|
愛媛散歩 C
開明学校
タクシーで松山駅まで行ったが、このタクシー運転手もおもしろかった。道後温泉のすぐ近くに住んでいるらしいが、私が松山城を褒めると、
「そうでしょう、松山城は……」
と講釈をはじめた。はじめたはいいが、話の最後に、
「でも、ここ五〇年ほど一度も行ってはいないんですけどね」
といって私を驚かせた。その五〇年前とは、幼稚園の遠足だったという。それが最初で最後の松山城で、以来、一度も登っていないというのは松山市民として、さらにタクシー運転手を三〇年以上務める者として尋常でない話である。おまけに風呂にはいるのが嫌いな質らしく、道後温泉には三度しか入ったことがないという。これまた尋常でないが、話としては実に楽しい。
松山からはJR特急に乗る。いよいよ宇和島へと向かうが、途中、卯之町に立ち寄る。松山から一時間ほどで着いた。ここには、
「開明学校」
がある。文明開化の象徴として明治十五年(一八八二)に建てられた学校で、古い木造校舎が今も大切に保存されている。最近では小学校の社会科の教科書にも紹介されている。
この学校は木造二階建て、全体的に白く平らな建物で、屋根は瓦葺きだった。中に入ると、二階がかつての教室をそのままに再現していた。黒板があり、教卓があり、そしてたくさんの子供用の机・椅子があった。もちろん、すべて木製である。椅子に座ってみて、『街道をゆく』で司馬さんと同行した須田画伯がその懐かしさに感嘆の声をあげたというが、私には無論、そのような記憶はない。それより、いかんせん椅子の高さが低すぎるように思った。現代の小学生はもっと背の高い机・椅子を使っている(現代の小学生の方が背が高いということもあるだろう)。
教室の壁面には掛け図があった。掛け図はもともと欧米で開発された教具で、当時、実に貴重な教具だった。もちろん今も小学校に掛け図は存在するが、需要は年々減っているにちがいない。今どき、子供たちに見せるのは掛け図ではなくパソコンの画面のはずである。
校舎内には、明治期の教科書なども多数展示してあった。そういったものを見るにつけ、明治期の教育に対する純粋さを思わずにはいられない。現代とはちがい、教育にはより大きな価値が見出されていた時代である。学制が発布されたとはいえ、子供たちは大切な働き手であったため、当初の就学率は低かった。そんな中、子供たちは純粋に学校に行きたがり、教育を受けたがった。
そういった教育の本来の姿を開明学校の校舎は感じさせてくれたし、明治期にこのような立派な校舎を建てさせた人々の熱意もしのばれる気がした。
この学校の名は開明学校という。そもそもこの地には、江戸時代より開明思想の芽が息づいていた。江戸末期、この地に二宮敬作が出た。長崎でシーボルトに学び、卯之町で町医として暮らした。シーボルト門下ということは蘭学である。その蘭学のかかわりで、敬作は自宅にかの高野長英をかくまったこともある。その隠れ家が今も卯之町に残っている。
また、シーボルトの娘はイネといったが、帰国するシーボルトからイネの世話係を託されたのも敬作である。
私は開明学校を見たあと、卯之町の町並みをぶらぶら歩いた。長英の隠れ家も見た。駅へ帰ろうとしたとき、ふと町中で「二宮医院」という看板が目に入った。ほう、と思ったが、周囲を見ると、美容院や床屋の看板にも「二宮」とある。どうやらこの町には二宮姓が多いらしい。
宇和島には正午過ぎに到着した。早速、駅前で昼食をとることにした。ある友人が、
「宇和島に行ったら、ぜひ鯛飯を」
といっていた。駅前周辺をさがすと、鯛飯の看板を出した食堂があった。そこに入って、鯛飯定食を注文した。
宇和島の鯛飯とは、だし汁の中に生卵と鯛の刺身を入れ、それをすくい上げてご飯の上にのせて食べる、いわばぶっかけご飯である。実際に食べてみると、新鮮な宇和島の鯛と生卵の味が甘辛いだし汁によく合っていて、たしかにうまかった。
宇和島は、四国の最西端という趣がする。よって、松山よりさらに陽気がよい。空気もよりなまぬるいように思え、とくにこの日は天気もよかったため、さすがは南国という空気を醸し出していた。
宇和島については、好きな話がある。幕末、
「四賢候」
とよばれる殿さまがいた。薩摩の島津斉彬、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽、伊予宇和島の伊達宗城がそれで、天下の志士たちは皆、彼らの指導力に過剰なまでに期待した。
嘉永六年(一八五三)、アメリカのペリーが伊豆半島の浦賀に来航する。それを期に、国内では攘夷論が沸騰し、そのエネルギーは倒幕へと集約され、明治維新を迎えるまでになる。ペリー・ショックは日本にとってそれほど影響力が大きかったが、ここでの賢候たちの反応が興味深い。ペリー来航に真っ先に反応したのは、薩摩の斉彬と伊予宇和島の宗城だった。二人は同じことを考えた。
「あの軍艦を領内でつくれぬものか……」
当時、宇和島伊達家は十万石の大名だった。石高でいえば大大名でないが、この小国に存在感があったのは、ひとえに藩主・宗城の才覚に理由がある。宗城は養子で、もとは旗本・山口相模守直勝の四男だった。宗城はこの上ない学問好きで、家臣団の中でも彼ほどの教養をもつものはいなかった。さらには、
「蘭癖」
がつよかった。つまり典型的な開明家で、ヨーロッパの文明を領内に積極的に取り入れることで宇和島藩を改造しようとした。
そんな開明家の宗城が、品川沖で黒船の姿を目のあたりにした。宗城は驚くと同時に、
「日本もあれをつくらねば外国の侵略にうちまかされる」
と考え、ほとんど反射的にその製造を家臣に命じたが、ここで大きな問題があった。肝心の黒船の実物を宗城以外、ほとんどだれも見ていなかったのである。
結局、白羽の矢が立てられたのは、長州人の村田蔵六(のちの大村益次郎)だった。
蔵六は当時、故郷の鋳銭司村で村医者を営んでいたが、かつて大坂の適塾に学んだ経験があった。適塾は緒方洪庵が開いた蘭学塾で、塾生の中には福沢諭吉もいる。
つまり、宇和島藩は蘭書を翻訳することによって洋式の軍事技術を導入しようとしたのであり、蔵六はその蘭語の能力が買われたのである。
ちなみに、蔵六は宇和島のあと幕府にも招かれ、江戸の蕃書調所で教授手伝にあげられた。さらに数年後には長州藩に出仕し、幕府軍が長州藩に攻め寄せた、
「四境戦争」
では、参謀として石州口・芸州口の全作戦を指揮し、幕府軍に勝利した。つづく戊辰戦争でも官軍を指揮して江戸の、
「彰義隊」
を討伐した。
こられの軍功により、蔵六は明治政府で初代兵部大輔に就任し、軍政改革に取り組もうとしたが、徴兵制をよしとせぬ守旧派のテロリストが彼の暗殺をはかった。明治二年(一八六九)九月、京都木屋町の宿にいた蔵六は十数人の刺客に襲われ、約二ヶ月後、死去した。享年四十四歳。
(つづく)
|