上野・お茶の水散歩 《旅の時期 2005年3月27日》 上野戦争 私にとって、春は東京である。 理由を聞かれても上手く説明はできないが、しかしその思いは確実に私の中にあって、二月も中旬を過ぎた頃、私はにわかに司馬遼太郎著『街道をゆく』の「神田界隈」を読み始めた。 『街道をゆく』は、歴史紀行文として最高峰だと思う。とにかく面白く、読み終わると必ず「嗚呼、この目で見てみたい」と思わせる。 私はそのことを十分承知の上、確信犯的に「神田界隈」を読み進めた。そして、湯島台あたりの話題に至ったとき、今年の春はそのあたりを巡ろうと決めた。 旅に出たのは、三月下旬だった。 東海道新幹線で東京に入った私は、そのまま上野へと向かった。 上野に行くと、私は必ず上野公園にある彰義隊の墓に立ち寄る。 上野公園の西郷隆盛像はあまりに有名だが(それにしても西郷の像がここにある理由は乏しい)、その裏手に彰義隊の墓があることを知る人は少ない。 戊辰戦争の際、江戸に入った西郷は、幕府方の勝海舟と面会し、江戸城の無血開城を決めた。 だからといって幕府方のすべての人々が無抵抗だったわけではない。官軍に最後の抵抗をすべく戦った集団もいたわけで、そのひとつが彰義隊だった。 当時、彰義隊の数は約三千。彼らは徳川家の菩提寺である寛永寺に立て籠もった。 その彰義隊を一掃すべく、長州の大村益次郎が動き出した。上野戦争の始まりだった。 大村には懸念があった。 兵の数は官軍の方がやや多かったが、城塞に等しい寛永寺に立て籠もる彰義隊を攻めるには十分な数といえなかった。江戸の町をいかに火の海にすることなく勝つかということも問題だった。 が、彼はぬかりなかった。 まず、当時、佐賀藩が二門所持していたアームストロング砲を借り入れ、用いることにした。それは不忍池の西の加賀藩邸、今の東京大学構内に据えられた。 砲弾は不忍池を飛び越え、寛永寺に向かって飛んでいった。当時、これだけの射程を持つ砲は、アームストロング砲しかなかった。 この砲の威力はかなりのもので、彰義隊はその威力に戦意を喪失した。 また、彼は過去に江戸で起きた火災の状況についても徹底的に調べ、火の広がり方を研究し、それに基づいて作戦を決定していった。これほどまで防火について心を砕き、戦争をした指揮官というのも珍しい。大村とは、そういう男だった。 この上野戦争で官軍は完勝した。その瞬間、大村益次郎は天才指揮官の名を不動のものにした。 私は彰義隊の墓から、そのまま不忍池へ向かった。かなり下っている。上野公園は不忍池よりかなり高台にあるということになる。これは、上野戦争に関わった人々にとっては大きな関心事だった。 現在、上野公園がある場所は、かつてはすべて寛永寺の敷地内だった。そこは豊富な森のある高台であり、寺院とはいいながら天然の城塞の姿形をしていた。 彰義隊が寛永寺に立て籠もったのは、防衛を考えた上でも実に理にかなっていた。 私は高台を下りて弁財天を通り抜け、不忍池の周りを歩いた。 不忍池から上野公園を望むと、森が幾色にも淡く色づいており、その森からひょっこり頭を出す感じで、上野東照宮の五重塔が見えた。実にのどかな風景で、かつてこの上空をアームストロング砲が飛び越えていったとは、とても思えない。 上野戦争後、寛永寺は跡形もなくなったが(現在、再建の寛永寺が存在するが、申し訳程度の規模になってしまっている)、周辺の森は残ったらしい。 明治になり、上野の森は都市森林というべき存在になった。しかし、政府にはそれを残そうという意思はなかったらしい。上野から鶯谷にかけて、病院や大学の教室を建てようとした。 それに反対した人物がいた。オランダの陸軍一等軍医・ボードインである。 彼は東京に滞在中、上野の森を見て、その景色の素晴らしさに感心してしまった。この山が潰される予定と聞き、 「日本人は公園というものを知らないのか」 と嘆いた。当時、日本には公園という概念がなかった。 意外なことに、その嘆きを耳にした政府は、数日で方針を転換し、上野の森は保存されることとなった。 上野公園内には、ボードインの銅像が建っている。こぢんまりとした胸像だが、上野恩賜公園にとっては恩人というべき人物であり、上野の森を愛好する人々は、彼に感謝しなければならない。 上野公園の桜は、毎年実に見事である。 昨年、上野を訪れたときには、その桜がちょうど見頃で、ごった返す人混みの中、「これが東京の桜か」と感心した覚えがある。 今年の開花は例年よりやや遅れたようで、このときはまだ一部の桜がわずかに咲くのみだった。それでも人出はかなりのもので、さすがは上野公園と思わせた。 