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筑肥のみちA
二日目は好天に恵まれた。私は、午前中に太宰府跡や太宰府天満宮、大野城跡などを回り、午後から国道三号と三四号を使って佐賀県に入った。佐賀県では、まず吉野ヶ里遺跡を見学し、夕方にやっと佐賀市内に入った。
佐賀県、旧国名でいえば肥前である。かつて、
「薩長土肥」
という言葉があった。幕末、江戸幕府を倒し、明治新政府を誕生させたのが、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩というわけである。しかし、維新に貢献したこの四藩には、かなりの温度差があった。
とにかく幕末に流した血の量をいえば、薩摩と長州ほど大量に血を流した藩はない。明治新政府において薩長の役職占有率は異常に高かったが、薩長の人間からすれば、その率と流血の量は比例すべきであり、よって薩長によって役職がほぼ独占されるのは当然である、という論理であった。その点、土肥は明治維新という名の革命戦へ乗り込むことが遅れた。
とくに肥前(佐賀)においては、藩軍を見事に洋式化し、国内のどの藩よりも火砲装備を充実させることに成功していた。これはひとえに藩主・鍋島閑叟の長年にわたる先進的藩経営による。閑叟は藩の独裁者であり、当時の藩主としては稀な開化主義者であった。幕末、多くの、
「賢侯」
が出た。その中で薩摩の島津斉彬や土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城などは幕府や朝廷に接触するなど、きわめて政治的な活躍をしたが、閑叟だけはそういった動きに与せず、もっぱら富国強兵に努めた。そのあまりに中立的な態度や孤立の方針に、薩長の人間は不満と怒りをもった。薩長としては、喉から手が出るほどにして佐賀藩の火力を欲していた。同時に薩長は、恐れた。
「佐賀藩は、幕府と薩長が相戦い、ともだおれになるところを見計らって天下を横取りするつもりではないか……」
しかし、鳥羽伏見の戦いにて薩長土の軍が幕軍に勝利したとなると、閑叟の佐賀藩もいつまでも孤立しているわけにはいかなくなった。
明治元年(一八六八)春。その日、京都の嵐山の桜は満開であった。長州の桂小五郎が友人とともにに舟を浮かべ、花見に興じていた。
二人が舟遊びを終え、磧を歩きはじめたとき、前方から騎人が来た。それに気づいた桂がおどろいてすぐさま跪き、拝礼した。騎人は何と閑叟であった(当時はすでに藩主ではなかったが)。閑叟は二人に、
「もう一度、舟にのぼらぬか」
と誘った。二人はよろこんで応じた。その舟上、小五郎はかつての佐賀藩主に薩長への軍事的協力を求めた。絶景であったはずののどかな嵐峡を眺めながら、閑叟はこの申し出を受けた。この瞬間、官軍の戦力は飛躍的に充実し、政府構成の主力は薩長土肥になったが、佐賀藩としてはいかんせん時期が遅すぎた。その遅れが明治維新後、佐賀人の政府内での肩身のせまさとなって尾を引いた。
以上のような事情もあり、明治新政府では薩長による藩閥政治が公然と行われたが、その状況をよしとせず、極端なまでに嫌った男が同じ政府内にいた。佐賀人の江藤新平である。江藤は、天保五年(一八三四)、佐賀藩の小吏の家に生まれた。家がとにかく貧しく、ほとんど餓死寸前のときもあった。十代のころは藩校・弘道館や枝吉神陽の塾に学ぶ。二十六歳で小役人となるも、二十九歳のとき脱藩。
佐賀藩は特異な藩であった。「藩の論語」といわれた『葉隠』を行動規範としている。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
からはじまる道徳の書である『葉隠』は徹頭徹尾、藩主に随順することを強要している。江藤と同じく佐賀人である大隈重信はこの『葉隠』を、
「度はずれた気象をうしなわしめるものだ」
