松 阪 散 歩 《旅の時期 2005年6月26日》 松阪城跡 松阪城跡 つい先日、松阪市の「松阪」は「まつさか」と発音するらしいことを、友人から教えてもらった。 驚いた。恥ずかしながら、今まで私は「まつざか」とばかり思い込んでいた。たとえば、「松坂屋」は「まつざかや」だし(しかし「松坂屋」と「松阪市」は大いに関係がある)、「松坂大輔」は「まつざかだいすけ」となる。なぜか「松阪市」だけは濁らず発音するのである。 松阪といえば、本居宣長(一七三〇〜一八〇一)ゆかりの地である。いわずと知れた国学の大家だが、私は宣長の詳細を知らない。 「宣長とは、どんな人物だったのか」 ふとそう思った私は、ぶらりと松阪に出掛けてみることにした。六月最終週の、真夏を思わせるような暑い日だった。 伊勢路を車で行くなら、伊勢自動車道を行くのが一番いい。亀山から伊勢自動車道に入った私は、松阪ICでそれを下りた。 松阪で最初に訪れたのは、松阪城跡である。 松阪城は、天正十六年(一五八八)、蒲生氏郷(一五五六〜九五)によって築かれた。 氏郷は天正十二年(一五八四)、近江から南伊勢に移ってきた。石高は十二万石だった。最初は松ヶ島城に入ったが、その四年後、四五百の森の地の利に着目し、そこに松阪城を築いた。 氏郷はかなりの器の人物だったらしく、領国経営にも長けていた。そのコンセプトは、一大商業都市をつくるという点にあった。 彼は十三歳のときに、人質として織田信長の岐阜城に入ったことがある。その岐阜の町では、信長が楽市楽座の政策を進めていた。きっと学ぶことは多かっただろう。 信長の方も彼のことを気に入り、ついには娘の冬姫と結婚させた。天下の信長の御眼鏡にも適う男だったのである。 その後、長篠の戦いなどにも従軍し、武功を立てた。安土築城などにも加わり、その城下でも政策を学んだ。 そういった下地がある彼にとって、四五百の森の地は、自らの領国経営理念の実現の場だった。松阪入城後、わずか三ヶ月で、 「町中掟」 を定めた。いわゆる楽市楽座と同様のものだが、信長のそれより自由に商売ができ、職人としての店を出せるという点で画期的だった。その重商政策がのちに、 「松阪商人」 を輩出することになる。 この地を、 「松坂」 と命名したのも氏郷である。「松」は「松ヶ島」の「松」、「坂」は当時、完成が近づいていた秀吉の城下町「大坂」の「坂」の字を、秀吉よりもらった(ちなみに、明治二十二年までは「松坂」と表記したが、その年の市制施行にともない、「松阪」と表記するようになった)。 しかし、氏郷は天正十八年(一五九〇)、小田原の北条攻めに参加し、その場で会津四十二万石の太守に任ぜられた。彼は松阪に帰ることなく、会津に赴いた。 その後、文禄四年(一五九五)、四十歳で早世した。 松阪の人は、氏郷をとても大切に思っている。松阪の人にとって、氏郷は松阪開府の祖であり、見事な都市計画を進めた名君だった。その在任期間はたった六年間だったが、後世への影響力を考えると、人々がまるで崇めるかのような態度であるのも、当然かもしれない。 氏郷後は、二代目として服部一忠が、三代目として古田重勝が入った。城が完成したのは、その重勝の時代だった。 松阪市役所前を通り過ぎた私は、眼前の様子に、 「あっ」 と声を挙げた。そこには背の高い石垣が、松の枝の間からのぞいていた。松阪城の石垣である。実に高さがあり、そこに美しさを感じさせる。 近くの公民館に車を止め、私は城を登っていくことにした。 表門から城内に足を踏み入れると、そこにも新たな石垣がそびえている。これまた美しい。 さらに上へと登っていくと(松阪城は平山城のため、本丸に向けてどんどん登っていくことになる)、そこは二ノ丸跡である。そこからは、松阪市内の様子が一望できる。 夕べには松阪城に投じ 朝には櫛田川を渡る 西のかた深山の雪は白し 東のかた内海の煙は青し 氏郷は松阪城でこんな詩を詠んだという。城から眼下に広がる城下町を眺め、食事のための煙が立ち上るのを喜んでいる名君の姿が目に浮かんでくる。 今度は南に目を向けてみる。向けるやいなや私は、 「おや?」 と思った。目の前に松阪工業高校の建物が見えるのだが、その手前に様子のいい屋根を持つ建物が広がっている。瓦葺きで、瓦の色は灰色である。一見、歴史を感じさせる雰囲気が漂っている。 その様子を何とかきれいに写真に収めようと、私は二ノ丸跡を西の方へと歩いていった。 そこで気づいた。この家々の様子は写真で見たことがある。 