淡路島にて

  



 冬の淡路島を訪れた。島へはかつてなら明石海峡を船に乗るしかなかったが、今日は明石海峡大橋があって車で渡ることができる。私は当初、この海峡をあえて船で渡ろうとも思ったが、諸事情を考えて断念し、車で行くことにした。
 きっと船で渡らなければ、島へ渡ったという実感がさほど味わえないのではないか。そう心配していたが、いざ車で明石海峡大橋を行く気分は、思ったより何倍も爽快で、その気分の高揚は私に渡島の感動を十分に味わわせた。
 この日は天気に恵まれた。よって広大な青天のもと、海峡の海面がこれ以上ないほどにまぶしく輝き、目が痛いほどだった。そのまぶしい海面を、いくつもの船影が静かに渡っていくのが見えた。それらの船はフェリーであったり小さな漁船であったりした。海のようすが何もかものんびりしていて、それらの影はほとんど動いていないかのようだった。
 海峡を渡りきると、道はそのまま島北部の山間部を走った。よく見ると、山の斜面に見事な棚田がいくつも見られた。私は思わず車のスピードをゆるめ、棚田の景色の中を走ることの心地よさを少しでも長く感じようとした。
 途中、室津のパーキングエリアで車をとめた。このパーキングエリアは播磨灘に面しているのである。そこから見渡す海は、あまりに美しかった。海の青さはどこか淡さを感じさせ、その果ての地平線はやはり霞がかったように見えて、穏やかだった。何もかもがまるで春の海のようであった。

 淡路島といえば江戸時代、島からひとりの豪商が出た。高田屋嘉兵衛(1769〜1827)である。島の西岸の都志本村(現・洲本市五色町)に生まれたが、実家は貧しい百姓で、日々食い代に困るほどだった。嘉兵衛はのち北前船で大成功し、それだけでなく蝦夷地でロシア船に捕まり、カムチャッカに連行されるという経験をもした。淡路島まで来たのなら、それほど壮大な人生を送った嘉兵衛の故郷というものを見てみたいと思い、都志の町を訪れた。
 町は、ひっそりとしていた。私はまっすぐ嘉兵衛の屋敷があった場所に向かった。そこには最近まで遺構として厩一棟が残っていたというが、先の阪神淡路大震災によって全壊した。現在、屋敷跡は公園になっていた。
「私が子供のころは、都志の港から客船が出ていました。それに乗って修学旅行に行きましたから」
 と、公園内に建つ記念館の受付の女性が教えてくれた。かつてはそれほど人気のあった港町も、今では多くの漁村がそうであるように、ある種の寂れを感じさせた。
 都志の浜辺に出てみた。そのせまい砂浜に人影はまったくなかった。ひたすら波と風の音しか聴こえず、とびきり冷たい海風が容赦なく吹きつけた。
 にもかかわらずその場を離れがたい気がしたのは、脳裏にその浜を菊弥(嘉兵衛の幼名)が走りまわる姿が連想されたからだった。それは私にとってこの上なく楽しい時間であった。

 淡路島を訪れてから1週間ほどして、友人と姫路城へ行った。しかし、その日はちょうど正月のUターンラッシュがはじまった日だった。神戸周辺の道がさすがに混雑し、姫路にたどり着いたのは正午過ぎだった。
 3時間ほど姫路城を堪能し、帰路についたが、高速道路の渋滞はひどくなるばかりだった。友人と相談し、渋滞がはじまる神戸の手前、明石のサービスエリアで仮眠をとるなどしたが、状況は一向によくならなかった。ここで友人は彼にしては実に気の利いたことをいった。
「淡路島へ渡って、温泉にでもつかったらどう?」
 彼は思いつきでそういったのだが、たしかに淡路島にはいくつもの温泉場があり、それは北淡にもある。明石海峡大橋を渡ればすぐである。とっくに日は暮れていたが、きっとそれは妙案だろうと思って、大橋を渡ることにした。
 大橋は別称を「パールブリッジ」という。夜の海峡に浮かぶ世界最長の吊り橋は、虹色にライトアップされてたしかにきれいだった。
 大橋を渡りきってすぐのところに温泉場があった。今どきはやりの大型大衆浴場で雰囲気はないが、何より立地がよかった。このあたりを昔から、
「松帆ノ浦」
 といい、平安朝以来の歌の名所なのである。たとえば百人一首にはかの藤原定家が、

  来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
  焼くや藻塩の身もこがれつつ

 と詠んでいる。その浦にて湯につかるとなると、多少趣は出るだろう。
 浴場には露天風呂があった。正月の風はあまりに冷たかったが、私たちは外に出た。眼下に明石海峡が広がり、その上に大橋が先刻とは照明の色を変えて横たわっていた。明石の夜景はまるで綺羅星のごとく光り、空にはオリオン座がはっきりと見え、その近くを旅客機が何機かとんだ。
 まさかこの日、松帆ノ浦で温泉に入るなどとは思っていなかったから、私にはすべてが夢の中の出来事のように思えた。