薩摩への恩義

 


 私は岐阜県の生まれである。さらにいうと、いわゆる西濃、つまり岐阜市や大垣市のあるあたりの出である。もとの地名を「糸貫」(いとぬき)といったが、近頃の合併騒ぎの煽りを受け、今では本巣市となってしまっている。
 糸貫のあたりは濃尾平野の北の果てといってよく、よって扇状地となっている。おかげで柿の栽培がさかんで、小学生時分の登下校中など、民家と田園、そしてあたり一面に広がる柿畑しか見た記憶がない。
 家のすぐ近くを糸貫川が流れている。糸貫川はかつてはかなりの川幅があったというが、今日では想像しがたい。実際、我々が遊んだときにも、数歩で渡っていた。それでも下流へ行けば多少は川らしくなるようで、一応、一級河川であり、最終的には長良川へ合流している。
 糸貫の西端には根尾川も流れている。こちらのほうがはるかに川幅がある。この川はすぐに揖斐川へと合流し、その先、やや蛇行を繰り返しながら南下する。すぐ東を並行するようにして長良川もゆく。この並行は数十キロつづくが、途中、長良川のさらに東に木曽川さえ並行するようになる。この三川を「木曽三川」という。
 この三川は今も大河だが、江戸期の頃からそうだった。三川が伊勢湾に流れ込もうとする一帯(今の地名でいえば、岐阜県海津市から三重県桑名市にかけて)は、この三川があやとりの糸のごとく絡みあい、ねじれあっており、大雨のときは必ず氾濫した。当時、この地方ほど水害に悩まされた土地はなかった。
 治水工事が行われたのは、宝暦四年(一七五四)からである。宝暦治水という。幕府は薩摩藩に工事を命じた。工事は難事をきわめるはずであり、これに取り組むということは莫大な費用を必要とした(工事費は工事を行う藩の自己負担である)。その工事を幕府はあえて薩摩藩にやらせた。いうまでもなく、薩摩は長州と並んで外様の雄とされる藩で、幕府はつねにその実力をそぐことに神経を使った。この工事もその一環であり、明確な薩摩いじめだった。
 この報を受け、薩摩藩内は相当に紛糾したが、藩主・島津重年は涙ながらに耐えがたきを耐えるよう説いた。薩摩藩の地獄はこのときからはじまった。
 宝暦四年の一月、薩摩藩士が一千名、西濃の地へやって来た。翌月、一年三ヶ月におよぶ工事がはじまる。薩摩藩士は資金づくりに奔走しつつ、地元の百姓とともに泥にまみれながら堤を築いた。ときには、武士としての自尊心をズタズタにされるようなことも生じた。それに耐えられず、自ら命を絶った藩士も少なくなかった。
 国元は国元で、血のにじむような節約を徹底せねばならなかった。武家でさえ一日一食とするようなこともあった。そのようにしてつくられた資金は、幕府旗本や村役人の不合理・不道徳な思考や行動により浪費されることもあった。それでも薩摩藩は耐えるしかなかった。それはまさに、太平の世におけるたった一藩だけの戦争だった。
 宝暦五年(一七五五)五月、工事は完成した。総工費は、薩摩藩の年間予算の丸二年分だった。藩士で死んだ者八十余名、うち切腹した者五十余名。
 完成直後、工事の総奉行であった家老・平田靱負は、工事中に多くの藩士が自決したことなど工事におけるすべての責任をとり、帰国の途につくはずの日の早朝、香を焚いた役館内の自室にて静かに切腹した。

 これら宝暦治水の話は、少なくとも木曽三川流域で義務教育を受けた者であればだれもが知っている。私の場合、小学四年生の社会科の授業で習ったが、このような教育を受けている以上、木曽三川流域の人々は今でも一様に「薩摩」に恩義を感じているところがある。そしてもちろん、私にもそれはあるのである。