京 都 散 歩
              《旅の時期 2005年5月4日》


嵐 山

   

 嵐山を見たいと思った。
 なぜか今まで,嵐山をゆっくり見る機会がなかった。京都には毎年のように足を運んでいるのだが,一体どうしたことだろう。たとえるなら,食べず嫌いと表現するのが一番いいかもしれない。
 しかし今回,司馬遼太郎著『街道をゆく』の「嵯峨散歩」に誘惑されて,自分も嵐山界隈を歩いてみることにした。

 早朝,五条通から嵐山に入った私は,天龍寺で車をとめたあと,渡月橋へと歩いた。
 嵐山といえば,渡月橋である。
 渡月橋は平安時代,嵐山の法輪寺再興にあわせて架けられた橋がはじまりで,今よりもやや上流にあった。
 鎌倉時代になり,亀山天皇が,
「くまなき月の渡るに似る」
 と評し,橋に,
「渡月橋」
 の名を与えた。美しい名である。この名については,かの夏目漱石も,
「京は所の名さへ美しい」
 とほめている。また,司馬さんもこの橋が好きだったようである。

  この景観には,大きく弧をえがいた唐橋は似合わない。渡月橋は,ひたすら水平の一線をなしている。それも,橋であることの自己顕示を消しきったほどにひかえめである。(中略)また,どこから見ても景観のなかでは,低目の位置に渡月橋の一線があり,この位置が,黄金分割になっている。
               (『街道をゆく』「嵯峨散歩」より)

 早朝ということもあり,渡月橋周辺はまだ人影も少なく,静かだった。
 そんな中,私は嵐山と渡月橋をしばし眺めた。
 ああ,嵐山の何と美しいことか。
 木々の緑は,朝陽を受けてその色がさらに明るく見える。鮮やかであることこの上ない。
 私は何度も,
「嵐峡」
 にカメラを向けたが,物理的にも精神的にもその美しさをとらえきるのは,全くもって不可能だった。とても人間の手には負えない自然美であり,その悠然さに私は感動を抑えることができなかった。

 嵐山は,そのほとんどがかつて天龍寺の寺有地だった。
 つまり今,見ているこの絶景も,天龍寺の広大な境内の一部だった。そのスケールの大きさにも,人々は感嘆せざるを得ない。
 橋の下には,大堰川が流れている。水の量は決して多くなく,さらさらと落ち着いて流れている。
 この川は別名・桂川ともいう。
 この川には保津川下りで有名な保津川という名もあり,よく分からない。

 だんだん人出が増えてきた。
 川にはまだ船は浮かんでいないが,あと一時間もすれば,様々な船が右往左往することだろう。


嵐山余興

   

 天龍寺へと向かった。天龍寺には有名な豆腐料理の店がある。
「西山艸堂」
 という。最近になるまで知らなかったのだが,豆腐には,
「嵯峨豆腐」
 というものがあるそうで,ここではそれを食べることができる。

 余談だが,司馬さんはかなりの豆腐通だった。
 小説『花神』を書いたとき,主人公の村田蔵六(のちの大村益次郎)が無類の豆腐好きだったことから,豆腐について調べたことがきっかけらしい。『街道をゆく』で嵯峨野を歩いたときには,この店で湯豆腐も食べている。

 私は店内には入らなかったが,店先の庭に咲く見事なつつじを愛でながら,天龍寺の本堂へと向かった。
 向かいはしたが,実は豆腐のことが気になり続けている。
 西山艸堂の豆腐は,
「森嘉」
 という店の豆腐を使っている。嵯峨豆腐といえば森嘉,といわれるほどで,創業百三十年の老舗である。店は,天龍寺から一キロのところにある。
 私は豆腐が大好物だし,大村益次郎のことも司馬さんのことも好きである。そんな人が嵯峨野まで来て森嘉を訪れないというのは,いかがなものだろう。

 森嘉は,清涼寺(釈迦堂)のすぐ近くにあった。
 見かけは普通の豆腐屋だが,店頭に車がとまること,ひっきりなしである。しかも,降りてくる人は皆,どこかの料亭から買いにまいりました,といった風情に見える。
 もちろん,私も何か買い求めたかったが,一番食べてみたかった豆腐(ここの豆腐は普通の豆腐の倍の大きさがある)は,旅の身では持ち帰るに困ってしまう。結局,納豆とすしあげを買った。

 今回,残念ながら森嘉の豆腐を食べることはできなかったが,一見ごく普通の店で,京都一といわれる豆腐が百年以上もつくり続けられ,それが今も人々に愛されているという事実に,私は素朴な味わいを感じた。その誠実さに敬意を表したいとも思った。
 それにしても,その気になればいつでも森嘉の豆腐を食べることができる京都人は,それだけで人生を得している。

 再び渡月橋に向かって歩いている。
 当初は,ここから広隆寺にでも行こうかと思ったが,嵐山を見て完全に心うばわれた人間には,このまま嵐山を離れることはできない。嵐山を体験すべく,私は船遊びをすることにした。

