薩 摩 み ち C

  
            大久保利通生い立ちの地



 本来ならこの日は美山から鹿児島市内へ戻ったあと、市内を貸自転車でめぐるつもりだったが、美山で思わず長居をしたので予定を変更した。駅前でタクシーに乗り、
「仙巌園」
 に行った。
 仙巌園は万治元年(一六五八)、十九代藩主・光久が別邸としてつくった。何といっても有名なのが、桜島・錦江湾を借景とする庭園である。私は庭園を見るという趣味をほとんどもたないが、この庭園だけはその借景の雄大さを思って見たかった。
 たしかに桜島は悠然とそこにあった。とにかく裾野が広い。山肌は起伏に富んでいる。ところによっては大きくくぼみ、崖のようになっていて、緑があるところもあれば土色の肌が露出しているところもあった。ただ、雨は降っていなかったものの(美山の雨は局地的なものだったらしい)、白い雲がさかんに空に湧いており、その雲が桜島の頭に帽子のように被さっていた。雲はどんどん西へと流れたが、そのたびに新たな雲が覆い被さった。どうやらこの日、写真で見るような桜島の絶景を見ることは叶わぬようだった。
 桜島の下には錦江湾があった。私はこれまた輝く湾を想像していたが、空模様がすぐれないためか、その輝きも見られずじまいだった。

 仙巌園のとなりに、
「尚古集成館」
 という博物館がある。建物は仙巌園と同時期に建てられたもので、切石造りで全体が白っぽく見える。屋根は瓦葺きだが何となく西洋風にも見える。ここはかつて蒸気機関所だった。
「島津に暗君なし」
 といわれてきた。たしかにそうで、戦国期から幕末まで島津には聡明な当主が出つづけた。その中でも秀逸だったのが二十八代・斉彬だった。
 斉彬が藩主となったのは、嘉永四年(一八五一)だった。斉彬はヨーロッパの科学技術を積極的に導入し、スケールの大きな近代化産業を推進した。この事業の中心地となったのが尚古集成館周辺にあった工場群で、事業の分野は製鉄・造船・造砲・紡績・機械・印刷・出版・教育・製薬・精糖・ガラス・医療など多岐にわたった。
斉彬はすでに佐賀藩がもっていた反射炉を薩摩藩でもつくろうとした。その一号炉の製造は失敗に終わってしまうのだが、そのとき斉彬は、

  西洋人モ人ナリ。佐賀人モ人ナリ。薩摩人モ同
  ジク人ナリ。退屈セズマスマス研究スベシ

 という鹿児島人なら誰もが知る有名な言葉でもって励ました。この言葉に勇気づけられ、薩摩人もついには反射炉を完成させた。

 それにしても島津家の歴史は古い。島津家は鎌倉時代においてすでに守護大名だった。以後、この日本において明治維新まで大名でありつづけたのは島津家のみである。司馬遼太郎さんは「治乱興亡八百年を通じ、その時間、空間のなかでこれほどの隆盛さを示している家というのは、世界中をさがしても日本と英国の王家をのぞいては島津家のほかないであろう」と書いている。それほどの家を擁しているというだけでも、薩摩というのは存在価値が大したもののように思えてならない。

 薩摩といえば、
「西南戦争」
 についても触れないわけにはいかない。
 西南戦争は明治十年(一八七七)に勃発した。戦場は今の鹿児島・熊本・宮崎の三県にわたった。
 さて、鹿児島市内についていえば、西南戦争に関わる史跡は城山周辺に集まっている。たとえば、
「私学校跡」
 がある。それは城山の麓、鶴丸城跡のすぐ隣にある。
 私学校は、征韓論に敗れた西郷隆盛が下野したのち鹿児島に設置したものだが、内実は私設軍隊であり、政治結社だった。士族数万人を擁していた。といいながら、当の西郷は下野してからは人が変わったように山中に籠もり、狩りなどして日々を送っていた。
 私学校は、不平士族の巣窟だった。メンバーには、桐野利秋・篠原国幹・別府晋介らがいた。結果的には、これらのメンバーを西郷さえ制御しかねた、それが西南戦争だったといえる。
 私学校は、暴発した。させられた、のかもしれない。このあたりは私学校にも政府にも言い分があり、判然としない。私学校の最初の動きは、県下の火薬庫襲撃だった。この一報を聞いたとき西郷は、
「シモタ!」
 といったらしい。翌日、西郷はすぐに下山した。
 西郷は、私学校の士族団を外患(ロシアの南下政策など)への備えとしようと考えていたが、そうなる前に私学校生徒は一揆化した。そうなった以上、西郷は生徒を見捨てるわけにはいかなかった。
 現在、私学校跡は国立病院九州循環器病センターになっているが、当時の石塀のみ残っている。この石塀には数多くの弾痕がある。私学校は西南戦争の際、当然戦場になった。その戦闘の激しさを弾痕の数が物語っているといってよい。

