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筑肥のみち@
「元」
という当時世界最強の帝国が日本に最初に襲来したのは、文永十一年(一二七四)のことであった。いわゆる、
「文永の役」
である。十月二十日未明、博多湾は元・高麗連合軍の乗った九百隻もの大船で埋め尽くされた。兵の数は、元軍二万・高麗軍一万ほど。両軍は何の苦もなく上陸に成功した。
一方、元・高麗の大軍を迎え撃ったのは北九州の武士たちであった。その数、一万ほどだが、日本軍が不利だったのは兵士の数だけではなかった。まず、元軍は最新兵器をたずさえていた。
「てつはう」
という。これは中に火薬が仕込まれた鉄球で、導火線に火をつけてから敵に向かって投げつける。殺傷能力がどれほどであったかは定かでないが、少なくともその爆音だけでも日本軍を驚かせ、怯ませるには十分であった。使う弓もちがった。日本の弓は竹でできていたが、元のそれは動物の骨でできていて、日本のものより小さく使い勝手がよかった。飛距離にも差があった。日本の弓は百メートルしか飛ばなかったが、元のそれは二百メートル以上も飛んだ。おまけに毒矢であった。
彼らは、頭にはドングリ型の兜をかぶり、体には動物の硬い皮でできた外套のようなものを着ていた。また、軍装だけでなく戦闘様式も日本とはまったくちがった。日本は鎌倉時代であり、当時の武士は何より名誉を重んじた。その鎌倉武士が誇りとする儀式に一騎打ちがあり、合戦の開始には必ず行われた。しかし、元にとってそれは滑稽なルールでしかなかった(実際に元軍は声をあげて笑ったという)。一騎打ちのために出てきた強者たちは、元軍の集団にあっけなく取り囲まれ、落命するものが相次いだ。元軍にとっては集団で戦うことが常識であった。それはまさに軍隊と呼ぶにふさわしく、集団は鉦や太鼓の音で見事に進退した。その音を聞いて日本軍の馬が恐れおののき、暴れて仕方がなかったと記録にある。
戦局は日本にとって絶望的であった。日本軍は結局、その日の日暮れごろには博多を捨て、十キロほど内陸に入った太宰府あたりまで退却した。元軍はここで大規模な略奪行為をやった。逃げ遅れた人々は拉致されたりした。そしてその夜、元・高麗軍は一斉に船に引き揚げた。
実は、文永の役で実際に戦闘が行われたのはたった一日にすぎない。翌日、博多湾には元・高麗軍の船はすっかりなくなっていた。長年、これは神風の仕業だといわれてきたが、それは事実に反するかもしれない。ある研究者は、元・高麗軍は最初から一日きりで引き揚げるつもりで、それを予定どおり行ったにすぎないという。いずれにしろ、たった一日で日本は元という帝国の恐ろしさを嫌というほど思い知らされた。
文永の役より七年後の弘安四年(一二八一)六月、ふたたび元・高麗軍は日本を攻めた。
「弘安の役」
と呼ばれるのがそれで、このときは何と計十四万もの大軍が海を渡ってきた。しかし、このときは日本側も対策を講じていた。敵が上陸しそうな海岸沿いに、
「石築地」
と呼ばれる、高さ二メートルほどに石(ときには岩といってよいほどの大石)を積み上げた防塁を、全長二十キロに渡って築き上げていたのである。このため元・高麗軍は上陸を断念し、とりあえず志賀島に船団を停泊させた。以後、両軍の戦闘は約二ヶ月間続いた。このときの日本軍の戦闘様式は、文永の役とは様変わりしていた。日本軍は、元・高麗の大船に対して小舟に乗って接近しては攻撃を繰り返した。日本側の基本方針は、前回のように敵を易々と上陸させないということにあったが、結果的にこの方法は功を奏した。
七月三十日深夜、北九州沿岸地域を今度はたしかに暴風雨が襲った。おそらく台風であった。この暴風雨で船上にいた元・高麗軍(上陸がままならなかった元・高麗軍は、そのほとんどが船上にいた)は壊滅的な打撃を受けた。その瞬間、弘安の役は突然の終焉を迎えた。日本は幸運だったというほかない。
元寇が来た海を一目見たいと思い、博多を訪れることにした。そこから太宰府を経由して佐賀に入り、最後は肥前名護屋城のあった東松浦半島へ抜け出ることにしたい。旧国名でいえば筑前から肥前への旅である。
気がかりなことがあった。旅発つ直前に発生した台風四号が、北九州に接近しつつあった。予報では、九州と朝鮮半島のあいだほどを通過するらしいが、私が博多をめぐっている最中に、博多周辺に最接近するという。
