業してしばらくして『坂の上の雲』を読んだからだという。こういった事実は、現代の日本人としてまことに残念に思えるのだがどうだろう。
このあと、私はロープウェイで城山を登って松山城へ行き(もちろん割引券を使用した)、下山してからはタクシーに乗って道後公園へと向かった。タクシーの車内には、ちょうどラジオで甲子園の中継が流れていた。そういえば、道後公園のすぐ近くには四国の名門・松山商業がある。その話を運転手さんにしてみると、
「でも、今は私立に押されちゃってね。名物監督もいなくなっちゃってね」
とのことだった。
道後公園は中世の城の跡である。そこは桜の名所であるし、子規の記念館もある。桜はやはりここも一分咲き程度で、出店などもそれに比例して申し訳程度にしか出ていなかった。
この公園を北に数百メートル行けば、そこはもう道後温泉である。
道後温泉の起源は古く、『伊予国風土記』にははやくも記述がある。その高名さから、江戸時代には諸国から俳人・文人が多く来訪し、近松門左衛門の浄瑠璃『嵯峨天皇甘露雨』や十返舎一九の『金草鞋』にも登場している。
明治時代には、夏目漱石の『坊っちゃん』にて描かれた。「坊っちゃん」が入浴したのは「住田温泉」となっているが、これは明らかに道後温泉がモデルである。漱石が松山中学校の英語教師として赴任したのは明治二十八年(一八九五)四月で、道後温泉本館が新築されてまだ一年しか経っていないころだった。
道後温泉本館の建物を、私は一目見て気に入ってしまった。その木造の建物を何と表現したらよいのか。一瞬、かつての廓を連想したりもしたが、その思いをさらに強めたのはさらに二時間後だった。軒下にいくつもぶら下がる提灯が明るくなり、ガス灯に灯が入ると、雰囲気はますます艶やかさを思わせ、気分はなおのこと高揚した。
せっかくだから温泉に入ることにした。本館のすぐ近くで一杯飲んだあと、その足で本館に向かった。道後温泉には入泉のランクがある。漱石の「坊っちゃん」はいつも「上等」に入ったというが、現在のランクは四段階ある。私はあえてもっとも安価なランク「神の湯階下」(四百円)を選んだ。理由がある。昼、老紳士に教えてもらったことを確かめようと思った。地元の人はきっと「上等」にはよほど入らないだろうと考えたのである。
内部は、二階以上はともかく、一階はごく一般の銭湯と同様である。ただし、古い。その古びた様に趣を感じながら、地元の人らしき人たちとともに湯槽につかった。予定どおり目的を果たすため、私は半身浴しながら人々の背中ばかりを見ていた。とくに七十歳を過ぎていると思しき人には目を凝らしたが、背中に灸のあとらしきものをこしらえている人はなかなかいない。結局この日、そういう人物を見ることはできなかった。齢七十過ぎの人がたまたま観光客ばかりだったのか、それとも老紳士の話がややオーバーであったのか。
いずれにしろ、東京至上主義の漱石が『坊っちゃん』の中で「住田温泉」(道後温泉のモデル)だけはすばらしい、と書いているその気分は十分にわかった気がした。
道後温泉の雰囲気のよさに誘われ、翌朝、私は六時過ぎにまた温泉につかった。今度は上から二つ目のランク(千二百円)にしてみた。が、入り方がよく分からない。建物の仕組みもわかりにくいし(それがいいのだが)、作法?についてもよくわからなかった。とりあえず二階の広間に通された。畳の部屋である。そこでひとつの座布団を指定された。そこが私の場所らしい。案内はみな女性で、そのうちのひとりが何やら作法?について説明してくれたが、早口で何をいっているのかよくわからない。仕方がないから、そのまま更衣室の方へ歩いていこうとすると、別の案内の女性が、お客さん、せめて上へ羽織るものだけはここへ置いてください、という。従うしかない。
そして、湯から出たあとには赤い天目台にのった茶と煎餅が出た。これまた一興だが、どうもこれをひとりでいただいている光景が滑稽である。案内の女性がたくさんいる前で時間をもてあますといってもいい。子規堂のおばさんの言葉が思い出された。
私が宿泊したのは道後温泉のとなりのホテルだった。温泉から出ると、すぐにチェックアウトした。
駅へ向かう前に、もうひとつだけ寄りたい場所があった。本館のすぐ北にある丘の上に、秋山好古の墓があるのである。
好古の墓は、簡素だった。好古の人となりをそのまま表しているような気がした。
日露戦争で騎兵を組織し、ロシアのコサック騎兵と戦い、陸軍大将にまでなった好古が陸軍を辞し、北予高校の校長に就任したのは大正十三年(一九二四)、六十二歳のときだった。このあたりのことについては、松山北高等学校(かつての北予中学)の教師である片上雅仁氏が書いた冊子『晩年の秋山好古』に詳しい。それによると、
「日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺でも役に立てば何でも奉公する」
と好古は語っていたという。彼の在任は六年二ヶ月に及び、その間、公務出張以外は無遅刻無欠勤だった。その教育方法はまったく軍隊式でなく、学校では怒鳴ったことなど一度もなかった。当時、北予中学は荒れていて、いわゆる不良少年も多かった。それでも赴任した好古は声を荒げない。ただ新学期早々のあいさつで、
「物が壊れてはお互いに困るから注意せよ」
と一言だけいった。それだけで生徒による器物損壊がなくなった。好古には何ともいえない人間的魅力があった。元・陸軍大将でありながら権威主義的なところがまったくなく、「まことに親しむべき好々爺であった」(『晩年の秋山好古』より)という。
何より酒が好きだった。ついで道後温泉と碁を愛する人物だった。彼は校長退職後、わずか七ヶ月後に死去した。最後の最後まで自らの身を公に捧げる人生だった。ちなみに、好古が死去した翌年に満州事変が起こる。好古はいわゆる十五年戦争のはじまりを見ないですんだ。
好古の墓は高台にある。振り返ると、西の方に城山の上の松山城が見えた。好古は、故郷の象徴というべき松山城を望む場所に眠っていたのだった。
(つづく)
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