 嵐山では,手軽に屋形船に乗ることができる。
 船は,ゆっくり大堰川を上りはじめた。
 風が爽やかに流れ,水面はひんやりとしている。私は思わず,何度も水の中に手を入れ,その冷たさを確かめた。かつて平安の貴族たちは,このように嵐山に船を浮かべ,舞や和歌など,風雅な遊びを楽しんだのだろう。
 船頭さんは一人である。長い竹竿をたくみに使い,船を操っていく。年の頃は三十半ばだろう。眼鏡の奥の眼差しがとてもやさしく,穏やかに語る人だった。
「今が一番,いいときですよ。天気もいいですし……」
 彼にそういわれ,何だかとても得した気分になった。
「ここの船頭は,最高年齢が七十八歳ですわ。平均年齢六十なんぼの職場です」
 彼はそういって笑ったが,そう楽な仕事には思えない。
「先輩からは力でない,技やとよういわれます。死ぬまで稽古です」
 そういった謙虚さが船の操りにも表れるのだろう。船は終始穏やかに進み,私の気分はいよいよすぐれた。
 山の緑は奥に進むにつれ,濃くなっていく。川はひたすら涼しげである。
 船は途中でUターンし,下り始めた。下りといっても,速さはさほど変わらない。
 途中,屋根のないやや大きめの船に何度も行きあった。保津川下りの船である。
「あの船は,川を下りきったあとはどうするんですかね」
 と聞いたら,船頭さんは,
「今はクレーンでつり上げ,トラックで運んでしまいます」
 と教えてくれた。

 大堰川をはさんで嵐山と向き合っているお椀型の山が,小倉山である。
 嘉禎元年というから鎌倉時代前期の話だが,藤原定家が息子の妻の父・宇都宮入道に,
「別荘のふすまに和歌の色紙を貼りたいので,あなたが歌を選んで,それを揮毫していただきたい」
 と頼まれた。当時,定家も入道も別荘がこの小倉山にあった。
 定家は書が苦手だったが,渋々書くことにした。それが,
「小倉百人一首」
 の原型となった。おかげで,飛鳥から平安・鎌倉時代にわたる歌人とその作品が,民衆にまで深く浸透していくことになった。

 約四十分間の船遊びが終わった。
「ありがとうございました。とっても満足しました」
 私は,やっと嵐山を離れることにした。


岡 崎

   

 昼食は,京のうどんと決めていた。名店は数あれど,今回は岡崎にある,
「京菜家」
 を訪れることにした。
 平安神宮の大鳥居を南へ下ると,その店はある。京懐石の流れをくむ店で,店長は吉岡眞二さんである。
 ここに来たら,
「季節のおうどん」
 を食べずに帰る人はいない。私は白魚山椒のうどんを注文した。
 白魚は春のごく短い時期だけに味わえる可憐な魚で,昆布じめしたものに吉野くずをうち,だし汁でさっと煮て,味をつけるのだという。
 白魚のうどんを私は初めて食べたが,何ともおいしかった。
 京のうどんは,極めて上品であっさりしている。
 続いて,旬の京野菜と炊き込みご飯を湯葉で巻いた湯葉寿司を食べた。これがまた旨かった。
 
 余談だが,店内でNHKのテレビ番組「クローズアップ現代」のキャスター・国谷裕子さんを見かけた。
 母上らしき人(この人も上品なお方で,顔は国谷さんにそっくりだった)が私の左隣に座り,そのまた左に国谷さんが座った。店がやや緊張した気がした。
 ちなみに,国谷さんもうどんと一緒に湯葉寿司を注文していた。おいしいものは皆,よく知っている。

 平安神宮まで足を伸ばした。
 まず目に入るのは応天門だが,その華やかさは京都随一といえる。これほど都の美しさを素直に体現した門もないだろう。
 それにしても,鮮やかな朱色である。
 京の朱は,こうでなくてはならない。というのも,たとえば江戸の朱は決してこういう色はしていない。
「江戸朱」
 という言葉はないが,あってもいいくらいに江戸の朱は独特である。黒ずんだような,深みを持った朱なのである。それがかえって江戸の,
「粋」
 を表現するとすれば,京の朱は,
「雅」
 を表現しているといえる。
 応天門をくぐると,そこには白い砂が目に眩しい境内が広がり,その先にはこれまた京の朱で塗られた社殿が横たわっている。

 平安神宮の歴史は新しい。
 平安神宮は平安遷都千百年を記念し,桓武天皇を祭神として明治二十八年に創建された。
 その後,昭和十五年に平安京有終の天皇・孝明天皇も合祀された。
 社殿は,平安京の正庁・朝堂院を八分の五の規模で再現している。平安京は唐の都・長安を模してつくられた。よって,この社殿も唐風の造りになっている。

