第14代沈壽官氏インタビュー
        (平成21年8月12日)

 
         
現在の桜馬場



Q)美山はかつて「朝鮮の山河」のようであったといいますね。

 僕もこの山地が「祖国ノ山河ニ似タリ」というのは、あの小説(『故郷忘じがたく候』)ではじめて聞いたんですけどね。
 最初、上陸した串木野というところで迫害を受けて、苦労して遠回りして逃げてきたんですよ。ストレートに来れば十二キロぐらいですけども、そんな単純なもんじゃないんですね。あの頃は「門制」というものがあって、一門に三十ファミリーぐらいいまして、それで共同耕作・共同納税をやってたんですね。そして一応、串木野というところでは六年ぐらいいたわけですから、やはり「門」の中に編成されていたわけです。そこを抜け出してということは、非常に覚悟してのことでしょう。
 ここに着いたときは、へとへとだったらしいですね。親父もそういってました、そりゃもうすごい格好だったらしいよって。でも、父も見たわけじゃないから、代々聞いてた言葉かもしれませんね。
 司馬先生が「コノ山河ハ故郷ノ山河ニ似タリ」とお書きになって、持論をぱっと示されたけど、どうなんでしょう。それよりも、これ以上は逃げられない状況だったんじゃないでしょうかねえ。いたるところで迫害にあって。国際化なんていう言葉がない時代ですからねえ。

Q)明治までは一村ことごとく韓語で語ったといいますね。今も名残はありますか。
 いや、もう今ねえ、僕の代ぐらいまで。今の若い人にその言葉で話しかけても、全然わからないですね。おままごとで、お金のことをトンといったりね、ブランコのことをクルネといったり、子供たちだけがときどきそういう言葉を使って話しますね。もうだって、四百年ですもん。司馬遼太郎先生があの本をお書きになって四十年ですから、そりゃ山河も言葉も変わりますよ。

Q)「御前黒」というものがあったのですね。
 そういう釉薬がね。うちでも『焼物伝書』ってのがあるんですよ。何々の配合はいくらだとか、窯はどこで焼いてって書いてあるけど、そこに釉薬の存在する場所は明記せず、口伝で親が伝える。他の人がそれを盗み見してもわからないようになってる。だから、父がその山の釉薬が出る場所に長く行ってなくて、「その色を出してみろ」って私をけしかけたのがはじまり。あの人はいつもそういうもちかけ方をした。とてつもない無理難題でした。(笑)

Q)先代(13代)は「御前黒」をつくらなかったのですか。
 うちの収蔵品で一点残ってますが、あれは父の手だと思うけどねえ。

Q)14代先生もたまには「御前黒」をつくられたわけですね。
 そう、そういうのはね、手抜きの大量生産でそうたくさんつくって売れるもんではないし、たくさんつくらないことで価値を大きくするようなものですから。

Q)ヘカク老人について教えてください。
 漢字では「平」に「覚」、たしかそうだったと思うなあ。オソロシカおじさんの一人でした。じろっと見られただけで嫌な感じがして。薩摩の古風な人の一人でしたなあ。強いていうとタバコくさいね。タバコの匂いがもう完全に染み込んで、おんぶしても凄まじかった。爺さんは朝から晩までタバコを飲んでたんでしょうなあ。
 一定の場所まで連れていって、爺さんおろして、あっちやこっちや行って、「ここはなかぞ」となったら、また次の場所へと。爺さんは焼物つくりじゃないですから、自分が生きるために掘ったことはない。ただ欲しいといってきた人にやっただけですから、だいぶ記憶がそういう意味ではもう不安定でしたね。土というのはまあ難しいもんで、五十メートルちがったらまったくちがっちゃうから。しかし今、あんなオソロシカ人、いなくなりましたなあ。

Q)美山にはかつて素読の習慣があったといいますね。
 ありましたよ。僕らまでありました。板の間に座って、そこにこんな大きな活字の本を広げて、「子曰く」って。親父が後ろに立って、棒を持ってきて本を指すわけです。それを大きな声で読まないかん。意味はわからないが覚えておけ、と。そのうち意味は必ずついてくる、と。少なくともこの家では私の代まで素読をやりました。それが今、私にとってはすごい力になっている。
 とにかくあの時代は覚えることでしたからね。小学校のご本をいただくと、三日以内で全部読めっていう。そして、十日ぐらいで全部暗唱させられました。小学校一年でも二年でも三年でも六年でもやらされた。全部読めって。それでわからんかったら辞書を買ってきて。父は復習を重視しましたね。予習は軽くやって、授業で習ったことを家でもう一回繰り返す。朝鮮筋目ですけど士族ですから、侍としての教養が求められるわけです。
 この前の道路は桜馬場と呼ばれてたんですが、昔は冷蔵庫がないから漁師は魚があがったらすぐ籠に入れて担いでこないと腐っちゃうでしょ。で、夜中に通ったり、朝早く通ったりするわけですが、いつ通っても素読の声が聞こえていた。それが桜馬場の特徴でしたね。それで多分、漁師さんも励まされたんじゃないですか。