敦 賀


 

 アメリカ人の友人Tが、母国に帰国することになった。ちょうど一年前のことである。
 Tは、たしかウィスコンシン州の出身だったと思う。三十歳近くになって来日し、最初は大阪に住んだ。しばらくして今度は山口県の三隅町というところに移った。三隅町は、シベリア抑留の経験をもつ画家、香月泰男の故郷で、町内に氏の美術館もある(Tはアルバイトで、その展示品の解説の英訳をやったことがあった)。また、三隅町は天保期の長州藩の中心人物、村田清風が住んだ土地でもあった。地元では今でも清風を出したことを誇りに思っていて、何かあるごとに町の人は、
「こんなとき、清風さんは……」
 と話をしたと、Tは教えてくれた。
 そんな土壌にしばらく生活したせいか、Tは日本の歴史というものに大いに興味をもっていた。あるとき、彼が分厚い文庫本を読んでいたから、脇からのぞいてみると、それがあまりに難解そうな日本史の本だったから驚いた。彼は日本語がかなり堪能で、それくらいの本も平気で読んだ。
 英語講師として愛知に移り住んだのは数年前だが、私と知り合ったのは移り住んですぐのころだったと思う。まだ初対面も同然のころ、おたがいが歴史愛好家どうしとわかったとき、彼は、
「僕、近江が好きなんです」
 といった。「滋賀」とはいわなかった。私はそのとき、来日して七、八年しか経たぬこの外国人が、並々ならぬ「日本史を楽しむセンス」の持ち主であることを知った。かの司馬遼太郎も「近江」がどこの国より好きであった。「近江」とはそういう土地であり、Tはそういった感性をもった、きわめて日本人的な人であるといってよかった。
 そんな彼と一緒に、あるときは近江の古刹をめぐり、あるときは安土城跡や国宝・彦根城、姉川古戦場などを見て回った。高野山に車で行ったときは、山道を行く私の運転技術があまりに心許なかったらしく、奥の院で交通安全のお守りを買い求め、それを握りしめて帰途についたこともあった。そんな茶目っ気もあった。

 Tが帰国するという話を最初に聞いたときは、かなり動揺した。動揺したがすぐに、彼にぜひ思い出に残る最後のプレゼントをしなければ、とも思った。それには、彼が前から行きたいといっていた「敦賀」の地へ連れて行くのがもっとも良いような気がした。なぜ敦賀といわれても、はっきりした理由があるわけではないという。しかし、なぜかすごく気になるらしかった(こういう言い方も彼らしかった)。

 Tが帰国する二日前、三月二十九日は青天だった。私たちは(今までも毎回そうだったように)私の車で敦賀へと向かった。
 北陸自動車道から市内に入り、まずは気比神宮を参拝したあと、敦賀港近くの駐車場に車を止めた。そこからは徒歩で市内を回った。
 敦賀港の北に、海にやや張り出したかたちでこんもりとした丘(標高七〇余メートル)があった。城跡だった。この日、私の興味をもっともそそった金ヶ崎城の跡である。

金ヶ崎城の起源は源平時代らしいが、歴史的にもっとも高名になったのは、
「金ヶ崎の退口」
 とよばれる織田・徳川の退却戦においてである。元亀元年(一五七〇)四月、織田信長は徳川家康と連合し、越前の朝倉義景を攻めた。一時、敦賀に駐屯した。このとき、信長の義弟で同盟者だった近江の浅井長政が突然、信長を裏切ったとの報が入る。寝耳に水とはこのことだろう。
 長政は信長を背後から攻めようとした。そのままいけば信長は朝倉と浅井の両大軍の挟み撃ちにあうしかない。この瞬間が(本能寺を除いて)信長の人生において最大の危機だったかもしれない。
 そのとき、敦賀の陣中にいた信長は放れ業をやってのけたのである。司馬遼太郎さんの言葉を借りて説明すれば、

  蒸発した。(中略)身辺のわずかな者に言いの
  こし、供数人をつれて味方にもいわず、敦賀か
  ら逐電したのである。(中略)こういう状況下
  に置かれた場合、日本歴史のたれをこの条件の
  中に入れても、信長のような蒸発(という表現
  が格好であろう)を遂げるような放れ業をやる
  かどうか。
      (司馬遼太郎著『街道をゆく』より)

 信長は京へ遁走した。こうなった以上、軍団は変事を知るやいなや敦賀を去りはじめたが、当然、最前線への連絡は遅れた。その最前線には、家康や明智光秀がいた。伝令は、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)から来た。家康と光秀の隊は、はげしく追撃されつつ、一団となって金ヶ崎城へ入った。金ヶ崎城は、先ほどから全軍の殿軍を引き受けた木下藤吉郎が入り、守っていた。殿軍は、全軍を無事に戦場から逃げさせるのが唯一の役目であり、自らは助かる可能性がほとんどない。木下藤吉郎という男は、主君の最大の危機に、まさに自らの命を賭けてすさまじい忠義ぶりを見せようとしたのである。
 家康と光秀は、そんな木下藤吉郎を忍びないと思ったか、そのまま城にとどまり、ともに殿軍戦を戦った。そして、最終的には三人とも落命することなく、見事に退却しきった。これほど鮮やかな退却戦は、日本の歴史上、例がないかもしれない。

 金ヶ崎の城跡は、遺構とよべるものはほとんどなかったが、地形は思ったより起伏しており、それらが往時を偲ぶよすがとなった。
 丘の頂上にはかつて月見御殿とよばれる建物があった。その御殿跡からは、敦賀湾がよく見渡せた。この日は風が強かった。丘の上はとくにそうで、海を見ようにも目を開けるのがやっとという感じだったが、そんな風の中でTと並び、ケラケラ笑いながら海に浮かぶ船を眺めているのがすごく愉快だった。

 この日、最後に訪れたのは、
「気比の松原」
 だった。目の前には、敦賀湾がやや淡い色をたずさえながら広がっている。波は、風が強い割には穏やかである。私は海のない県に生まれたからか、昔から海に対すいる思い入れが少ないのだが、春の海だけは好きである。しかし、切なくもある。春は何かと人の心も不安定になりがちだが、そんなときにふと春の海がこの上なく穏やかであったりすると、そんな気分にさせられてしまうのだろうか。ましてこの日は、Tとの最後の日であった。私たちは、白い砂浜をしばらく走り回った。走らずにはいられない気がした。Tの写真もたくさん撮った。そのとき撮った写真の何枚かを見ながら、この文章を書いてみた。
 今ごろTは、故郷アメリカで元気に暮らしているだろうか。そして、時々は思い出すだろうか。日本には、語り継ぐべき豊かな歴史があり、実に趣の深い文化が存在していたことを。四季が見事に移ろい、それによって変化する繊細で美しい自然があったことを。その国に、君と、歴史を知ることの楽しさについて語り合った友がいたことを。
              (平成22年2月)