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薩 摩 み ち A
坊 津
鹿児島空港に着くと、すぐにレンタカーを借り、九州自動車道を南下した。それにしても涼しすぎる。この日、鹿児島の空は曇っていたから、南国の夏らしい暑さはまったく影を潜めていた。すぐに桜島のことが気になった。このぶんではきれいに全景を見ることは難しいだろう。
私はまず知覧へと向かった。意外だったのは、知覧という土地が峠をひとつ越えねば行けぬ場所にあることだった。知覧には有名な武家屋敷がある。それを見たかったが、武家屋敷を形成する場所など平地と相場は決まっている。だから、そんな山中に武家屋敷があるなどまったく想像していなかった。
これには理由がある。薩摩という国は他国に比べ、圧倒的に武士階級が多かった。江戸期、一説には四割が武士だったという。秀吉が島津征伐を敢行した際、それまで九州を席捲していた島津勢力はもとの薩摩、大隅、日向の一部に押し込められた。そのときに兵員の数を減らすわけにはいかず、そのまま江戸期でいう武士階級にした。
江戸期、島津は七十七万石だったが、その扶持では多すぎる武士階級を養うことは不可能だった。藩主は、彼らを領内のあちこちに散在させ、自作農化させた。このようにしてあちこちにできた集落を地元では、
「ふもと」
と称し、この知覧武家屋敷周辺もそのふもとのひとつにちがいなかった。
自作農だけに、田畑を耕作する点においては百姓と変わりない。異なるのは、経済面でいえば租税の徴収がないこと、文化面でいえば家屋様式が武家風であることだった。
これらの武家屋敷は必ず石垣で囲まれている。火山岩の切石が隙間なく積まれており、それをたどっていくと木造の武家門にいたる。門をくぐると、正面にはやはり火山岩の切石が積まれていて、衝立のようになっている。観光客はそれを迂回するようにしないと中に入れない。これらは一見、防衛面を意識したつくりだが、実際は百姓家との差を強く意識させるための装置のひとつだったかと思われる。自作農であればこそ、そういった面には大きなプライドがはたらいたのではないか。
さらに、武家屋敷には一様に枯山水の庭がある。どれも一屋敷の庭としては立派すぎるほどのものだが、これも切石の衝立と同様の意味あいといってよい。
武家屋敷群を歩いていると、にわかに雨が降ってきた。薩摩の武家屋敷の石垣は、濡れると青く見えると聞いたことがあった。その姿が優美でまことに美しいという。
たしかに青く見えたのである。それはやはり美しいといわねばならなかったが、ただこれから行く先のことを考えると、気が重くなった。これから坊津へ行きたかった。この日、もっとも見たいと思っていたのが実は坊津だった。その海を雨の中で見るのはやはり避けたかった。
知覧にて武家屋敷を見た私は、そのまま知覧特攻平和記念館を訪れた。すると幸いなことに、記念館を出る頃には雨はやんでいた。どうやら雨中の坊津は回避され、私は安堵した。
坊津という土地は、九州の南西の果てという感が強い。その地理的条件上、歴史上においても一定の役割を果たしてきた。
たとえば、この坊津から遣唐使船が出港した。遣唐使船は一隻に百人前後が乗り込み、四隻が一組となって大陸をめざした。航路はいくつかあったが、南島路という航路の出港地が坊津だった。
「津」
という字を辞書で調べてみると「港をひかえて人の多く集まるところ」とあったが、当時、坊津は筑前博多ノ津・伊勢安濃津と並んで三津のひとつに数えられた。今の横浜や神戸といったところだろう。
鎌倉〜室町期になると、坊津から倭寇なども押し出した。逆に、大陸からも航海商が海を渡ってやって来てはさかんに商売した。そのまま定住する者も少なくなかった。
そして、何といっても鑑真和上が日本に上陸したのがこの坊津だった。