 平安神宮は,外国人観光客が実に多い。とくに中国人が多いように思う。
 そういえば,この日(五月四日)は,中国では一九一九年の反日救国運動(五・四運動)の記念日であって,近頃突然沸き起こってきた反日デモの大規模なものが予想されていた(結局は起きなかったが)。
 そんな日に平安神宮を訪れた中国人は,神宮のたたずまいを見て何を思っただろう。独特の早口でしゃべる様子のみから会話の内容を察するのは難しいが,建設的な感想であってほしいと願う。


木屋町通

   

 夏の鴨川はいい。
 西岸には川床が立ち並び,その下の川縁にはいつも人々が列をなし,座り込んでいる。たいていはカップルである。その光景を大橋の上から眺めると,京都に来たことを実感する。
 五月に入り,鴨川も春の気配はすっかりなくなっていた。もうあちこちの川床が営業を始めており,人々が興じている。私はその光景に誘われるように,四条の,
「東華栄館」
 に入った。ここは北京料理店でありながら,川床らしきものを出している。予約なしで気軽に川床気分を味わうには,もってこいの店である。
 私は鴨川に一番近い場所に席を取り,生ビールと厚皮の焼餃子を注文した。
 陽はだんだんと傾きつつあった。

 このあと,そのまま木屋町通を歩いた。
 京都には様子のいい通りが数多くあるが,私が最も好きなのがこの木屋町通である。
 通りに沿って高瀬川が流れ,夏はいと涼しげである。また,江戸時代より料理屋や旅籠,諸藩の藩邸などが並んでいたはずだが,その風情が今も残り香のようにかすかに感じられ,それが独特の魅力となっている。

 昨夏,私は初めて鴨川の川床を体験した。そのとき行ったのが木屋町通にある,
「竹島」
 という割烹料理の店で,その南隣が有名な,
「幾松」
 だった。幾松は,桂小五郎・幾松の寓居跡であり,今は高級料理旅館となっている。
 一方,竹島の北隣はかつて長州藩が借りて控え屋敷にしていたところで,現在は門前に,
「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」
 の碑がある。
 大村益次郎がこの場所でテロに遭ったのは,明治二年九月四日のことだった。
 彼はヨーロッパ風の国民国家を願望していた。そのためには日本にも国民軍をつくることだと思い,徴兵制を推し進めた。が,徴兵制は武士階級への決定的な否定につながる。よって,守旧派のテロリストに襲われたのである。

 当時,大村は宇治や大阪をとびまわり,練兵場へ行っては調練方法を指示したり,鎮台や兵学寮などの陸軍施設の場所を選定したりしていた。
 運命の九月四日。ようやく半日の小閑を得た彼は,木屋町のこの宿に帰っていた。二階の四畳半で,たまたま訪ねてきた門人・安達幸之助,長州藩大隊司令・静間彦太郎と歓談していた。おそらく彼らは,例によって湯豆腐を食べていたのではないか。
 そこへ突風のように刺客が飛び込んできた。午後六時過ぎだった。刺客は少なくとも八人いた。
 凶行は二,三分という時間で行われた。
 大村はまず左前額や右コメカミ,左手に微傷を負い,最終的には右のモモを切られた。このモモの傷だけが大きかった。
 彼は,十月二日大阪仮病院に入院。同二十七日右大腿部を切断。十一月四日午後四時危篤状態に入り,翌五日午後七時死去した。享年四十六歳。
 実は彼の五年前,同じ宿の前で佐久間象山も暗殺されている。殺し手は,政治的狂人ともいえる攘夷家だった。
 これらの事実だけを見ても,木屋町通とは歴史的に極めて意味深い通りだったことが分かる。

 その木屋町通を流れる高瀬川についても触れたい。
 高瀬川は,安土桃山から江戸時代にかけて活躍した豪商・角倉了以が,木材などの運搬のために京都と伏見を結ぼうと開削した運河である。全長約十キロもあり,総工費は七万五千両(およそ百五十億円相当)だったという。
 開通したのは慶長一九年頃で,以来,川沿いに開かれた町には木材業者が多く住んだ。そのため,樵木町通という名が生まれ,のちに木屋町通と呼ばれるようになった。

 角倉家はもともと室町幕府の幕臣だったが,次第に商業に傾倒していき,そして室町末期に了以が出た。
 彼は文禄元年,豊臣秀吉から朱印状を受け,安南(今のベトナム)と貿易を始め,巨万の富を手にした。そして,それを資金にして国内の河川開発という大事業を手がけ,高瀬川だけでなく,大堰川・富士川・賀茂川をも疎通させている。とにかく何をするにもケタはずれの人物だった。司馬さんはいう。

  江戸期の本に京都は奇傑大豪の出る地だという表現があったように記憶する。角倉了以こそその最たる典型といっていい。
               (『街道をゆく』「嵯峨散歩」より)

 了以は今,嵐山の奥にある大悲閣千光寺に眠っている。
 千光寺には彼の木像も残っている。司馬さんはそれを見たかったそうだが,そのときちょうど山が閉ざされていて,見損ねている。
 今回の旅では私も見ることができなかったが,いつか見てみたいものである。

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