薩 摩 み ち B

     
               玉山神社



 あるとき、知人のOさんが一冊の本を紹介してくれた。司馬遼太郎さんの小説、『故郷忘じがたく候』である。

 十六世紀末、秀吉が朝鮮に兵を出したとき、島津義弘率いる薩摩軍は韓国南原城において数十人の男女を捕虜にした。その中には陶工がいた。
 当時、日本では茶道が隆盛し、陶磁器がもてはやされた。そういったことがさかんな中央に比べ、日本の西の果ての薩摩には茶道文化は届きにくく、陶磁器においては未開の地だった。よって、島津は南原城攻撃において、戦いとは別に工人を探すことに必死になった。
 結果、捕虜として日本に来た朝鮮の民は、薩摩の苗代川(現在の美山)に村を開いた。

  コノアタリ、故山ニ似タリ

 風景が故郷の丘陵に似ていた、というのが苗代川の地を選んだ理由だった。
 村で民は活溌に作陶活動をした。民の中に、
「沈」
 という姓名をもつ者がいた。その沈家が今日も残っている。小説当時で十四代を数え、代々作陶を行ってきた。その沈家十四代目(名を「沈寿官」という)が、己の「血」(それは朝鮮貴族のけがれなき血であり、死もいとわぬ勇気の血でもある)を知り、自己の中で悩み抜きながら朝鮮人と日本人とのあいだを生きた。ときには喧嘩に明け暮れる日々も経なければならなかった。毎日が闘いだった。
 小説のクライマックスは三つほどあるが、そのひとつは天明年間の頃、橘某という人物が医師として薩摩の国に入った際、苗代川の人に聞いた言葉そのものである。
 橘は、苗代川で作陶をつづける伸という姓の老人に、一族が日本に渡来してすでに二百年近くになるから、ふるさとの朝鮮のことなど想うことはございますまい、と聞いた。伸老人は答えた。

  故郷忘ジガタシトハ人ノイイ置ケル事ニヤ

 想像だが、おそらくこの一文に出会ったために、司馬さんはこの小説を書こうと思ったのではないか。伸老人の言葉に、橘は「余モ哀レトゾオモイシ」と書きおさめている。
 そして小説は、その十四代目が韓国の大学に招かれて渡韓し、講演を行ったり朴大統領(当時)に会ったりし、ついには先祖の故郷の町・青松にある沈一族の墳墓の山を訪れ、墓参する場面で終わっている。
 それにしてもこの小説は、異郷の地に生き続けた在日(日本に来てすでに四百年経っている以上、もはや「在日」という言葉もふさわしくないかもしれないが)の悲哀を見事に表現していて、私は大いに感動し、この小説を親切にも紹介してくれたOさんに心から感謝したい気分になった。
 さらにOさんがすばらしいのは、橘の書いたという『西遊記』の原文をさがして見せてくれたことである。先の伸老人のエピソードはこの中の「高麗の子孫」という章におさめられている。
 ついでながらこのOさんは、私が美山に行くと告げると、多少怒った。
「私より先に美山に行くなんて……」
 Oさんは、自分が美山に行きたくて仕方がないのである。それを、私に先を越されるのがどうにも気に入らないらしい。私のためにちゃんと下見してくるのよ、というのが彼女なりの見送りの言葉だった。

 美山を訪ねようと決めたのは、『故郷忘じがたく候』にこんな文章があったからである。

  村そのものが名品である。

 かつてここを訪ねた高名な陶芸家がいった言葉だという。これを読んだ瞬間、頭の中にある種のイメージが鮮やかに浮かんだ。そして、それをこの目で確かめずにはいられない気持ちになった。

 鹿児島市内で宿泊した私は、旅の二日目、電車で美山を訪れた。この日は朝から青空が見え、天気の心配はないように思われた。
 JR鹿児島中央駅から鹿児島本線に乗り二〇分ほど行く。車窓からの風景はすぐに街でなくなり、緑豊かな山々の景色となった。少しでも平らな土地があると、そこには必ず美田があった。木々の緑はどれも深く、空の明るさと対比されて美しかった。
 東市来という駅で降りた。駅からはしばらく歩く。周囲はやはり山に囲まれている。地図をもってはいたが、略地図だったため、国道からはずれたあたりからは自信がなくなってきた。一度は道を戻ったりした。少し迷ったあげく、駅から一キロ半ほど来た。やや坂道だったが、それを上りきると目の前の視界が急に開け、きれいに舗装された大通りが姿を現した。
 どうやらそこが美山の集落であるらしかった。しかし、名品という雰囲気とはちがう気がした。この地もどうやら開発によって変わってしまったらしい。何より道がいけない。まず道幅が想像よりはるかに広かった。どこもかしこもアスファルトで覆われており、交差点も不必要に大きかった。それでも通りに面して切石を積んだ石垣がまだ幾分か残っており、いくつかの武家門とともに昔ながらの風情を感じさせた。現代人としては、これだけで十分に満足すべきだった。今なお名品などと呼べる村は、もはや離島にでも行かねば見ることは不可能なのかもしれない。