 旅の三日目。鹿児島を離れるこの日、私は朝はやくに城山に登ろうと思った。西郷が城山にて死んだのが早朝七時頃だったという。何となくそれに近い時刻に城山に登りたい気がした。
 西南戦争の最後の舞台はこの城山だった。もともと三万以上いた西郷軍(薩軍)だったが、この城山に籠もったのは三百余人にすぎない。対して城山を何重にも包囲した官軍は、五万とも七万ともいわれた。これはもはや戦争ではなく、虐殺に近かった。
 ただ、包囲する官軍も、相手が日本最大の仁者だけに、さまざまに気を遣っていた形跡がある(もちろん官軍が薩人を多く含んでいたことも大きな理由のひとつである)。官軍はすぐには攻撃をせず、総攻撃の前日には予告さえした。前日、官軍の総帥・山県有朋から西郷に向けて私信が送られたりもした(山県は長州人ながら西郷好きだった)。
 しかし、結局は今さらどうすることもできないのである。西郷は死ぬしかないのであり、あとはいかに死ぬかという問題でしかない。

 西郷の最期は劇的といわねばならない。明治十年九月二十四日、早朝。官軍による総攻撃がはじまったのは、午前三時五十五分だった。おりから十七夜の月が出ていたという。城山のあちこちで官軍が猛攻を仕掛け、薩軍の防御施設はつぎつぎに落ちた。敗走した者は岩崎谷の西郷本営をめざして走った。
 岩崎谷の岩肌に薩軍が横穴をいくつか掘っていた。そこが西郷本営となっていた。
 午前七時過ぎであったか。
 西郷たち本営四十余名は、横穴を出た。西郷は薩人らしい死に方(つまり闘死)を求め、できるだけ敵陣に向かっていこうとしたのかもしれない。
 一行は西郷を守るようにして走った。途中、圧倒的な狙撃を受けた。ついに西郷は銃弾を二発、体に受けた。西郷は、倒れた。倒れてすぐに西郷はいったという。

  晋ドン、モウココデヨカ。

 介錯したのは、西郷に最も愛された人物のひとり、別府晋介だった。西郷の最期を見届けると、桐野利秋ほか薩軍幹部はその三〇分後にはみなが戦死した。

 まずはタクシーで城山の麓にある、
「照国神社」
 を訪れた。早朝だったので、境内にほとんど人影はなかった。参拝後、神社の脇にあった登山道をゆっくりと登りはじめた。道は途中から石段になった。それを上がっていくと、城山の山中に入っていく。山中はさすがに樹木が茂っているので、その木陰が涼しかった。
 城山の頂上には展望台があった。そこからは正面に桜島の姿が見えた。この日の桜島もやはり頂上付近に白い雲をいただいていて私は多少失望したが、そのかわり、錦江湾が神々しいほどに光っていた。目を開けていられないほどにまぶしかった。その輝く海面を、フェリーが桜島に向かって進んでいくのが見えた。

 城山は山といっても、標高は一〇七メートルしかない。山道は思っていたより舗装されているところが多く、歩くに不自由さはなかった。山頂を過ぎ、今度は道は下っていった。途中、大きな車道に合流し、そのまま舗装された道を下りていった。つづら折りに下りていく道は、岩崎谷へと向かっていた。もうほぼ谷を下りきったかと思われた頃、土産物屋が見えた。そこに、
「西郷洞窟」
 があった。薩軍が掘った横穴が二つ、今も現存するのである。西郷は死ぬ直前の数日間をこの横穴で過ごした。そして、横穴からさらに六〇〇メートルほど先に行ったところ、現在のJR日豊本線沿いに、西郷終焉の地の碑がひっそりと立たっていた。

 西南戦争の解釈は難しいからここではそれを書かないが、ひとついえるのは、西南戦争は西郷隆盛と大久保利通の闘いだった、ということである。二人はともに現在の鹿児島中央駅近く、甲突川沿いにある下加治屋町に生まれた。ともに下級武士の子だった。ちなみに下加治屋町は当時、七十数戸しかなかったが、その中から西郷・大久保以外に連合艦隊司令長官・東郷平八郎や陸軍大将・大山巌などが出ている。
 二人は幼なじみだったし、大久保の父が政治犯として遠島処分になった際には、大久保は西郷家に大いに世話になった。

  西郷家の昼めしどきになると一蔵どん(利通)
  がやってくる。無言でひつからめしをよそい、
  無言で食っている。西郷家のひとびともだま
  っている。
       (司馬遼太郎『翔ぶが如く』より)

 このような情景を薩摩の人々は語り継いできた。さらに二人は幕末の争乱においてもおたがいを信じきった親友だったし、盟友だった。
 この西郷と大久保が、誕生したばかりの明治政府を賭けて激突した。その事実は、薩摩という国の歴史のクライマックスとして実に凄味があり、同時にこれ以上ない悲哀を人々に感じさせてきたのである。

 城山を下りた私は、そのまま旧・下加治屋町まで歩くことにした。
 この日は朝から暑かった。いかにも南国の夏らしい強い日差しのもと、鹿児島の繁華街を横切って甲突川のほとりをめざした。二〇分ほど歩いたか。まずは西郷の生家跡を見つけた。そこから甲突川沿いに西へ行くと、すぐに大久保家跡もあった。たしかに両家はあまりに近かった。

 何となく、疲れた。大久保の生家跡が多少、公園のようになっていた。そこにあったベンチに腰かけると、あたりは木々に囲まれていて涼しかった。風がかすかに通り抜けた。その風がやけに心地よく感じられた。
 これで『薩摩みち』を終わる。
                    (完)