「御城番屋敷」 だった。 松阪は、元和五年(一六一九)からは御三家の一つである紀州藩の直轄領となった。松阪城には松阪御城代が置かれ、二ノ丸に徳川屋敷が置かれた。 御城番屋敷は、城の警備を任務とする紀州藩士とその家族の住居として、文久三年(一八六三)に建てられた。約一ヘクタールの敷地内には、主屋二棟と前庭・畑地・土蔵・南龍神社がある。主屋は当時、東棟・西棟とも十戸が連なっていた(現在は西棟が九戸となっている)。 屋敷は今、紀州藩士の子孫が設立した、 「苗秀社」 という合資会社によって維持管理されている。子孫が実際に住んでいるのは六軒で、残りは借家となっている。 話は前後するが、私は松阪城を見終わってから、御城番屋敷にも足を運んだ。 現在も現役の屋敷であるため、屋敷内の見学はまったく無理かと思ったが、ただ一戸のみが復元整備され、公開されていた。 中に入ると、ボランティアのガイドである初老の男性が、いろいろ話をしてくれた。 「あそこに高層マンションが建つ計画があるんです。今、建設反対の署名を集めております」 といってガイドさんが指さしたのは、屋敷の西、本居神社や松阪神社がある森のすぐ左手だった。二ノ丸跡から見た眺めを思い出すと、なるほど、この地に高層マンションはあってはならないだろう。 私は本丸をめざして歩いている。 二ノ丸と本丸の間には、かつて中御門があった。この辺りの石垣の様子が、また素晴らしい。 さて、石垣の話である。石垣の積み方にもいろいろあるが、松阪城は、 「野面積み」 が主体になっている。野面積みとは、自然石をそのまま積み上げ、石垣の表面の隙間に詰め石をしたもので、一見乱雑だが水はけがよく、堅固だという。信長の安土城も野面積みが主体だった。 この石垣を積む技術を持っていたのは、近江の、 「穴太衆」 と呼ばれる集団だった。かつて朝鮮半島から渡来した技術集団で、安土築城で活躍したため、諸大名から召し抱えられるようになった。近江出身の氏郷も当然、松阪築城の際、穴太衆を招き寄せた。 その技術が素晴らしい。まずはこの丘陵までこれらの巨石を運んでくるだけでも大仕事である。それをきちんと組んでいき、積み上げる。コストパフォーマンスを考えると尻込みしてしまう仕事だが、それをどの国もこぞってやったところに凄味があるし、それが現在、このように残っていることにも感動を覚える。 ちなみに、この城の石垣は昭和六十三年(一九八八)より大々的に修復作業が行われた。十六年間、約十一億円かけたらしい。 しかし、中御門辺りの石垣は当時のままだという。なるほど、確かな趣があって、とてもいい。思わず安土城の石垣を思い出してしまうような風情がある。 中御門を過ぎると、いよいよ本丸である。 そこはきれいに整地されていて、かつては兵部屋敷があったというが、その面影はまったくない。 屋敷跡の脇には、天守閣跡がある。三層四階の天守閣があったはずだが、現在は木々が高々と茂っている。天守台の石垣もさほど修復されていない様子で、かなり草でおおわれている。 昭和五十七年(一九八二)に天守閣を再建してほしい、との陳情書が市議会に提出された。しかし、賛否両論あり、天守閣問題は結局、沙汰やみになった。私は、結果としてそれでよかったと思う。 作家の井上靖氏が松阪城を訪れた際、こう語ったという。 蒲生氏郷のとき築城されたままの素晴らしい石垣ですね。こんな野面積みの石垣は、全国でもわずかしかありません。よく原型をとどめていますね。 (松阪城跡ハンドブック『松阪城再発掘』より) これで十分ではないか。現在の松阪城にとって、この石垣こそすべてであって、それ以上は蛇足に過ぎない。 歴史的遺構の場合、そこに姿がないからこそ素晴らしいという美意識も成立したりする。そして、この松阪城こそ、その典型であるように思われた。 宣長のこと 本居宣長旧宅 松阪城内には、本居宣長記念館と宣長の旧宅がある。 いよいよ宣長についてである。宣長は享保十五年(一七三〇)に生まれた。父は木綿商人・小津三四右衛門定利、母はかつといった。 小津家は、江戸に店を出すような豪商だった。つまり、宣長は松阪商人の出ということになる。姓を「本居」にしたのは宣長で、自身の研究により、小津家はもともと本居家から出ていることを知り、それに復したという。 彼は若い頃より、様々な教養を身につけた。十二歳で謡と漢籍、十七歳で茶の湯を習い、十八歳からは五経の素読を始めた。 本が猛烈に好きだった。それがわかるのは、彼が一冊の書籍目録を残しているからである。