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美濃・うだつのあがる町並み
何となく足を運んでしまいたくなる場所がある。私にとってその典型のひとつは、岐阜県美濃市の町並みである。
美濃市といえば、江戸時代より和紙の生産で有名だった。今日はパルプ、つまり洋紙全盛の時代で、和紙の需要は少なかろうが、それでも美濃市では今なおその伝統を守ろうとし、それを観光の目玉のひとつにしている。
そういえば小学四、五年生だった頃、この美濃市へ社会見学に来たことがあった。そのとき、目の前で紙漉作業を見せてもらったおぼえがある。私は、子供心に紙漉に興味をもったらしく、案内の人が和紙の原料を「こうぞ」「みつまた」と教えてくれたことを今でもはっきりとおぼえている。
美濃市を大人になって訪れるようになったのは、「美濃和紙あかりアート展」を知ったからである。毎年十月上旬に、美濃市役所近くの重要伝統的建造物群保存地区で、美濃和紙を使ったオブジェ(それぞれが照明器具でもある)を、古い町並みの軒先に並べて展示するのである。あたりが暗くなると、そのひとつひとつに灯りがともされ、町並みは幻想的な雰囲気となる。
私が友と一緒にこの催し物をはじめて訪れたのは二年前だが、その雰囲気が忘れられず、次の年も行った。これはもちろん伝統的産業を町おこしに生かしているということだが、割合うまくいっている方ではないだろうか。
そういえば、昨年はその町並みの入口に焼肉の店を見つけ、そこに入った。その店の雰囲気がまた妙になつかしい気がした。現在、焼肉屋もチェーン店全盛になってしまっているが、昔は個人経営の店が当たり前だった。小中学生のころ、家族行きつけの店で食べたホルモン焼きの味などは今も忘れられずにいるが、その店を思い出させるような店だった。私はすぐに座敷席に座り、迷わずホルモンとレバーを注文したが、味もまことに期待どおりだった。おいしいというより、何もかもがなつかしかった。
なつかしいといえば、この美濃の町並み自体、私にはなつかしい感じがする。正確にいうと、その町割が、である。私の生まれた町のとなりに北方という町がある。かつては名鉄線が走っていて、その駅が北方町内に二つもあったが、今は廃線となっている。その町に自転車で出掛けていくことが、小中学生の私にとっては多少の冒険だった。何せ当時、私の通った小中学校では、親の許可なく隣町へ行くことはご法度だった。今から思えば滑稽なルールだが、当時の私はそのルールを厳格に守ろうとする生真面目な子だった。だから、どうしても北方の町にしかなかった本屋へ行く場合は、母に「この子が校下外へ出ることを許可します」との文言を紙切れに書いてもらい、それをポケットにしのばせ、胸をどきどきさせながら自転車をこいだものだ。
その北方の中心部の町割が、この保存地区のそれとそっくりなのだった。とくに入口の風情などはうりふたつで、私は思わず声をあげたくなった。
この保存地区は、
「うだつのあがる町並み」
として全国的に高名である。確かに町並みには江戸時代を思わせる町屋づくりの家がいくつも建ち並び、よく見るとそれらの屋根には決まって、
「うだつ」
があがっている。うだつとは、屋根の両端の隣家と接する部分にこしらえた防火壁のことで、家によって装飾のオリジナリティーがある。当初はひたすら防火のための装置だったが、時代を経るにつれて装飾性を競う対象となり、富の象徴となった。よってこの町においても、富家が競うようにしてうだつをあげたと思われる。
ちなみに、この町並みでもっとも美しいうだつは小坂家住宅のものかもしれない。安永年間に建てられたこの建物は造り酒屋で、今日も操業している。造り酒屋の建物は昔より立派なものと相場が決まっているが、この小坂家も例外でない。間口も広ければ奥行きも深く、古色を帯びて堂々としているたずまいは、さすがに三百年の歴史を思わせる。そのうだつは、まるで龍が空をうねるがごとくである。うだつの上に瓦がきれいに敷きつめられ、それがちょうど龍のウロコのように見える。そして壁全体はアーチ状に反っており、今にも動き出しそうな躍動感を感じさせる。何度見ても「威容」と表現するにふさわしいうだつである。
私はいつもこの町並みを歩き回ると、最後にそこらの喫茶店に立ち寄り、本を読む。読みながら、やっぱり美濃の町並みはいい、と思う。何がいいのか。私の場合、きっとそれは立派なうだつや町屋の姿以上に、その町割に象徴される「故郷の匂い」のような気がする。だったら美濃ではなくて故郷へ帰ればいいではないか、といわれてしまうかもしれない。事実、自宅からの距離は双方それほど変わらない。それでも故郷ではなく「故郷もどき」ばかりに来てしまうのは、この二十年弱ですっかり様変わりしてしまった故郷へのささやかな抵抗のつもりなのかもしれない。
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