 私はまず大通りから脇道に入り、玉山神社へと向かった。
 朝鮮から沈氏らの祖先が連れてこられたのは十六世紀末だったが、伝説によると、慶長十七年(一六一七)、苗代川に北北西の方向から火の玉が飛来し、一段高い丘の上、つまり今の玉山神社のある丘の頂きにとまり、数夜輝きつづけた。陶工たちは祖神檀君の飛来にちがいないと信じて神社を建てて祀った。それが今日の玉山神社である。
 玉山神社からは東シナ海が望めるはずだった。陶工たちは、この丘から海をながめては故郷を思ったにちがいなく、私もその丘から東シナ海を見てみたかった。
 神社へは坂を上り、上りきってからは茶畑の間を行った。そこからさらに木々に囲まれた坂道を少し上ったところに社はあった。ごく普通の神社に見えた。
 かつては朝鮮式の建築だったというが、大正期に日本式の社になったらしい。その社に向かって普通に日本式で参拝し、すぐに神社の裏手に回った。そこからは海が望めるはずだった。ところが、何としたことか。
 木々があまりに鬱蒼と茂っていたのである。かといってなす術もなく、私はついに東シナ海をまったく見ることができなかった。

 大通りに戻り、しばらく行くと、いよいよ沈家の武家門が見えてきた。門をくぐると、左手に母屋があり、右手には収蔵庫があった。そして正面には沈寿官の作品を販売する店舗があり、その左奥には登り窯も見えた。
 一瞬戸惑ったが、とりあえず店舗を覗くことにした。店内には、多くの作品が並べられていた。ほとんどが十五代の作品のようだった。「沈寿官」という名は世襲制だが、平成十一年に十四代が存命中のまま、十五代が「沈寿官」を名乗った。十四代は隠居の身になった。
 私は店内の人に収蔵庫や登り窯の見学を申し出た。収蔵庫には、これまでの沈家の作品がずらりと展示してあり、何と初代の作品まであった。登り窯はなお現役で、聞けば、現在では、白薩摩(白色の薩摩焼。江戸期には藩主しか手にすることができなかった)はガス窯で焼き、黒薩摩(黒色の薩摩焼。かつてより大衆用の日用雑器として焼かれた)はこの登り窯で焼くという。
 最後に店舗に戻った。そこで気に入った器をいくつか買おうと思った。
 そのとき、店の裏手からひとりの老人が出てきた。私は十四代の顔を知っていた。驚いたことに、その人はまぎれもなく十四代だった。
「失礼ですが、十四代先生でいらっしゃいますか?」
「ええ」
 といって、十四代は笑った。私はすぐに『故郷忘じがたく候』の話をし、この地に来ることが念願だったことをいった。
「たいした男じゃないんですけど、文豪の手にかかると……」
 と、十四代はまた笑った。
 私は思いもかけぬことに半ば気が動転したが、さらに十四代に座をすすめられ、いよいよ緊張した。緊張しながらも、いくつか思ったことを話した。
「玉山神社ってのがございますね。そこから海は望めないんですか?」
「かつては神社のうしろから見えてたんです。ところが戦後の植林政策などでいろいろやられて、もう木を切るな、となった。だから今は見えない。司馬さんも見えなかった」
 さらに、
「もう地域民の意識も相当、風化しましたよ」
 この向こうに山待楽という望郷の丘がある。その丘からも海が見える。だから昔は見晴らしのじゃまになる木があると「誰の木じゃ。切らせ」といってすぐに切らせた。ところが今は「個人の権利でごわす」という。「切れ」というと「何の権利でいうか」となる。この頃は何もいえなくなってきた、と十四代は嘆いた。
 私はさらに気になったことを聞いた。
「表の道は昔からあんなに広かったんですか?」
「いやいや、もう本当にせまかったです。ウチの門なんかは道路拡張によって何回も後退しています」
 公仕事はいかん、と十四代はいう。
「整備するってことは、一種の破壊ですから。結果的に綺麗になっても、それは歴史的ふうあいがこもっていたものが、『綺麗』という言葉のかげで惨殺されただけのことですからね」
 十四代は「惨殺」というただならぬ言葉を使った。しかし、村の現状を考えると、その気分は痛いようにわかる気がした。かつて村そのものが名品とうたわれた苗代川の集落は、公仕事によってそのよさが失われた。その無念さは少なくとも十四代の心から消えることはありそうになかった。

 私は終始、恐縮していた。あまり時間を割いていただいては申し訳ないと思い、何度か座を失礼しようとしたが、十四代はそのたびに、
「もっとお話してもかまわないですよ」
 といってくれた。
 このあとも十四代にはいろいろな話をしてもらったが、私は最後に、十四代の言葉に含まれる薩音について指摘した。
 実は、鹿児島へ来て意外だったのは、誰も薩音らしきものをほとんど発しないことだった。タクシーの運転手にわずかに感じられる程度に過ぎず、この村のよさと同様に薩音も失われつつあるのだろうと実感させられたが、十四代はときに「〜ごわす」という典型的な薩音を使ったから、聞いてみたくなったのである。
「私らの頃には、NHKはそう進んでませんでしたから」
 戦前は国語の授業も薩音で行われたという。しかし、戦後になると薩音を使う者は処罰され、「私は方言を使いました」というキレをつけさせられたりした。
「でも注意する先生の言葉が標準語かっていったら、やっぱりなまりがあってね」
 十四代は愉快そうに笑った。薩摩人は昔から笑顔を惜しまないというが、十四代はその典型である気がした。とにかく話しては笑顔になり、話を聞いては笑顔になった。その人なつこそうな笑顔からは、かつて相手と殴り合ってまで自らの血について悩み抜いたという壮絶な青年期を過ごしたことなど微塵も想像できなかった。

 沈家を辞するとき、外はいつの間にか土砂降りの大雨だった。つい二時間前は青空が見えていたのに、である。私は傘をもっていなかった。仕方なく、しばし沈家の武家門の軒下で雨宿りをすることにした。
 それにしても、武家門で雨宿りするというのも何ともいえず心地よいものだった。しかもここは沈家の武家門なのである。
 雨は一〇分ほどして小雨になった。私は門を走り出た。
                  (つづく)