本所深川にて



 

 久しぶりに東京を歩いてみようと思ったが、かといって行きたいようなところはもう大方歩いてしまっているような気もした。気に入った場所を再訪するのもよいが、旅において多少、貧乏性の気がある私は、やはり未踏の地へ行きたいと思ってしまう。
 もちろん東京で未踏の地はたくさんある。たとえば、隅田川を渡った記憶がほとんどない。皇居にしろ上野公園にしろ銀座にしろ、すべては隅田川の西の話で、隅田川から東はまるで別世界のようである。
 実際、江戸中期までは別の国だった。本所・深川あたりはそれまでずっと下総国に属していた。深川あたりについては、三代将軍家光の頃、市街地化した。それまでは隅田川河口部にできた洲にすぎず、人が住めるような土地ではなかったが、富岡八幡宮というのができ、門前町が発展した。
 本所の「江戸化」については、明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」という江戸史上最大の火事が由来である。焼死者が十万七千人にものぼったこの大火事以来、幕府は消防対策のため、各地に「火除地」、つまり空き地をたくさんつくった。自ずといくつかの大名屋敷などは移転を余儀なくされ、屋敷地を別に用意せざるをえなくなった。そのため本所が開発された。
 その際、新たに「両国橋」が架けられた。武蔵国(江戸)と下総国の両国にまたがる橋、というわけである。ちなみに両国橋は姿を変えながらも今なお存在する。
 これまで隅田川を渡らなかったのは、そこが司馬遼太郎さんのいう、
「江戸っ子の産地」
 であったことと無関係でない。江戸っ子などと聞くと、私などはどうも怖じ気づいてしまっていけない。江戸っ子は「気っぷ」が命という。ちなみに「気っぷ」とは「気風」の音が変化した言葉で、思いきりがよくさっぱりした気性をいう。だから、その対極にあるような私などが足を踏み入れると、もしやそこらの江戸っ子の爺さんに叱られやしないかと、半ば本気の幻想があった。
 いろいろ考えながら、ついに隅田川を地下鉄で渡った私とMさんは、とりあえず隅田川沿いを歩いた。松尾芭蕉の庵跡がその川沿いにあり、その周辺を散策しているうちに、ばったり神輿の行列と遭遇した。近くにある深川神明社の祭礼らしい。
 私は江戸の祭りをはじめて目の当たりにした。街の大通りが車両通行止めになり、そこをいくつもの神輿がゆく。神輿はどうやら七つも八つもあるらしい。担ぎ手はほとんどが男衆で、だれもがいかにも江戸っ子そのものである。まずその衣装が、らしい。頭にねじり鉢巻きをし、ハッピを着ている。ハッピの柄は神輿によってちがう。下は白い半股引、つまり膝上丈の股引をはいている。いや、はいていない人もいる。その人たちはふんどし姿である。かけ声は「ヨイショ、ヨイショ」で、そのテンポはかなりはやい。このあたりにもやはり江戸の威勢のよさが出ている。さかんに沿道から水が掛けられる。江戸の祭りにはどうやら掛水がつきもののようで、沿道にはちゃんとバケツに汲んだ水が用意されている。
 各神輿の先頭を歩くのは、祭礼委員の赤タスキを掛けた初老の人たちである。なぜか花笠のようなものをかぶっている。その人たちの、何か気に食わぬことがあればすぐさま一喝を加えかねない厳格な表情が、またいかにも江戸っ子親父を思わせてよかった。その人は拍子木をもっていて、行列が行き着くところまで行き着くと、くるりと神輿の方へ向きなおった。そして、用意された台の上に立ち、頃合いを見計らって練り歩きの締めを宣言すべく拍子木を高らかに打った。その音に合わせて皆も拍手をし、行列はとりあえず終了する。
 私は、思いがけず江戸っ子文化の片鱗を見せられ、その気っぷのよさを多少なりとも実感できたことを喜んだ。何より、江戸っ子の爺さんに一度も怒鳴られずにすんだことに安堵した。
 祭りの列を離れた私たちは、すぐ近くにあったドジョウを食べさせる店に入った。本所・深川へ来たら、柳川鍋か深川飯を食べなければ帰るわけにはいかないだろう。
 私もMさんもドジョウを食べるのははじめてだった。私は柳川鍋を、Mさんはドジョウを卵でとじず、丸ごといただく丸鍋を注文した。
 ドジョウを食うことも江戸っ子文化の一つにちがいない。つまり大げさにいえば、これまた異文化を実感することになるのであり、その点、胸が高鳴らずにはいられなかった。
 さて、はじめて食べたドジョウは、まずくはなかったが、何となく土臭いような気がしてしまい、ウナギの方が数倍うまいのではないか、と思った。しかし、かといって隅田川をふたたび渡ることがあったら、そのときにもきっと食べたくなるにちがいない、そんな味でもある気がした。