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筑肥のみちB
豊臣秀吉という人物が、たとえば現在の朝鮮半島の人々にとってどのような存在であるかを想像することは難しくない。秀吉ははっきりと侵略者であった。秀吉の朝鮮出兵を日本では文禄・慶長の役といっているが、朝鮮では、
「壬辰倭乱」
とよぶ。この戦いは秀吉が東アジア征服の野望を抱いたことにはじまる。日本国内の統一を成し遂げた彼の傲慢さが、狂気の沙汰ともいえる外征を企てさせたといえる。
秀吉は手はじめに、明を征服することを考えた。その先導役を朝鮮に命じた。朝鮮側がこれを拒否したため、秀吉は朝鮮出兵の準備をはじめ、肥前名護屋の地に城を築いた。
天正二十年(一五九二)三月、十六万もの日本軍が朝鮮半島に向かった(文禄の役)。第一軍は小西行長、第二軍は加藤清正らが率いていたが、両軍は破竹の勢いで進撃し、五月にはソウルを陥落させた。その後も日本軍の侵攻は止まらず、六月には小西行長・黒田長政らが平壌を占領した。
戦いは当初、日本が有利であった。日本軍は朝鮮の兵に比べ、戦争の経験が豊富であったし、兵の数も多かった。それに対して朝鮮は軍備も整っておらず、兵士の脱走も相次ぐなど、混乱した状態にあった。
そういった無力な朝鮮官軍に代わり、六月以降、朝鮮全土で義兵が蜂起した。義兵を構成するのは、儒者や元官僚、農民、僧侶たちで、彼らは総じて士気が高く、郷土の地理に明るかった。
李舜臣が率いた朝鮮水軍も活躍した。朝鮮水軍が日本水軍を破り、制海権を掌握すると、日本軍は補給路を絶たれることになり、苦境に陥った。
さらに朝鮮は、明に援軍を求めた。明はこれに応じ、最終的には十万もの兵を朝鮮に出した。
戦況が不利になった日本は、明に対し和議を申し入れた。和議交渉は約四年にも及んだ。このとき、日本は朝鮮半島南部の譲渡などを要求したが、明はその要求を拒否し、交渉は決裂した。日本軍はふたたび朝鮮半島への侵略を開始した(慶長の役)。
日本は半島南部の占領に目標をしぼり、戦った。このとき、日本軍による徹底した鼻切りが行われている。戦功の証明のため敵の鼻を削ぐのである。
「朝鮮人を皆殺しにして、朝鮮を空き地とせよ。朝鮮人の鼻を割いて首級の代わりとせよ」
という秀吉の指示によるもので、切った鼻は塩漬けにして石灰をまぶし、壺や桶に詰めて秀吉のもとに送られた。また、日本軍は殺された者はもちろんのこと、生きた者からも鼻を削いだため、戦後、朝鮮には鼻のない人が多く見られたという。
慶長の役においても日本軍は苦戦を強いられた。そして、日本にとって一大事が発生した。慶長三年(一五九八)八月、豊臣秀吉が病死したのである。即座に五大老・五奉行は日本軍撤退を決定し、三ヶ月後までに日本は多くの死傷者を出しながらも撤退を完了した。このようにして約七年にもわたる戦いは終焉した。
旅も終わりに近づいている。
最後に、秀吉が朝鮮出兵に際して築城した、
「肥前名護屋城」
を訪れることにした。佐賀市内から名護屋城へは、直線距離にして約六十キロほどある。佐賀市は筑紫平野の西の端といってよい。よって、北進すればすぐに山間部へと入っていく。私は山のあいだをひたすら北西の方角へと走った。途中、唐津の方へ出てしまえば海が望めるはずであったが、私はあえて海には出ず、山道を行くことにした。海を見ることの感動を最後までとっておきたかったのである。
かなりの山道であった。道は十分な幅があり舗装もしっかりしているため、走りにくさはさほどでないにしろ、かなりうねった道をしばらく走らされた。車は東松浦半島の真っ直中を進んでいった。
どれくらい走ったか。目の前の交差点の信号機に、
「伊達政宗陣跡」
