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愛媛散歩 D
宇和島城
さて、宗城は宇和島城に蔵六を呼びつけ、
「蒸気でうごく軍艦一隻と、西洋式砲台を一つつくれ」
と直接に命じた。蔵六は耳を疑ったにちがいない。彼は単に片田舎の村医者にすぎず、軍艦も砲台も見たことさえなかった。
しかし、蔵六はこの話を受けた。というより、受けざるをえなかった。翌日から藩の御書物庫に入った蔵六は、蘭書による洋式軍事技術の研究をすすめた。
さらにおもしろい話があって、その後、軍艦すべてを蔵六につくらせるのは大変というわけで、蔵六は船体のみをつくるべし、となった。蒸気機関は別の人物がつくることとなったが、その人物もすごかった。名を、
「嘉蔵」
といい、何と宇和島城下で提灯のはりかえをなりわいとする男やもめだった。身分は低く、
「裏借家人」
とよばれる平人としては最下級の身分だったが、指先だけはだれにも負けぬほどに器用だった。このように、宗城は蘭語よみと提灯のはりかえ屋に軍艦をつくらせようとした。
軍艦は、宗城の期待どおりに完成した。蔵六のつくった船体に、嘉蔵のつくった蒸気機関を装着し、国産としては二船目となる蒸気船(わずかの差で一船目は先に薩摩藩の手によって完成されていた)は無事進水した。奇跡的といえる。黒船をはじめて見てからわずか三年後、日本人が自力で同じような蒸気船をつくってしまったのも奇跡なら、それを村医者と提灯のはりかえ屋がやってのけたのも奇跡である。
このような奇跡を起こさせたのは、宇和島の藩風が学問好きだったからであり、技術というものを重視していたからである。
宇和島では、まず宇和島城を見たかった。
宇和島城は、宇和海近くの丘陵に築かれた山城で、慶長年間に藤堂高虎によって築城され、寛文年間に伊達宗利によって大改築された。
この天守は焼けておらず、江戸初期の様子を今に保っている点、貴重といえる。
城山を登った。登るといっても、城山の高さは八〇メートルほどでしかない。登山道は石段で、それを登りきったところに本丸があり、こぢんまりとしていてかわいらしいというべき天守がそこに置かれるようにしてあった。三層三階である。天守台は低く、その分、全体として上半身が大きすぎる印象を与えるが、それはそれで悪くない。白壁がとても美しかった。
天守から見てその前方は開けていて、その先には宇和島の海が見える。この海もひたすらおだかやだった。
天守のまわりを鳶がさかんに飛んでいる。本丸隅に桜の木があったが、この桜もまだ二分咲き程度だった。伊予国に来て意外だったことのひとつは、桜の開花が遅いことだった。南国というのにどうしたことだろう。
城を下りると、今度はさらに南へと歩いた。そこはかつて、宇和島に招かれた村田蔵六が住んだ町内で、地名を、
「神田川原」
という。
私は十数年前から、この町にくるたびに神田川
原を歩いた。真夏の昼さがりなど、木槿の薄手
な花がしきりに咲いて、気だるいほどの気分に
なる。川の堤の内側をかためた石垣の古びもよ
く、石垣のあいだからのぞいているさまざまな
灌木や、石垣の上の柳やササメダケの藪など、
都市という造形のなかで、植物というものがこ
れほど詩をつくり出している一郭もめずらし
い。
(司馬遼太郎著『街道をゆく 南伊予・西土佐の道』)
しかし、私が訪れた神田川原は、そういった印象を私に与えなかった。たしかに神田川は流れているが、(季節的なこともあるだろうが)植物の豊かさも見られなかったし、そもそも石垣らしきものがなかった。司馬さんが『街道をゆく』でこの地を訪れたのは、昭和五十三年である。それからちょうど三〇年もの月日が経っている。その年月が他の場所と同様、神田川原をも変えてしまったにちがいなく、司馬さんと同様の感慨をもつことはもはやこの地においても無理なのだろう。
蔵六が宇和島に住んだのは二年あまりだった。その住居跡は、神田川から五〇メートルほど路地を入ったところにあったが、住宅地の片隅にただ一枚の案内看板があるのみだった。その家の表札は、『街道をゆく』では「松田」になっていたが、現在は「松本」になっている。
翌日。旅の最終日は、宇和島の城下町を歩いてみようと思った。この日は朝から雨が降った。宇和島の駅前でレンタカーを借り、まずは宇和島市立伊達博物館へ行った。ここでおもしろいものを手に入れた。
「宇和島城下全図」
で、つまり安政・文久年間の宇和島城下の地図の複製である。この古地図で蔵六が住んだあたりを見ていると、どうやら町の区割りが見事なまでに現在の区割りと一致していた。その不変さは見事というべきで、感動した私は思わずそれを買い求めたのだった。その地図をもとに、かつて武家屋敷があったあたりを行くことにしたが、区割りが不変ということは車で行くにはとても不便なのである。せっかくのレンタカーは博物館の駐車場に置いてゆき、徒歩で行った。
司馬さんが歩いたときは、まだ武家屋敷がいくつか残っていたようだが、あれから三〇年、さすがに武家屋敷そのままの姿を見ることはできなかった。それでも多くの家に小さな門構えがあった。もちろんかつてのままのものではないし、規模も当時と比べ小さかろうが、そこには住む人の元・武家としての誇りが強く感じられた。
多くの通りは神田川に向かってゆるやかに下っている。その通り全体からは、武家屋敷が並んでいた江戸時代当時の面影が何となく伝わってきて、私はうれしかった。
正午前には私は帰途につこうと思っている。もうあまり時間がなかった。最後に、神田川原の東にある愛宕山に登った。愛宕山も高くない。城山よりやや高い程度である。頂上に小さな公園があった。そこから宇和島の町を見下ろしてみた。目の前にお椀を伏せたようなかたちをしている城山がある。城山はとても小さく、その上に昨日見たかわいらしい天守が灰色の甍と白壁をのぞかせていた。
城山の向こうに海があり、宇和島港のクレーンが見えた。そのさらに奥にも山々が見えるが、この日はすべてが白く霞みがかって見えた。城山の手前には白いビルが多く建ち(そのいくつかは病院である。宇和島城下はなぜか病院の多い町だった)、さらに手前には灰色の甍が並んでいた。それらの多くはかつて武家屋敷だったにちがいない。
愛宕山頂から見た宇和島の町はまことに小さかったが、四国の果てのこれほど小さな城下が一時であれ開明藩として大いに名を馳せた事実に、私は改めて大きな感慨をもたずにはいられなかった。
朝からの雨はやや小降りになったとはいえ、相変わらず宇和島の町を濡らしていた。
司馬さんが好きだった宇和島をめぐるには、もう少し町のあちこちをめぐる必要があったが、この日はいかんせん朝からの雨がわが心を重くし、いつもは軽いはずのフットワークを鈍らせた。愛媛の旅をここで終わることにする。
宇和島駅からふたたびJR特急に乗った。車内は思ったよりも混み合っていた。
雨にけむる宇和島の景色を眺めながら、宇和島にはもう来られないかもしれない、だとしたら、せめて車窓から見える桜がもう少し咲いていてくれたら、と思ったりした。私は今から名古屋へと帰る。名古屋の桜はちょうど昨日、満開になったという。名古屋に帰ったら、何よりまずそれを確かめてやろうと心に決めた。
(完)
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