湯島台 上野のアメ横で蕎麦を食べた後、私はお茶の水まで歩くことにした。 実は、今までこのあたりが私にとって盲点だった。皇居周辺や神保町あたりまでは何度も歩いたことがあるし、上野もお気に入りの場所である。その間がすっぽり抜けていた。 私の頭の中では、皇居周辺の地図と上野周辺のそれが別個に存在し、それらがつながって一枚の地図にはなりにくかったようだ。 上野と神保町は十分歩いて行ける距離だということをやっと認識した私は、まず湯島天神へと歩き始めた。 『街道をゆく』を読んでいると、司馬流の歴史の感じ方があることに気づく。地形に独特のこだわりがあって、とくに土地の高低にはうるさい。 「海」から、本郷台という陸地にあがってみた。 まず無縁坂からあがり、ついで湯島の切通坂からあがった。また北へまわって弥生坂からものぼってみたりして、本郷台地がずっしりした陸地である感じを体に入れた。むろん、縄文人になったつもりである。 (『街道をゆく』「本郷界隈」より) 筆者が嬉しそうに現場を歩く姿が、目に浮かんでくる。それなら私もそれを模倣してみようという気になり、生意気ながらそんなつもりで歩いた。 湯島天神は、いうまでもなく菅原道真をまつっている。文和四年(一三五五)、郷民によって建立された。その後、江戸城を築城したことで有名な太田道灌が再興した。江戸城の鬼門の鎮めのつもりだったかもしれない。 司馬さんの素晴らしいところは、湯島天神の立地を見て、 つい中世、城砦ではないかと思いたくなるが、どうも空想らしい。 (『街道をゆく』「本郷界隈」より) と思う感覚である。実に歴史を楽しめる人だとつくづく思う。 「城砦」と空想してしまうのは、湯島天神が湯島台の上にあるからで、つまり鳥居に向かう道筋は平坦だが、あとは崖になっている。 私はその崖を北から登った。崖といっても、ちゃんと階段はある。その坂を女坂といい、女坂を登りきった場所から東に下っている坂を男坂という。なるほど、男坂の方が勾配が急である。 『街道をゆく』の湯島天神の章には、泉鏡花の話が載っている。 泉鏡花は『婦系図』という作品を書いた。その舞台のひとつが湯島天神だった。 男と女がこの湯島天神で落ち合う。しかし、明治当時の神社境内は真っ暗なはずで、落ち合うどころではないと思いきや、ここの境内には五基の瓦斯灯があったという。 当時の瓦斯灯を再現したものが一基、境内に立っていた。今の感覚からすれば、非常に心許ない明かりといわざるを得ないが、当時としてはまさしく「文明開化」のともしびだったのだろう。 湯島天神から南下する道は、高台の縁を伝って歩く格好になる。 四百メートルほど南下すると、前方に実に様子のいい坂が広がっている。 清水坂という。 清水坂の交差点に向かって道は下っており、その交差を過ぎると坂は逆に登り始める。登りきったところに湯島聖堂がある。 私は清水坂の交差点のカフェに入り、一息つきながら坂の様子を眺めていた。自転車でこのあたりを走るのは、さぞかしつらかろうと思った。 神田明神は湯島聖堂の手前にある。湯島天神と同じく、江戸城の鬼門にあたる。 神田明神といえば、神田祭が有名である。神田祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに、日本三大祭に数えられる大祭で、毎年五月に行われる。 祭神は平将門で、面白いことに、日本史上最も怨念が深いとされる道真と将門が江戸城の鬼門を鎮めていることになる。「鬼をもって鬼を制する」ということだろうが、有無をいわせぬ顔ぶれといえる。 楼門、社殿ともにすぐれている。関東大震災で消失したあと、コンクリート材でもって木造の質感を表現して、はなはだみごとである。 (『街道をゆく』「神田界隈」より) 司馬さんは、神田明神の様子をこう賞賛している。楼門、社殿とも黒ずんだ朱で塗られ、江戸の威勢のいい感じをよく表現している。 私が訪れたときには、ちょうど結婚式が行われていて、雅楽が心地よく流れる中、幸せなおふたりが巫女さんたちに導かれ、社殿へと歩いていった。神社での結婚式は、やはりいいものである(キリスト教会で式を挙げようとする日本人の気持ちがよく分からないと、私はいつも思っている)。 神田明神の台上から石段を下りきったところを、明神下という。私は下りなかったが、かつてそのあたりには花街があった。かの有名な名医・松本良順も明神下がごひいきだったという。 聖橋界隈 神田明神をさらに南下すると、湯島聖堂に行き着く。 私はその道順のまま湯島聖堂に行くつもりだったが、その向こうが聖橋だからと、どんどん行き過ぎるうち、前方にニコライ堂の姿を見つけ、「おう」と声を出してしまった。 