薩 摩 み ち @

      
              西郷隆盛像



 江戸期、薩摩は他の地方に比べ、異国のようであった。言葉のことだけではない。当時、日本は鎖国をしていたが、薩摩は薩摩で独立国であるがごとく他国(この場合、日本国内の国をさす)と交流せず、他国の人間を入れなかった。
「二重鎖国」
 といってよかった。
「薩摩飛脚」
 という言葉もあった。幕府が薩摩に送った密偵のことだが、そのほとんどは生きて帰らなかった。薩摩人が容赦なく斬ったのでる。
「薩摩は得体が知れない」
 と、とくに幕末の長州人などは思っていたにちがいなく、そう思われても仕方のない言動が薩摩にはたしかにあった。文久三年(一八六三)夏、薩摩は突如、佐幕藩の会津と手を組み、京にいた長州勢力を追い出した(八月十八日の政変)。しかし、その三年後には坂本竜馬の仲介によって薩長連合が成立する。これらは薩摩にしかできぬ寝技といってよく、そういう人種を長州人は、
「奸佞」
 とよび、高杉晋作は、
「夷人の靴を頭にのせるとも薩摩とは手をにぎらぬ」
 とまでいった。維新後も、木戸孝允などは薩摩のことを考えると気が鬱したらしい。実際、木戸は最後の最後まで西郷隆盛をほとんど理解することがなかったし、大久保利通に対してもにが手を通した。

 別の視点からも書く。
 日本の歴史上、薩摩ほど中央政権に楯突いてきた国もない。たとえば、秀吉による島津征伐があり、関ヶ原ノ役では家康を敵にまわした(こればかりは島津にとって不本意だったろうが)。幕末・維新にかけては倒幕を成し遂げ、新政府を樹立した。そして、中央政権への最後の挑戦は、西南戦争だった。
 このように中央政権に戦いを挑みつづけてきた歴史というものを、現代に生きる我々はどのように評価したらよいのだろう。

 もちろん、今日において「鹿児島は得体が知れない」ということはありえないし、鹿児島が日本政府に対して楯突いているわけでもない。そうでありながら、薩摩(現在の鹿児島)に対して一種、怖いもの見たさに似た感覚がいつしか私の心に宿るようになり、その気持ちが日に日に大きくなっていった。かつて二重鎖国して「得体が知れない」といわれた国、明治維新という革命を見事に成功させた張本人である国、さらにいえば日本で最も巨大な仁者というべき西郷隆盛を輩出した国というのはどんなかたちをした国であるのか。それを知りたいという気分がどうしようもなく膨らみ、自らの手には負えなくなったとき、私は薩摩行きを決めた。
 今回、行くのは九州の南の果てであり、そこまでさすがに鉄道で行こうという気にはならず、珍しく飛行機を利用することにした。
                  (つづく)