と罵倒しているが、ともかくよって佐賀藩には従順な藩士のみが養成されることになった。事実、佐賀藩には脱藩者がいなかった。その点、江藤はほとんどはじめてといっていい佐賀人の脱藩者であった。彼は、政治的に中立を保ち続けていた藩の方針に歯ぎしりし、薩長の藩士のような志士活動をしたいと願い、ついに脱藩した。佐賀藩における脱藩は、たとえ一人であろうと藩の一大事であった。結局後日、江藤は永蟄居となったが、死罪は免れた。
六年後、江藤は許され、次第に藩に重用されるようになる。戊辰戦争にも参加した。江戸における彰義隊征伐に軍監として参加したのである。
戊辰戦争後は、明治新政府に出仕した。制度局取調掛として多くの官制改革案を草して中央集権化をはかり、明治四年(一八七一)には新設された文部省の初代長官というべき文部大輔、翌年には司法省に転じ、その大臣というべき司法卿となった。
彼は新政府に出仕して以来、日本という国に法律を与えようとすることを常に思い、実際に議院(江藤は「国法会議」という名称を考えていた)や憲法の設置を献白している。そんな江藤にとって司法卿という職は何より望んでいたものであった。江藤は裁判所の建設、民法の編纂などを精力的に行った。つまり江藤には民主的気分が多分にあった。そんな江藤だからこそ、政府内で薩長勢力が幅をきかせている現状が許せなかった。
そんな最中、
「征韓論」
がもちあがる。この韓国ヲ征伐セヨ、という政論を主張したのは、西郷隆盛や板垣退助らである。当時、韓国は鎖国であった。それを攻める意義を主張者はさまざまにいったであろうが、要するに新政権成立後の士族の不満を外に向け、かつ朝鮮を侵略することによって、政治的・経済的・心理的な諸方面で受けた欧米諸国による圧迫の代償を得ようとしたのであろう。そして、江藤もこの征韓論に乗った。江藤はもともと外征論者であったから、西郷らに賛同したのはごく自然に思われるが、果たしてそれだけの理由であったかどうか。
征韓論については、西郷が賛成したのに対し、大久保利通は反対した。つまり、薩摩が二つに割れようとしているこの状態は、薩長両閥を打倒したい江藤にとって好都合であった。薩摩の仲間割れを決定的なものにし、自分はその勝者になるであろう西郷を支援し、それに乗じて藩閥政治を一掃したい……そんな感情が江藤にあったにちがいない。
そのことを政府内でもっとも敏感に感じとったのは、大久保だったかもしれない。江藤は
私怨(薩長閥への憎しみ)のために征韓論に賛成している……そんな江藤を大久保こ
そ許せないと思った。
結局、征韓論は敗れ、西郷・板垣・江藤は下野した。このうち、江藤は佐賀の不平士族になかば担がれるようなかたちで、
「佐賀ノ乱」
を起こした。江藤にとって痛かったのは、薩摩の西郷が江藤に同調せず、動かなかったことであった。その段階で江藤に勝ち目はなかったといってよい。江藤は、大久保自らが率いた政府軍と戦い、敗れた。江藤は佐賀から西郷を頼って薩摩に落ちたが、西郷を挙兵させることは叶わず、その後、四国へ逃亡するも、土佐甲浦にて捕縛された。
大久保にとっては、佐賀ノ乱を見せしめにせねばならなかった。つまり、不平士族が各地に存在し、場合によっては反乱を起こさんとしている今、新政府軍は強いのだということを世に示す必要があった。同時に、その乱の首謀者には極刑が下されるべきであった。
江藤裁判は驚くべきことに、たった六日間で終わった。本来なら百日かかってもおかしくない裁判である。しかも判決は、
「梟首」
という屈辱に満ちた惨刑であった。当時の刑法に梟首という刑はない。大久保の用意した臨時法廷が強引につくったのであった。
判決が下されると江藤は、
「裁判長、私は」
と、たった一言だけ叫んだという。が、続きの言葉は発せられぬまま、すぐに獄卒らに力ずくで退廷させられてしまった。
刑は即日執行された。享年四十一。首は嘉瀬川のほとりにさらされた。