鑑真についてである。
鑑真は六八八年、唐の揚州江陽県で生まれた。十四歳で出家し、二十一歳には具足戒を受けて正式な僧となる。以後、天台宗とともに律宗を究め、四十代半ばには華中・華南で彼ほど戒律にすぐれた人物はいないとうたわれた。
一方、天平四年(七三二)、栄叡・普照という二人の興福寺僧がある使命を帯びて遣唐使船で入唐した。使命とは、日本に授戒(仏徒に戒を授け、正式な僧の資格を与えること)できる僧を招聘するということだった。
当時、日本の仏教界は大きな問題を抱えていた。授戒のシステムがまったく確立しておらず、無免許僧というべき者が世間を闊歩していた。日本の仏教界は正しい戒儀を整えることが急務だった。
二人は無事に入唐したが、人選はなかなか困難だった。その結果、栄叡は極端な思いを抱くにいたる。戒律の最高峰の鑑真その人に渡日してもらえないか、ということだった。
常識的には不可能だった。当時、海を渡って国外へ出るということは(その後の鑑真自身がそうだったように)命懸けの行為だった。そのようなことを唐における戒律の最高峰が承諾するはずもないし、彼の高弟も許すまい。第一、彼のような高僧が海を渡ること自体、国禁を犯す行為だった。
栄叡・普照たちと鑑真の面会がなったのは、二人の入唐後、九年のことだった。栄叡はこのとき鑑真に、日本にいかに伝戒の師が必要であるかを説いた。ぜひ和上に、とまではいえなかったが……。
最初、鑑真は弟子たちに、誰か行くものはないかと尋ねた。弟子たちは沈黙した。誰も一言も発しなかった。鑑真はいった。
何ゾ身命ヲ惜シマンヤ。諸人行カザレバ、我即
チ去クノミ
鑑真はその場で高弟の何人かを指名し、渡日に同行するよう申し渡した。異を唱える者は皆無で、重大事はあっけなく決まった。そして、この瞬間から鑑真の筆舌に尽くしがたい困難がはじまった。鑑真、ときに五十五歳。
鑑真はそれから五度も渡日に失敗した。ときに密告者に妨害され、ときに暴風雨に襲われ、遭難したりした。渡日をくりかえし阻まれる中、まず栄叡が病死んした。しばらくすると、今度は鑑真が失明した。
鑑真は真に不屈だったことに、その後も渡日をまったくあきらめなかった。激烈な精神力といってよい。
七五三年、第十次遣唐使船が唐より帰国するにあたり、鑑真・普照らも同乗することになった。鑑真にとって六度目の挑戦だった。別の船には阿倍仲麻呂も乗った。ちなみに、彼の有名な「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の歌は、この乗船のときに詠んだ歌である。遣唐使船は四隻あった。乗る人にとってはどの船に乗るかが大問題だった。実際にこのとき、鑑真・普照の乗った船は無事に日本に到着したが、仲麻呂の船は遭難し、仲麻呂は土人の襲撃などからかろうじて逃れ、命からがら長安に帰った。結局、ついに仲麻呂は帰国できず大陸の地で死んだ。
鑑真はついに薩摩国阿多郡秋妻屋浦(今の坊津町秋目)に上陸した。鑑真は六十六歳になっていた。天平勝宝五年(七五三)十二月のことだった。そのときの様子は今日伝わっていない。
彼はその後、平城京に入って聖武上皇や光明皇太后、孝謙天皇らに授戒したり、東大寺に戒壇院をつくったりした。
天平宝字二年(七五八)に大和上の称号を与えられた鑑真は、翌年、唐招提寺を建立し、その地に移り住んだ。亡くなったのは天平宝字七年(七六三)で、享年七十六歳だった。
知覧から坊津への道は、北から入る経路と南からのそれがある。私は北から入ることにしたが、その道はなかなか困難だった。地図では分からなかったが、思ったよりうんと道幅がせまい上に峠をひとつ越えなければならなかった。道中、ひたすら対向車がないことを願いつつ、山道を上った。
車がやっと下りはじめて間もなく、はじめて坊津の海が見えた。おだやかな海だった。なおも道を下り、下りきったと思われたところで、