私は九州へは飛行機で行く。実は飛行機に乗るのは苦手なのだが、何せ短時間で到着するのがありがたい。出発の日の朝、台風のことを心配しながら中部国際空港へ行ったが、福岡行きの飛行機は予定どおり飛ぶということであった。
飛行機の座席はいつものように窓際であった。これもいつもなのだが、私は離着陸のとき、窓ガラスにはりつくようにして外の景色を凝視してしまう。まるで小学生のようで大人気ないが、外の景色が気になって仕方がないのである。飛行機が離陸しようが、何食わぬ顔で平然と経済新聞を読んでいるビジネスマンに羨望の眼差しを向けつつ、私はこの日も外を凝視してしまっていた。
離陸時、体中に必要以上の力が入ってしまうのもいつもどおりであった。いつだったか隣席に、幼稚園児らしき男の子が祖父に抱えられるようにして座っていたが、飛行機が離陸してしばらくしてから、
「あれ、いつの間に飛んでたの?」
といったのには感心させられた。その点、この日の幼児には敏感な子が多かったかもしれない。何人かが声をあげて泣いていて、母親たちが苦労しているようであった。
着陸が間近となって、
「着陸地の天候は、雨」
と機内放送が入った。たしかに目の前に見えている雲は一様に灰色で、重く感じられた。飛行機は博多へ北から入っていった。眼下に、海の中道で陸と繋がった志賀島を見たときには、博多へ来たという実感が一気に込み上げてきた。飛行機はそのまま博多の街中へ突入するかのように高度を下げていった。街のビルや車がすぐ下に見えた。どうやら福岡空港はそういった場所に立地しているらしい。
福岡はどんよりと暑かった。小雨が降っていた。私は空港を出た足でレンタカーを借り、すぐに博多の海へと向かうことにした。
博多の街中は車が多かった。目をひいたのは、高速道路である。臨海部を福岡前原道路が走っているのだが、そられと周囲のビル群が重なる様子が、現代の典型的な臨海都市を思わせた。
最初の文永の役のとき、元軍は九百隻もの大船で来た。このときの日本は、元軍の上陸に対してほとんど為す術がなかった。元軍は何箇所かに上陸したが、そのうちのひとつが今宿である。とりあえず今宿方面へ車を走らせた。
今どき、レンタカーにもカーナビが標準装備されていて実に便利である。カーナビに案内されるままに、今宿あたりに到着した。今宿の手前に、
「生の松原」
という松原がある。このあたりにかつて元寇に対抗するための石築地があった。現在、この場所には石築地がきれいに復元されている。私は復元された石築地はともかく、元寇が来た海を一刻もはやく見たかった。
車から降り、松原の中の細道を奥へと歩いていった。細道の先が明るくなっていた。そこには海が広がっているはずであった。突然、ザバーンという波の音が聞こえた。そして、いきなり開けた視界の先には、雨の中、ひたすら灰色一色となった博多の海が広がっていた。まさしく元寇が来た海であった。その海は、台風がかなり近づいているはずであったが、風雨はまだそれほどでもなく、よって波もさほど荒れていなかった。ただ、その灰色の深さが異様に不気味に感じられた。
目の前に大きな島が見えた。てっきりそれが志賀島かと思ったが、手元にあった地図でたしかめてみると、志賀島のすぐ南にある能古島であった。正確には島の向かって右手が博多湾、左手が福岡湾という。文永の役のとき、元軍の船はそのどちらにもあふれた。博多湾の船は現在の博多港の方へ、福岡湾のそれはこの今宿やさらに北方の今津あたりに上陸した。当時はまだ石築地がなかったから、上陸作戦はいとも簡単に成功した。その反省を生かしてできたのが、全長二十キロにわたる石築地であった。
松原の中に復元された石築地は、石がきれいに積み上げられていた。高さはやはり二メートルほどあった。かつてこの石築地について、司馬遼太郎さんが書いている。
たかが二メートルの変哲もない石塁を築いて世
界帝国の侵略軍をふせごうとしたというのはま
ことに質朴というほかない。
いわれてみればたしかにそうだが、この質朴さに元軍が苦戦したのは事実で、結果的には暴風雨による壊滅を招くことになる。
つぎに訪れたのは今津である。ここにもかつて石築地があった。というより、ここの石築地は昭和四十二年に発掘され、今もその姿をあらわにしている。
発掘された石築地は、長さが二百メートルばかりあり、金網状のフェンスで囲まれていた。先ほどの復元とはちがい、ところどころ草が覆い茂り、石の表面は黒ずんでいた。これこそ実際に元寇と相対した実物である証明であった。
