女 人 高 野 @

  

 奈良の紅葉を見たいと思った。奈良にも紅葉の名所は数多くあるが、私が選んだのは、
「室生寺」
 である。
 室生寺については詳細を知らなかったが、たしか七、八年前、境内の巨木が倒れかかり、国宝の五重塔が被害を受けたのがこの寺だった。高等学校の日本史のテキストにも、金堂の写真があったはずである。

 その日は朝早くに家を出た。できるだけ観光客が少ない状態で、紅葉を愛でようと思ったのである。
 車で伊勢湾岸道路から名阪国道を伝って、奈良県の宇陀の里に入った。そこは立派な道路が走っているとはいえ、かなりの山奥で、ちょうど同じ奈良にある多武峯の談山神社への道に似ていると思った。
 私は寺の手前にある駐車場に車を止め、そこから門前まで五分ほど歩いた。
 道に沿って川が流れている。周りの山々は所々きれいに紅葉している。数百メートル先に、その川にかかる赤い橋が見えた。太鼓橋という。橋の周りには、もみじが赤々としていて、橋のはるか先にはとてもかたちのいい山が見えている。門前からして絵になる風景といえる。
 趣のある橋を渡りきると、表門に行きあたる。門の脇に、
「女人高野室生寺」
 と大きな字が刻まれた石碑が建っていた。
 室生寺は、法相・真言・天台など、各宗兼学の寺として独特の仏教文化を形成したらしい。奈良時代末期の創建で、その実務にあたったのは、修円(七七一〜八三五)という僧だった。
「女人高野」
 と呼ばれる所以は、この寺が真言道場として女性の参詣を許していたからである。
 そもそも仏教は、その発祥より女性の救済という思想に乏しかった。それもそのはずで、女性の存在というのは寺の僧にとって、ひたすら修行の妨げだった。
 いうまでもなく、真言宗の総本山である高野山も、永く女性の入山を拒んできた。ここで高野山を悪くいうのは適当でなく、当時の社会ではそれが当然だった。
 しかし、そんな中、室生寺は早くから女性の入山を許可した。これが当時の女性にとって、どれほど大きな意味があったのか。現代の私たちには、それを正確に知ることは難しいが、それによって室生寺がかなり特異な存在たり得たのは確かだろう。
 表門を右に曲がり、仁王門へと向かった。仁王門の脇に、看板が揚げられている。
┌──────────┐
│上着シャツを腰に     │
│巻き付けての入山は   │
│お断りします。身嗜を  │
│整えて参詣下さい。   │
│     室生寺執事  │
└──────────┘
 とあった。こういった看板を揚げるのは、現代においてはナンセンスの部類なのかもしれないが、それでも室生寺の気分を表すには重要な言葉であるように思えた。
 仁王門をくぐると、そこにはいかにも美しい紅葉が広がっていた。鎧坂という石段の坂があり、それは上の金堂へと続いている。その鎧坂あたりが、室生寺で最も紅葉の景色が美しいところであるらしかった。
 幸い、まだ観光客はほとんどいない。私は、その坂をゆっくり歩きながら、赤々とした木々の葉を眺めた。とくに日光が当たる部分は、思わず溜め息の出るような赤さをしており、ときに本当に燃えているのではないかと錯覚するほどだった。(つづく)