という看板が見えたとき、自分がやっと名護屋城下に入ったことを知った。その信号を左に折れるとすぐに大きな橋があった。海にかかる名護屋大橋で、その先に緑が青々とした小高い丘陵が見えた。それこそ名護屋城跡にちがいなかった。その丘陵の向こう一キロ先はもう海(壱岐水道)で、つまりはこの丘陵が日本でもっとも端にある丘陵といってよかった。その上に秀吉は、朝鮮に兵を出すべく城を築いたのであった。
築城に動員されたのは、おもに九州の諸大名であった。城の規模はかなり大きく、当時の城では大坂城につぐ広壮な城であったという。天守は五層であった。
現在、城の遺構は石垣しかないが、その石垣が実に立派である。桃山時代の石垣だけにかなり崩れ落ちてしまっている箇所もあったが、それがかえってかつての栄華を想起させた。
つい先刻、名護屋城博物館でもらったパンフレットを見ながら歩いた。パンフレットには、名護屋城周辺に陣を構えた諸大名の名が書き連ねてあった。ふとその中に、
「古田織部正」
の名を見つけ、私はうれしくなった。古田織部は天文十三年(一五四四)、美濃国、現在の岐阜県本巣市山口に生まれたといわれる。そして実は私も同じ本巣市生まれであり、織部とはとりあえず同郷ということになる。よって織部には昔から何となく親しみをもっていたのである。
余談だが、織部の生まれた場所は濃尾平野の北の端、ちょうど山が深くなりはじめるような場所にある。私は昔からこのあたりの景色が好きであった。ちょうど一年前の夏であったか。友人のMさんを本巣市最北部にある、
「薄墨桜」(樹齢千五百年のエドヒガンザクラ。国の天然記念物)
へ案内したことがあった。その帰り道、織部の生まれた山口地区を通りかかった。そこには現在「道の駅」がある。そこで小休止した。Mさんがトイレに行っているあいだ、私は駐車場の脇にあったベンチに腰かけて待っていた。その日は猛暑といっていい日だったが、夕方を迎え、気温はかなり下がってきていた。陽もほとんど落ち加減で、南以外の三方を山に囲まれた道の駅は、かなり薄暗くなっていた。人影もなかった。ただひたすらヒグラシの声が周囲の山々から聞こえた。それらの声はどこまでも透きとおるように美しく、悲しくなるほどに懐かしかった。感動で身動きができぬほどになった私は、トイレから帰ってきたMさんをもベンチに座らせ、そのまましばらくヒグラシの声を聞いた。織部の故郷とはそんな場所である。
古田織部の幼少の頃のことはよくわかっていない。ただ、父が美濃国の守護大名・土岐氏に仕えていたようだが、織田信長が美濃国を平定後は父子ともども信長に従ったらしい。
二十五歳のとき、中川清秀(賤ヶ岳の戦いにて戦死)の妹・せんと結婚、その後は信長の支配下にある一武将として播州攻略などに奔走した。
天正十年(一五八二)、本能寺の変が起こる。織部三十九歳であった。織部は、死んだ信長にかわって羽柴秀吉に従うようになった。
織部は、武将であると同時に茶人であった。師はかの千利休である。織部は利休を大いに尊敬し、慕った。その証拠に、利休が秀吉の勘気をこうむり、京から堺へ追われたとき、さすがに弟子たちさえも秀吉の機嫌を損ねることを恐れ、利休への見舞いを遠慮したが、織部と細川忠興(彼も利休の弟子であった)の二人だけは淀の船着場から師の舟を見送っている。
利休も織部のことを買っていた。あるとき忠興が利休に、
「もしあなたが亡くなられたら、天下の茶の湯の指南は果たしてだれが務めるでしょうか」
と尋ねると利休は、
「せがれの道安は人格者でないので無理でしょう。天下の茶の湯指南は古田織部でしょうか」
と答えたという。ただし、両者の茶の湯の流儀はまったくというほどちがっている。利休はわび茶の大成者として称されるが、織部は利休のわび茶を貪欲に学びながらも、それを自分流にアレンジしようとした。