石は、ひとつが三十センチほどの大きさである。それらを当時の人々(きっと女子供も含まれていたであろう)は、高さ二メートル、全長二十キロメートルにもわたって積み上げた。しかも、それが七百年後の今も、当時とほぼ同様に存在している事実に、私は身の震えるような感慨をもった。
しかし、私はこの海岸沿いをすぐに立ち去らねばならなかった。コンビニで買ったばかりのビニール傘が吹き飛ばされそうなほどに、風雨が一気にひどくなってきたのであった。
ふたたび福岡空港方面へもどった。途中、
「警固」
という名の交差点に出くわした。「けご」と読むらしい。博多港から少し内陸のあたりに位置する場所である。そして、その交差点に隣接するかたちで、
「警固神社」
があった。あとで調べると、この周辺にかつて、
「鴻臚館」
という外国使節接待のための館が七〜十一世紀に存在したという。そこに、
「警固所」
という役所があったそうで、その名に由来する神社だという。それにしても、警固などという地名ほど、この博多湾に面した土地の性質を如実に物語るものもない気がする。
空港の近くに、
「筥崎八幡宮」
があったので訪れてみた。創建は延喜二十一年(九二一)とされる。もちろん元寇のときには存在したが、文永の役のとき元軍の進撃を受け、焼け落ちている。
風雨もほとんどおさまった筥崎八幡宮の境内は、アブラゼミの声しか聞こえない。人っ子一人いないのである。
「さっき警報が出ましたんでねえ……」
と、売店の五十年配の男性が教えてくれた。どうやら暴風・波浪警報が知らぬ間に出ていたらしい。
「ですから、今日は楼門の扉も閉めております」
この神社で一際目をひくのが、その楼門である。現存するのは文禄年間に小早川隆景が寄進したものらしい。扁額の文字が有名で、
「敵國降伏」
と書かれている。もとは元寇当時の亀山上皇が奉納した扁額とされるが、当時の人々の痛烈な願いをこれほど端的に示す言葉はほかにないであろう。
境内には、絵馬がたくさん掛けられていた。やけに大きな絵馬もあった。福岡ソフトバンクホークスなど、スポーツチームの優勝祈願の絵馬であった。その中の一枚に、福岡のプロバスケットボールチームの絵馬もあり、その中央には、
「全戦全焼」
と大書してあった。すべての試合を完全燃焼して戦う、という意味あいだろうが、もしこれが、筥崎宮がかつて元寇で焼け落ちた史実と掛け合わせた言葉だとすれば、洒落がややききすぎている気がしないでもない。
筥崎八幡宮から二キロほど離れたところに「元寇史料館」がある。開館日が不定期らしいが、この日は開いていた。
この史料館には何とも貴重なものが展示されている。元軍が身につけていたドングリ型の兜や軍服(鎧とはいいにくい)などである。
展示物のひとつに、北条時宗の肖像画があった。よく知られているように、元寇当時、日本の実質の最高権力者はこの時宗であった。
時宗について書きたい。
時宗は、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の子として生まれた。幼名は正寿丸という。時頼にはすでに側室とのあいだに男児があったが、正寿丸の生母は正室であった。よって時頼は当初から正寿丸を長男として扱った。
時宗はわずか十歳で小侍所の所司となる。小侍所とは、将軍に関する公式的なことを担当する職で、このときの別当はかの金沢文庫で有名な北条実時であった。時宗はその副官となった。時の教養人であった実時の下に就かせることは、時頼としては意図的なことであったにちがいない。
十一歳で結婚したが、この頃の挿話がある。執権・長時の館で弓射の会があった。将軍や時頼など、そうそうたる顔ぶれが揃う中、笠懸がはじまったが、なかなか上手な者が現れなかった。時頼は将軍に、我が子時宗を呼び出し、その腕前を披露させたいと申し出た。時頼は自信満々であった。周囲が注目する中、突然呼び出された時宗は、射手を命じられると顔色ひとつ変えず馬にまたがった。将軍に一礼し、馬を速歩にさせ、的の前を通過する瞬間、馬上で突っ立って矢を放った。的は粉々になって舞い上がった。しかし、時宗は結果をたしかめもせずそのまま走り去り、館へ戻っていったという。
以上はすべて将軍の眼前でのことであり、驕慢といえばこれほど驕慢な態度もないが、十一歳にしてもはや将軍を将軍とも思わぬ精神をつくりあげていた点に、時宗の凄味を感じずにはいられない。もちろん、その素地と教育を施したのは、ほかでもない父・時頼であったが。