『経籍目録』がそれで、十六歳の頃から書き始めたその目録には、約四千の書名が挙げられている。 二十三歳のとき、医学修業のため京都に遊学し、堀景山に儒学を学んだ。この頃、契沖の著書に会い、古学を志すようになった。 二十八歳になり、遊学から帰郷すると(五年間もの長い間、遊学を許されるという経済的余裕も、研究に大きな影響を与えた)、松阪魚町の自宅で開業医となるかたわら、執筆活動もさかんに行った。 宣長といえば、古事記の研究である。 宝暦十三年(一七六三)、彼は松阪の旅籠で、江戸の国学者として名をはせていた賀茂真淵と対面した。宣長にとって真淵は雲の上の存在であり、この対面に感動した宣長は同年、真淵門下に入り、真淵が亡くなるまで書簡にて万葉学の教えを受け続けた。すべては古事記研究の基礎を築くためだった。 これ以後の宣長の読書や思索は、すべてが古事記の研究に何らかの形で結びついているといっていい。彼にとって古事記の研究は、まさにライフワークだった。 私はまず資料館に入り、二階の展示室へと向かった。 展示室の入り口には印刷物が置いてあり、自由に取っていいことになっていた。 その資料によると、宣長が十五歳のときに書いた「神器伝授図」は、中国の皇帝の歴史を調べ、それを系図にしたものだが、彼はそれをつなぎ合わせ、全長十五メートルもの巻物にしたという。 中に入ってみる。そこには、宣長ゆかりの物が多く展示されていた。 まずはさきほどの「神器伝授図」である。実物を見て、度肝を抜かれた。皇帝の名前などが細かい字でぎっしり書かれている。それが延々と続く。十五歳の手によるものだから、字はそれなりに稚拙だが、それにしても現在の中学生にこういったことができるだろうか。レベルが違いすぎるのである。 有名な『古事記伝』の草稿本も展示されていた。これも字がぎっしりと書かれている。字はきちんと並んでいて、彼の几帳面さをよく表している。行間には加筆訂正の跡もあり、推敲の苦労がわかる。 『古事記伝』全四十四巻が終稿したのは、彼が七十歳のときだった。真淵に出会ってから三十六年目の夏に、ライフワークは完成した。 この資料館では、他にも『国号考』『玉勝間』『源氏物語玉の小櫛』など、彼の著作を数多く見ることができた。 これらを見て、私は宣長について多くを悟った。彼は一種、狂気の素質を持って生まれた人だった。ただその自己表現の方法が、吉田松陰のように過激な行動でなく、研究といった知的な方法だった、ということである。 宣長は学問について、さかんに、 「物まなび」 ということをいった。彼がいうそれは、人に強いられるのではなく、自分で問題意識を持って考えていく、というニュアンスのもので、つまりは主体性を重視する。そして、彼の研究自体がまさしくそれを体現するものであって、私などはそのひたむきさに凄味さえ感じる。 同じような凄味を感じさせる人物に、伊能忠敬がいる。 私は昨年、忠敬の地図を徳川美術館で見たが、その美しさに感動しつつ、これをつくった忠敬とはまさに静かなる狂気の人ではないか、と思ったものだ。 忠敬も経済的に裕福な人だったし、その地図づくりも自分の趣味が高じてという面が強かった。主体的に行動したのであり、そういう点では宣長と共通する部分が多い。私はそこに学問の本質を見る思いがする。 宣長には有名な自画像があって、国の重要文化財になっている。六十一歳のときに描いたというが、心身とも全体的にスマートな印象を受ける。几帳面であったのがうなづけるような顔つきでもある。 自画像であるところも面白い。もしかしたら、何事も自分でやらなければ気がすまない性格の表れかもしれない。 遺言書では、自分の葬り方についても細かに指示をしている。 「塚は墓所の真ん中より少し後ろへ寄せて築き、その上に山桜の木を植え、塚の前に石碑を建て、碑には『本居宣長之奥津紀』と刻せよ」 ということだったらしい。つまり、宣長とはそういう人物なのである。 資料館を出て、宣長の旧宅へと向かった。現在は松阪城内にあるが、もともとは城の北東五〇〇メートルのところにあったという。それを、保存のために明治四十二年(一九〇九)、松阪城内へ移築した。 旧宅の中に入ると、まず見世の間がある。開業医でもあった彼は、ここで患者を診た。次に居間・仏間があり、最も奥に座敷がある。ここで彼が講義をしたこともあっただろう。 残念ながら二階には上がれなかったが、二階には有名な書斎、 「鈴屋」 がある。広さは四畳半で、一見簡素である。