「がんじん荘」
と大きく書いた看板に遭遇した。どうやら坊津町秋目はこのあたりらしい。
目の前に海が広がり、いくつか小さな浮島が見えた。あたりは漁港らしく、港内には漁船が何隻が浮かんでいた。人の姿はまったくない。
海に突き当たり、左手に曲がったすぐをやや上った先に、墓石がいくつか並んでいた。一見してそれらはかなり古いものであることが知れた。しかも明らかに日本式のものでなかった。私は思わず車を降りた。
それらの墓石は、古色を帯びて石肌が黄色がかっていた。脇に小さな看板があり、
「秋目 江戸時代の墓石」
とあった。墓石は全部で十三基あり、そのうち七基は大陸を思わせるかたちをしていた。つまり、てっぺんに家屋の屋根のようなものをいただいているのである。それに、その七基はいずれも彫刻が施してあった。その文様は蓮の花が最も多く、あとは松の木や人の姿だったりした。長年の風雨にさらされているため、かなり傷みのはげしいものもあったが、それさえある種の雰囲気を感じさせた。
周囲には、高さ五〇センチほどの小さな墓石も何十基か集められたようにして置かれていた。すべて日本式だった。これらには文字が刻まれており、享保・寛保・明和といった元号が見られた。いずれも十八世紀中頃の元号である。
すべての墓石は海を望んで立てられていた。意図的なことであるかはわからないが、そうであってもおかしくはない。想像力をはたらかせるなら、この秋目の集落にも唐人あるいはその末裔が生きたかもしれず、その人々が墓をつくるとなれば、それなりの工夫をしただろう。それがこの黄色がかった墓石であるかもしれなかった。
墓石群のすぐ近くに、
「鑑真記念館」
があった。この記念館も、秋目の海を上から望める位置にある。建物は鑑真が建立した唐招提寺をイメージしてつくられたらしかった。内部の展示はこぢんまりとしていた。そもそもこの地は鑑真が上陸しただけでとくに何かを残したわけではないから、そうなるのは仕方がないし、過剰な展示をしがちな昨今の資料館のことを思うと、かえってこれは好ましいことのように思われた。
平素、この記念館の来館者はきわめて少ないらしい。係の人は一人しかおらず、それほど鑑真について詳しく話せそうな人でもなかった。事実、
「このあたりにほかに見るべきものはありますか」
と聞いてみたが、
「さあ……」
と首をひねるばかりだった。その女性によると、この秋目の地はよほど僻地らしい。集落には百三十人ほどしか人がおらず、店らしい店もなくて、
「移動販売車が来るんです」
とのことだった。子供たちは遠い学校までバスで十五分かけて通っているという。
記念館を出た。そこからは秋目のせまい海がよく見えた。坊津の海は典型的なリアス式海岸だから、海岸線が入り組んでいる。この秋目の海も例外ではない。よって海が風にさらされることがなく、波が立たない。
かつてはかなりの賑わいを見せたこのあたりも、今では実に静かな海となっている。しかし、私は大陸とのつながりという点において、これらの地域の壮大さを感じた。この地から遣唐使船が出港し、唐からは鑑真がこの地に降りた。ほかにも唐人が何人も渡ってきたにちがいなく、そういったことを考えながら坊津の海を見ていると、その先にははっきりと大陸の姿が浮かんでくる気がした。
陽が傾きつつあった。坊津の夕景は美しいというが、その時刻まで海を見ていては、夜道の中、峠越えをせねばならなくなる。心残りだったが、そろそろ出発するしかなかった。
港の一角にわずかながら砂地があった。いつの間にか、そこで二人の子供が遊んでいた。その場所は記念館からはかなり離れているのに、二人の遊び声はよく聞こえた。
(つづく)
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