翌朝、三度レンタカーを借り、佐賀城跡へ向かった。佐賀市内においても佐賀ノ乱に関する史跡はほとんど残っていないというが、ほぼ唯一の史跡が佐賀城跡に現存する、
「鯱の門」
である。この門は佐賀ノ乱を知っている。
佐賀城は、もとは龍造寺氏の居城であった村中城を、佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂が慶長年間に改築し、完成させた。天守は五層であったが、享保十一年(一七二六)に焼失している。
佐賀ノ乱のときには、佐賀城には最初、官軍が入り、のち佐賀軍も入っている。そのときの戦いで、二の丸や三の丸はことごとく焼かれた。しかし、本丸のいくつかの建物は焼失を免れた。そのひとつがこの門である。
鯱の門は大きく、重々しい門構えで、甍のまだら具合も美しく見える。しかも戦乱を実体験しているという事実がこの門の存在をより大きく見せている。戦乱の経験は、遺構としての格を跳ね上げるのである。それでいて威風という感じは受けない。ひたすら落ち着いたその風情は、それだけで鍋島閑叟という人物がつくりあげた佐賀藩の藩風を偲ばせる気もする。
近づいてみると、門扉や柱に直径二センチほどの穴がいくつも開いている。佐賀ノ乱のときの銃弾の跡だが、そのうちのひとつだけが倍ほどの大きさになっていた。
「これは、子供が悪戯して大きくしたそうです」
と、教えてくれたのは、五十年配の女性のガイドさんであった。本丸内にある「佐賀城本丸歴史館」のガイドさんで、歴史館を見学し終わった私に声をかけてくれ、一緒に本丸内をめぐってくださったのである。
「このお城は石垣が本当に少ないでしょう?」
ガイドさんにいわれてみると、そのとおりなのである。江戸期に描かれた絵図を見るとよくわかるが、石垣が描かれているのは天守台を含めた本丸の一部分のみで、あとは土塁のようなもので囲まれている。
「そのかわり、堀の幅が広かったんです。多くの場所は七十から百メートルくらい、広いところでは二百メートルもあったんです」
佐賀城は石垣でなく堀で守ってたんですね、とガイドさんはいう。そういえば佐賀城という城は滑稽なほどに平城でありすぎる。そもそもどうしてこれほどまでの平地に城を築いたか疑問に思ってしまうが、ともかくそれをカバーするため、石垣を高く築くのではなく幅の広い堀を周囲にめぐらすという方法を佐賀城主は採用したことになる。あるいは、もしかしたら財政的な問題があったのかもしれない。
ガイドさんは最後に、私を本丸跡の南に広がる草むらへと連れて行った。そこには一抱えほどの大きさの石が十個以上並べてあった。
「この石の上に、新平サンたちの首がさらされた、という話があるんです。かつてこの石の脇にそのことを書いた立て看板が立ててあったのを見た、という方がいるんです」
江藤たち(江藤とともに佐賀ノ乱を煽動したとして、島義勇も梟首となった)の刑は佐賀城内にて行われたという。であるなら、この話はもしかしたら真実の可能性があるとも思ったが、今となってはたしかめる術もない。
私はガイドさんに礼をいい、鯱の門から外へ出た。すぐ近くに県立の美術館があり、その玄関前に広々としたスペースがあった。そこで女子高生らしき女の子たちが六、七人、Tシャツにハーフパンツ姿でダンスの練習をしているようであった。そういえばすぐ近くに高校があった。佐賀西高等学校であり、この子たちはどうやらそこの生徒らしかった。先のガイドさんが、佐賀西高は佐賀でもっとも勉強のできる子が集まる学校です、と話していた。そういう目で見れば、この今どきな風貌の子たちも何となく学業優秀な顔立ちに見えてきてしまうから、私の目もいい加減なものである。
ちなみに、佐賀西高はかつては佐賀高校といった。昭和三十八年にその佐賀高校が北・東・西の三つに分離した。そのうちの北高が、平成十九年の高校野球、夏の甲子園大会で見事、全国優勝を果たしている。
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