水 尾


 

 京都・亀岡から北西二十キロのところに丹波という町がある。H君はそこに生まれた。その丹波から京都盆地へ出ようとするとき、車で行くなら愛宕山麓を行くのが最も早かったという。ただし、途中、道幅がいかにも狭く、H君が子供のころ、夜中に父親の運転する車でそこを抜けたときにはたいそう怖い思いをしたらしい。
 地図でその道をたどってみると、途中、
「水尾」
 という地名に出くわす。古くより、
「絶壑(深々とした谷)ノ間ニ孤立ス」
 と表される地で、秘境といっていい。
 私はかねてよりこの水尾の地を訪れたいと思っていたが、「絶壑」の地と聞いてやや尻込みをしていたのである。今回、多少の勇気をもって足を運んだ。

 道幅が狭いと聞いて、電車で行くことにした。新幹線を京都で降り、そこからは山陰本線に乗った。ほとんどの乗客は、途中の嵐山で降りる。その先は途端に山深くなる。
「保津峡」
 という駅で降りた。寒かった。降りた人々の息がはっきりと白く見えた。
 そこからは四キロほどを歩く。例の道幅の狭い道路である。道はなだらかに上っている。すぐ左の崖下を渓流が流れている。大きな流れではないが、勢いはある。その音を聞きながらひたすら歩き、川の音がいつの間にか遠くなったと思ったそのとき、急に山道の前が開けた。すぐにそれが水尾の里とわかった。そこらの木々に柚子の実が鈴なりになっていたのである。水尾は柚子の里として名高い。
 集落の中に入った。集落といっても、現在の水尾には人家が三十戸ほどしかない。とにかく目立つのはたわわに実った柚子の木々で、ひとつの景観をなしている。また、ところどころには赤々とした南天の実も見られ、その配色の具合が美しかった。

 集落をやや見おろすかたちの斜面の上にある、
「清和天皇社」
 を訪ねた。平安前期の人である清和天皇は、清和源氏の祖として名は知られるが、大きな事歴はもっていない。ただ、仏教に深く帰依していた。二十七歳でその子に天皇の位を譲った清和は、そのまま仏門に入った。しばらく山城・大和・摂津の寺々を転々とし、一時期はこの水尾にも隠棲したらしい。その生活がよほど気に入ったらしく、自らの終焉の地に定めたと『日本三大実録』にある。
 ところが清和は、水尾に自らが住む山寺が完成する前に、仮住まいしていた嵯峨の地で亡くなった。遺骨は、清和の願いどおり水尾の地に葬られたが、その霊を祀ったのが清和天皇社である。
 舗装された細い道を上がりきったところに、古色を帯びた鳥居が見えた。清和天皇社の鳥居だった。そのたたずまいが実にいい。使われている木材はいつのものだろうか。色などまったく落ちてしまっているが、その木肌はこの社の歴史のおだやかさを感じさせる。鳥居をくぐると、階段が奥へとつづいている。周囲は深い森で、とても昼間とは思えない暗さである。それを登りきったところに、こぢんまりとした拝殿があった。村の氏神にふさわしい控えめな建物ぶりで、周囲は清掃が行き届いている。氏神として村の人々に大切にされていることが、その雰囲気からよく知れた。

 そのあと、しばらく集落のあちこちを歩いて回った。ところどころに「柚子風呂」「鶏」といった看板が出ている。どうやらそれらをもてなす民家がいくつもあるらしいが、商店が見当たらない。
 かろうじて一軒、土産物を売る店があった。さっそくそこに入り、柚子の実を買ってみた。お金を払いながら、店番の女性に話しかけた。
「小学校がこの上にありますね。中学校はないんですか?」
「中学校はありません」
 四十前後に見えるその女性は、笑って答えた。じゃあ、どこへ行くんですか、と問うと女性は、
「嵯峨」
 といった。集落から自治会のバスで保津峡駅まで下り、そこから電車に乗るのだという。
「今、中学生は何人くらいいるんですか?」
「いません」
 一人もですか、と思わず私は大きな声を出してしまった。さらに信じられないことに、現在の水尾には小学生以下の年令もただの一人もおらず、小学校は廃校になったという。地方で過疎という言葉が使われるようになって久しいが、この水尾の現状はまさにその一風景といえる気がした。
 なお、水尾には松尾姓が圧倒的に多い。おそらく八割近いのではないか。それほど同姓が多いと、区別するのが大変にちがいない。それをいうと女性は、
「屋号があります」
 と教えてくれた。何と、商売屋でなくともそれぞれ屋号があり、それで呼ぶのだという。なるほど、と思った。実に実用的かつ洒落た習慣といえる。ちなみにこの土産物屋の屋号は、「山」という字を丸で囲んだもので、「まるやま」と読ませていた。

 私はこの日、ついでに愛宕山に登るつもりでいた。かの明智光秀が本能寺の変直前に登ったという山である。集落のあいだを抜け、登山道へ向かおうとする途中、例の小学校前を通りかかった。校門に、
「京都市立水尾小学校」
 とある。中に入ると、猫の額ばかりといっていいわずかな広さの校庭があり、そこからコンクリートの階段を上がったところに鉄筋造りの校舎が建っていた。校舎は二階建てだが、校庭に比例して小さかった。
 校舎への階段のところに、小学生らしき子供たちが十人ほども腰かけ、弁当を食べていた。水尾小学校の児童か、と一瞬思ったが、そんなはずはない。きっと町の子供たちが水尾へ遊びに上がってきたのだろう。
 その学校のとなりには「清和園水尾寮」という老人ホームがあった(計算すれば、おそらくこの過疎村の人口の何割かをこの施設の老人がまかなっていることになるだろう)。入居している老人たちが何人も、あたりをゆっくり散歩しているのが見えた。のどかな光景ではあったが、様子からしてその何人かはすでに呆けているにちがいなかった。
 私は静かに踵を返し、そのままその場を立ち去った。過疎の村を訪れ、ただでさえ感傷的になっている者にとって、その光景は酷でありすぎた。