桜 島

    


 鹿児島へ行くと、タクシーに乗っていても電車に揺られていても、気になって仕方がないのは、桜島である。
 たとえば、鹿児島中央駅でJRを降りると、何を差し置いてもまず、駅前のビルの隙間から見えるはずの桜島の姿を確認しようとしてしまう。もし桜島の地肌がはっきりと確認できようものなら、よし、今から仙巌園にでも行って、ゆっくりその勇姿を愛でようかと考える。しかし、案外綺麗に見えないことが多いのも桜島の特徴らしい。
 鹿児島といえば、鹿児島にゆかりのある作家に、向田邦子さんがいる。向田さんはかつて鹿児島に住んでいた。父(『父の詫び状』で知られる、あの父君である)の転勤の都合で、小学校五・六年を鹿児島市内で過ごした。その鹿児島を、彼女は長く訪れなかった。「帰りたい気持と、期待を裏切られるのがこわくてためらう気持を、何十年も」あたためつづけたが、乳癌を患ったのをきかっけに、万一のことも考え、一度訪ねておこうとした。そのときのことを「鹿児島感傷旅行」というエッセイに書いている。

 今年の夏、鹿児島の町を訪れた。リュックに向田さんのエッセイをしのばせて、である。
 さて、市内を歩いていると向田さんが当時、通っていた山下小学校に出くわした。その小学校から三百メートルも行かぬところに、天文館通りという鹿児島一の繁華街のアーケードがある。この界隈の雰囲気が悪くない。「天文館」(十八世紀末、島津の殿さまがつくらせた天体観測所の名称が語源)という言葉の響きもいいし、「山形屋」という、向田さんも買い物をした地元の百貨店があったりもし、いかにも昭和からつづく繁華街の風情を感じさせた。
 向田さんが住んでいたのは、城山(西南戦争の最終場面で、西郷隆盛らが立て籠もった小山。標高が一〇七メートルしかない)の麓だった。その場所にも行ってみたが、当時の面影はほとんどないらしかった。かつて彼女は、石垣の上にあった家の庭から朝夕、桜島の姿を眺めた。しかし、観光客はさすがに私有地である石垣上まで入ることは許されず、よって彼女と同じ視線で桜島を見ることはかなわなかった。
 磯浜にも行ってみた。仙巌園があるのはそこだし、近くには海水浴場もある。ここでは、
「磯浜のジャンボ」
 を食べた。浜の名物で、漢字では「両棒」と書くらしい。柔らかい餅に甘い醤油あんをからませたもので、二個の餅に二本の竹串が平行に突き刺してある。向田さんは「感傷旅行」でこのジャンボを久しぶりに食べ、桜島とこれだけは昔と変わらないと書いている。
 はじめて食べたジャンボは、期待どおりにおいしかった。あまりにおいしかったから、十二本も食べた。まだ食べたかったが、体裁が悪いのでやめた。
 それにしても桜島を綺麗に見ることの何と難しいことか。結局、この日は終始曇天だったこともあり、美しいはずの山肌はいつ見てもどんよりとした灰色で、しかもずっとてっぺんに雲をいただいていて、人々に重々しい印象だけを与えつづけた。
 夜、城山の上にあるホテルに泊まり、その翌朝。
 この日の昼前には鹿児島市内を離れる私は、なおも期待を込め、まだ人気の少ない城山展望台へ向かった。どうしても隈なき桜島を見たかった。
 まず目に入ったのは、桜島の下に広がる錦江湾だった。その表面が朝陽に照らされ、一瞬も目を開けていられないほどにきらきら輝くのがこの上なく美しかった。が、肝心の桜島はなおも上半身をすっぽり雲におおわれてしまっていた。私は苦笑いするしかなかったが、これはこれで桜島らしいのかもしれない、と思い直した。

  桜島といえば、サン・ロイヤルホテルの窓から
  眺めた夕暮の桜島の凄味は、何といったらよい
  か。午後の太陽の光で、灰色に輝いていた山肌
  が、陽が落ちるにつれて黄金色から茶になり、
  茜色に変わり、紫に移り、墨絵から黒のシルエ
  ットとなって夜の闇に溶けこんでいく……
            (向田邦子「鹿児島感傷旅行」より)

 またいつか、桜島を見ることがあるのなら、そのときは私がかつて一度も見たことのない、夕陽に染まる桜島を見ることにしたい。向田さんが書いているような、七色をした桜島を。