ビルの間にかろうじて頭をのぞかせる感じで、ニコライ堂は建っていた。 勢いで、私は聖橋を渡ってしまった。 先に聖橋について書く。 この橋は、関東大震災後の昭和三年(一九二八)に架けられた橋で、湯島台と駿河台をまたいでいる。その名は、ニコライ堂と湯島聖堂を結ぶことからつけられたらしい。 橋の下には神田川が流れる。神田川は、人工の川である。 正確には、江戸城の防備のため、人工の濠を掘ってそこに水を通した。それにしても聖橋は、何となく渡り心地がよくない。 理由ははっきりしている。橋が周囲に比べ、かなり高い位置に架けられているのだ。神田川の水面からはかなり高さを感じるし、湯島聖堂だって眼下に見える。三本の鉄道もすべて橋の下を通っている。一見不自然な構図に見えてしまう。 しかし、見方を変えれば、都市に小さな渓谷美をもたらしているともいえる。渡り心地はともかく、私はこの橋の様子が好きである。 ニコライ堂に到着した。正式名称は「日本ハリストス正教会東京復活大聖堂」という。明治二十四年(一八九一)に完成したそうで、日本最古のビザンティン様式の建物だという。かつては、 東京で天国にもっとも近い。 (『街道をゆく』「神田界隈」より) と司馬さんがいうように、江戸城を見下ろすような高台に建てられたはずだったが、現在は周囲に背の高いビルが建ち並び、視界はさえぎられてしまっている。 ちなみに、この建物を施工したのは、東京帝室博物館(現・国立博物館)や鹿鳴館を設計した英国人・コンドルである。こういう西洋建築が今も街中で生き続けているということが、明治に憧れる者にとっては嬉しい。 かつて司馬さんはこの聖堂の中に入ったという。今回、私も是非内部を見学したかったが、この聖堂はいまだ「現役」であり、「一見さん」が突如見学をお願いするのは気が引けた。 聖堂のてっぺんに鐘がある。この鐘もまた「現役」なのだろうか。だとしたら、その音色を是非聴いてみたいと思った。 最後に、昌平坂の湯島聖堂を訪れた。 江戸時代は、儒学の時代といえる。 話は、家康までさかのぼる。家康自身は儒学にさほどの関心を持たなかったが、息子の秀忠には学ばせようとしたらしい。林羅山を講師とした。 羅山は、三代家光になってさらに重用されるようになる。 彼は当初、今の上野公園の西郷さんの銅像あたりに私塾を開いた。さらに二年後には、孔子廟を造営した。 それを神田湯島に移転させたのは、五代綱吉である。以来、この孔子廟は「湯島の聖堂」の名で親しまれるようになった。 しかし、この段階では、儒学はまだ官学とはなっていなかった。儒学が官学となるのは、松平定信による寛政の改革のときである。儒教の中でも朱子学を「正学」とし、「湯島の聖堂」は幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)に仕立て直された。敷地も広がった。 私は「湯島の聖堂」に西門から入り込んだ。 この聖堂は、周りを練壁に囲まれていて、その内部は実に物静かで、しっとりとしている。どこにもないような雰囲気を感じるのは、ここが寺院でも神社でもなく、孔子をまつる聖堂だからだろう。 西門から少し行くと、左手に門があった。入徳門という。それをくぐり、正面の石段を登りきると、そこは大成殿(孔子廟)である。実に重厚な造りで、建物全体が黒い。建物の正面には「大成殿」と大書された扁額が掲げられている。見事な扁額である。 湯島聖堂の建物は、関東大震災でほとんどが焼失した。現存の建物は震災後に再建されたもので、木造風ながら鉄筋コンクリートだという。 「学問所」とは、実に響きのいい言葉だと思う。 この地は現在でも各種文化講座が開かれ、「学問所」の名残を見せている。 その案内パンフレットを見せてもらったが、講師陣の中に石川忠久氏の名を見つけた。NHKの漢詩講座でおなじみの先生で、日本随一の唐詩の先生といっていい。この大先生が三十名ほどの少人数を相手に講義なさっているという。誠に贅沢といえる。 湯島聖堂は木に囲まれているので、日暮れが早く来る。 気がづくと、チャリン、チャリンと、鐘の鳴る音がした。係の人が、小さな鐘を片手で振り鳴らしながら、入徳門の前を歩いていく。閉門時刻になったらしい。 何やら学校でチャイムを聞いたような気分になり、おかしみを覚えた。 書生が急かされて「下校」するかのように、私は門を出た。 外を吹く風は、確かに都会の春の風であった。 |
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