利休が切腹したとき、織部は四十八歳であった。秀吉は織部に、利休にかわって茶の指南をさせるようになり、彼に、
「利休の茶の湯は、要するに堺の町人の茶であるから武家にはふさわしくない。だからそれを武家流に改革せよ」
と命じた。以来、織部の茶の湯はますますオリジナリティを発揮することになった。
織部好みの特徴は「目に立つ美」にある。利休の美を「静」とすれば、織部のそれはまさに「動」であった。織部のつくらせた茶碗は思い切りデフォルメされ、歪んだ沓形をしていたりした。また幾何学模様のような図柄を平気で駆使した。利休の継承者でありながら、そのありようは異端児以外の何者でもなかった。
秀吉の死後、織部は徳川家康・秀忠にも仕えたが、そのころには織部の「天下の茶の湯指南」としての地位は不動のものとなっていた。あるとき諸大名の集まりがあったが、ふと織部が現れると、大名たちはみなただちに立ちあがり、その姿が消えるまで座ることがなかたっという。当時、織部は一万石の隠居大名にすぎなかったが、茶人としては利休の全盛期を思わせる権力をもってしまっていた。
織部が、豊臣方に内通していたとの罪状で家康に切腹を命じられたのは、大坂夏の陣が終わった直後であった。家康暗殺未遂事件に加担したということらしいが、おそらく織部には身に覚えのないことであった。ところが織部は、
「かくなるうえは、申し開きも見苦し」
といい、一言の弁解をすることもなく切腹して果てた。享年七十二。
織部は千利休亡き後、当代一の文化人であった。ゆえに朝鮮出兵の際も秀吉に呼ばれた。その陣屋は名護屋城のすぐ近くに設けられた。織部の存在価値がこの事実をもってもよくわかる気がする。
名護屋城の丘陵は風がよく吹き抜け、おかげで気分よく歩くことができる。私は本丸をめざして歩いていた。ほかに観光客は数えるほどしかいない。三の丸から二の丸へ回り込んだ私は、多少息を切らしながら本丸への坂道を登っていった。
坂道を登り切ったところに、広大な平地が現れた。中央には大きな石碑が建てられている。本丸跡であった。そのもっとも奥に入ったところに天守台跡があったので、そこに立ってみた。正面に鉛色といっていい海が広がっていた。朝鮮半島へ繋がる海であった。案内板によると、さすがにここから朝鮮半島までは見えないが、天気さえよければ対馬までは見晴るかすことができる、ということであった。が、この日は朝からの曇天であった。海と同じ鉛色をした空が目の前の島々の上に覆い被さるようにしてあっては、対馬などとても見えようがなかった。
この東松浦半島という日本の端に膨大な規模の城をつくらせ、そこに全国の諸大名を寄せ
集め、十万以上の軍団を編成し、海の向こうへと出兵する それをやったのは、秀
吉というただ一人の男であった。そう考えると、封建社会というものがどういう性質のもの
であったかをこれほど雄弁に物語る遺構も少ないのではないか 天守台跡に置かれ
たベンチに腰かけながら、そんなことを考えた。
この日は、本丸跡まで登ってくる人はほとんどいないようであった。西からの風が強くなり、今にも雨が降り出しそうであった。さっきまでたしかに見えていた目の前の島影が、幻でも見ているかのようにたちまちのうちに見えなくなり、海の上が白くなった。
私は海から遠い土地に生まれたから、海の風景というものに存外、無知なのかもしれない。鉛色の空のもと、霞みがかってしまった海の景色が、人の心を無意味に、しかも痛烈に寂しくさせるものだということを、私はこのときはじめて知った。
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