嵐 山 に て



 

 初夏のある日、Mさんと嵐山を訪れた。午前九時、JR嵯峨嵐山駅を降りた私たちはまず、嵐峡での舟遊びを楽しむことにした。
 嵐峡での舟遊びについては逸話がある。明治元年(1868)春のこと。その日、嵐山の桜は満開だった。桂小五郎が友人とともにに舟を浮かべ、花見に興じていた。
 二人が舟遊びを終え、磧を歩きはじめたとき、前方から騎人が来た。それに気づいた小五郎がおどろいてすぐさま跪(ひざまづ)き、拝礼した。その騎人は、何とかつての佐賀藩主・鍋島閑叟だった。閑叟は二人に、
「もう一度、舟にのぼらぬか」
 と誘った。二人はよろこんで応じた。その舟上、小五郎はかつての佐賀藩主に、薩長への軍事的協力を求めた。当時、佐賀藩はどの藩にも劣らぬほどの洋式兵器を備えていたが、勤皇・佐幕の区分でいえば中立といってよかった。
 閑叟はこの申し出を受けた。この瞬間、勤皇側の戦力が飛躍的に充実した。

 私がこのエピソードを好むのは、その光景がまるで映画のワンシーンのごとく色鮮やかにイメージできるからである。その主人公たる閑叟は、佐賀藩の改革に邁進しつづけ、そのために心身が休まることなど一時もなく、おまけに贅沢をいっさいしない男だった。
 そんなかれにとって、嵐山の散策はそれまでほとんどしたことのない憂さ晴らしだった。そんなとき、桂小五郎と会うのも運命じみているが、とにかくその小五郎から漏らされた重大事を、それまではさんざんに断っていたにもかかわらず、舟の上でいとも簡単に承諾した閑叟という男の気分を想像してみたいと思ったりする。
 つまり、閑叟と小五郎が偶然出会った日、嵐山は絶景だったはずで、その風景の見事さが閑叟の決断に少なからず影響したのではないか、と私などは思うのだが、どうだろう。
 ちなみに、その後の佐賀藩の軍事行動はめざましく、とくにアームストロング砲に象徴される洋式兵備の威力が各戦線での直接的勝因となったりした。そのきっかけとなる大決断が、春の嵐峡という長閑(のどか)な場所においてなされた点、歴史のおかしみといえなくもない。

 舟は静かに大堰川を上っていった。川の両側には、嵐峡の新緑があふれている。その緑は、色相を微妙に変えながら奥へとつづいている。一様にやさしい色で、それらが日の光に照らされると、ときに鮮やかに、ときに淡く光るかのようだった。それでも想像していたより全体的に暗く見えたのは、きっと陽の加減のせいである。この日は雲が多かった。快晴であったなら、これらの新緑はさらに眩しいばかりに輝いたにちがいない。
 風が爽やかに舟上を吹き抜けていく。その心地よさにMさんは思わず感嘆の声をあげた。私は水面に目をやった。川面は全体に緑がかって見え、いたって穏やかである。思わず何度も水の中に手を入れてみると、その冷たさが実に心地よく、初夏の舟遊びのよさを十分に感じさせた。



   

 舟遊びを終えた私たちは、渡月橋の南畔をそのまま上流に向かって歩いた。その先に角倉了以の木像を安置する大悲閣千光寺があるはずで、今度はそこを訪れようとしたのである。
 途中、祭りの出店のような建物があった。何の変哲もない店だったが、その前を通過しようとしたとき、店に掲げてあった看板を見ておどろいた。木の板にマジックで書かれた看板には、
「嵐山二軒茶屋 あま酒・おでん」
 とあった。嵐山の二軒茶屋といえば、司馬遼太郎さんがかつて『街道をゆく』で大悲閣千光寺を訪れようとしたとき、立ち寄った店ではないか。その中に登場する女主人は当時、もはや老婦人で、店の簡素さや経済的なことなどを考え合わせると、とうてい茶屋は今日、存在していないだろうと思い込んでいた。その茶屋が、目の前にある。店の主人は、威勢よく話す男性に変わっている。年の頃、七十前後だろうか。
 私がオデンを一皿注文すると、川辺にいくつか並べられている床几に案内された。二人で床几に座って待っていると、主人がオデンを持ってきた。いわゆる関東煮のオデンである。実はオデンの味自体はそれほど期待していなかったのだが、見るからに味がしみていそうなオデンは、妙にうまかった。こんなにおいしいオデンを食べたのは何年ぶりだろう。
 食器を返しに行ったとき、主人に話しかけてみた。『街道をゆく』の話をすると、主人は肯いた。たしかにこの店だという。
「店は江戸時代からですわ。昔は泊まるところもあったくらい大きかったんですけど、十回以上、川に流されてます。『街道をゆく』に出てくるのは、私の母です。実は去年の四月までずっと店に出てたんですけど、翌月亡くなりましたわ。九十才でした」
 どうやら先代は七十年以上ものあいだ、同じ場所でオデンを売っていたらしい。
 私がオデンのおいしかったことをいうと、主人は大きな声で答えた。
「江戸時代からずっと同じ作り方ですわ」
 じゃあ、これは江戸時代の味なんですね、と返すと、主人はあはは、と声をあげて笑った。無論この場合、話の真偽など問題でない。

 帰宅して『街道をゆく』を調べてみた。この店のオデンの味について、司馬さんの文章にはつぎのように書いてあった。

 私もチクワを食べたが、しんまでだしが沁みこん
 でいて、二日や三日は煮込んだにちがいない。


 私が食べたオデンもまったくそうで、少なくとも母親の味は息子へとしっかり受け継がれているらしかった。
 それにしても渡月橋周辺とはちがい、大悲閣への道は人影もまれでひっそりとしている。が、そんな道沿いにある屋台風情の店にさえ数百年の歴史があるという事実に、私は京都という場所の凄味を見せられた気がした。