時宗が十三歳のとき、時頼が死に、家督は時宗に譲られた。そして翌年、時宗は十四歳にして連署、つまり執権につぐ役職を得る。このときの執権は北条一門の中で元老格であった北条政村であった。
一方、元のことである。元がはじめて日本に直接的行動を起こしたのは、文永五年(一二六八)正月であった。高麗の使者に、元の皇帝・フビライの国書を届けさせたのである。この国書は太宰府から京都へもたらされたが、朝廷は結局、返書を出さぬことを決定する。なおこの年、時宗と政村の役職が交換され、時宗が十五歳にして執権に就任した。当時、世情は「異国の賊徒」(当時の日記より)の話題で騒然としていた。そんな中での執権就任は、新進気鋭の若者に日本の未来が託された瞬間といってもいい。
文永六年(一二六九)には、再び高麗の使者が元の国書をもたらした。今度ばかりは朝廷も返書を出そうと決めたが、時宗率いる幕府はそれに反対し、やはり返書は出さぬこととなった。こういったところに時宗の武断的態度がうかがえる。
そして文永八年(一二七一)とその翌年、元からの最後通牒ともいうべき国書が、元の正式な使者から届けられた。このときも時宗は国書をすべて黙殺した。時宗の方針は一貫していたし、その意志は鋼のように固かった。そうでなければ、難局を迎えた日本の舵取りは不可能にちがいなかった。以上、文永の役前の話である。
また、弘安の役の前にも元側の使者が二度ほど来日している。時宗は、一度目の使者五人を鎌倉・龍ノ口にて斬首、二度目の使者二人も博多にて同じように斬った。時宗とは、そういう男であった。
元寇のとき、時宗のような武断的な男が最高権力者であったことは、日本にとって幸運のひとつであったかもしれない。暴風雨ということがあったにせよ、結果的に時宗は元寇を追い払うことに成功した。しかし、そのわずか三年後、時宗は三十四歳の若さで死ぬ。
史料館を見終え、私は受付の七十年配の女性にいった。
「ここは実に貴重なものがありますね。元寇の遺物なんて、なかなか置いているところはないでしょう」
「長崎の鷹島にあるかもわかんないですね。あそこの近くでは今もあがるそうですから」
元寇の遺物が、である。漁のとき、網にかかることが現在も稀にあるという。
「だけど見学者が、ほとんどないんです。一人もいらっしゃらない日もあるんです。今日は珍しく三人もいらっしゃいました」
どうやら私は珍客の部類であるらしかった。
夜になった。風雨はすっかりおさまっている。私はレンタカーを返却し、JR博多駅近くのホテルにチェックインした。すぐに荷物を置き、そのまま外へ出た。博多のラーメンを食べたかった。博多の街は、夜に屋台が出る。ラーメンはもちろん、餃子やおでんなどもおいしく食べさせるというから、屋台で食べたい、という気持ちもあった。
ところが、天神駅あたりにたくさん出ていた屋台は、どこも客でいっぱいであった。一様に行列ができてしまっている。空腹をこらえ、その行列に並ぶ気にはならなかった。多少歩いて、一軒のラーメン屋に入った。店内はサラリーマン風の男性たちでにぎわっていた。博多ラーメンといえば、白濁の豚骨スープが定番である。もちろん豚骨ラーメンを注文した。
ラーメンは正直、うまくなかった。当然のことだが、本場の博多ラーメンといえど、味は店による。どうやら私はハズレを引いてしまったらしい。
早々に店を出たが、このままホテルに帰るのも何となく心残りである。しばらく歩くと、屋台がひとつ出ていた。幸い行列もなく、椅子が一人分、空いていた。サッとそこに座った。
私はその屋台でビールと餃子、もつ煮を注文した。客の面々は、観光客であったり、地元のサラリーマンであったり、南米系の外国人であったりした。地元のサラリーマン風の男が、さかんに福岡ソフトバンクホークスの話をした。どうやらこの日、ソフトバンクは勝ったらしかった。
この屋台は、餃子がうまかった。スライスしたニンニクを鉄板で一緒に焼いているらしく、そのニンニクと餃子の味がよく合った。
翌朝、再度レンタカーを借りに、博多駅前へ歩いていった。途中、一種独特の臭気に襲われた。かつてタイを旅行したときに、この匂いは街のあちこちで嗅いだ記憶がある。屋台独特の匂いであった。それは昨夜の屋台の店々の残り香といってよく、日本においては博多ならではの匂いであるかもしれなかった。
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