部屋の中には踏込床・押入・棚などがあり、南西に開いた大きな窓もある。床には、堀景山の書などが掛けられていたというが、真淵の命日には、 「県居大人之霊位」 の軸に改められた(「県居大人」とは真淵先生のこと。「霊位」とは位牌の意)。師を想う宣長の気持ちがよく伝わってくる。 現在は、鈴屋を外から眺めると、大きな窓からその軸がよく見えるようになっている。 松阪商人 松阪商人の館 松阪まで来たとなれば、松阪牛を食べずにはいられない。松阪牛の店といえば、 「牛銀」 である。実は松阪城に来るまでに、牛銀の看板を数え切れぬほど見たが、看板など出す必要もないほど、松阪では名の知れた松阪牛の名店である。 ただ、牛銀は明治三十五年(一九〇二)創業の牛鍋屋の老舗で、私の手に負えるような店ではない。ところがよく調べると、牛銀本店の横には、 「洋食屋牛銀」 というのがあって、手軽に松阪牛を味わえるようになっている。そちらに行ってみることにした。 私は牛かつ丼を注文した。並で八〇〇円というから、リーズナブルである。松阪牛のばら肉を揚げたものに、じっくりと煮込んだデミグラスソースをかけた丼だが、このばら肉がサクサクしていて実においしい。甘口なのもいい。 牛銀の周囲もまた、深い歴史を持っている。 「松阪商人」 という言葉がある。江戸時代、松阪城下は商人の町として栄えた。そして、三井・小津・長谷川などの豪商は、江戸時代前期にいち早く江戸に出店を構えた。 松阪商人が扱ったのは、主に木綿である。 「松阪木綿」 といわれた。江戸時代の百科事典ともいえる『和漢三才図会』にも、 「木綿は勢州松阪を上となす」 とある。松阪木綿は当時の木綿の最高級ブランドだった。 人気の理由は、松阪木綿独特の縞柄である。角屋七郎兵衛なる人物が、安南(現在のベトナム)へ行き、現地の縞柄を松阪へ持ち帰ったというが、定かではない。とにかく松阪木綿の江戸進出はめざましく、とくに日本橋周辺の大伝馬町には松阪木綿の店が集結した。 江戸に多きもの、火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞 当時、こういう流行り言葉があったという。 「伊勢屋」 という屋号だからといって、経営者が伊勢者とは限らないが(実際、半数はそうでなかった。「伊勢商人」の名にあやかり、命名したのである)、流行り言葉になるくらい伊勢商人には勢いがあった。そして、その伊勢商人の半数は松阪商人だった。 牛銀から歩いて数分のところに、 「松阪商人の館」 がある。紙と木綿で豪商となった小津清左衛門の旧宅を改修し、公開している。 小津家は、松阪の豪商でも筆頭格に挙げられる。本居宣長ももとは小津姓だったので、つまりは同族ということになる。 小津家は、明治以降も豪商ぶりを発揮し、紡績会社や郵船会社、銀行などを設立した。現在でも小津グループというものが存在しているというから、実にスケールの大きな話である。 ここの案内のお婆さんがまたとても元気な人で、機関銃のように説明しまくるものだから、笑ってしまった。笑ってしまい、説明された内容は忘れてしまった。きっと小津財閥のエネルギーを日々浴びているので、元気になってしまうのだろう。 お婆さんがとくに力を入れて説明したのが、 「万両箱」 の話だった。家の地下から万両箱が出てきたという。中身はすっからかんだったので、 「銀行をつくるときの資金にしたと思います」 とお婆さんはいうが、その類の話は嘘であっても一向に構わない。 松阪商人で忘れてならないのは、三井高利(一六二二〜九四)だろう。 のちの三井財閥の始祖である高利は、松阪商人・三井高俊の四男として生まれた。寛永十二年(一六三五)、十四歳になった彼は、母親から十両分の木綿をもらい、それを売りながら旅費を稼ぎ、当時、江戸で出店していた兄の店に商売見習いに行った。そして、兄の店を手伝いながら、一軒預かった店を兄のそれよりはるかに繁盛させてしまい、十両の元手を百六十六両に殖やして、二十八歳のときに松阪へ帰った。 松阪へ帰ったあとは、結婚して家業を継ぎ、延宝元年(一六七三)には再び江戸へ出て、 「越後屋」 の屋号で呉服屋を開業した。場所は現在の日本銀行新館の辺りで、当初の間口は九尺(約二.七メートル)だった。 開店と同時に、彼は二つのサービス商法を開始した。「店前現銀無掛値」と「小裂何程にても売ります」、つまり店頭販売と切り売りである。 当時、いわゆる大店では、見本を持って得意先をまわるか、品物を直接、得意先に持ち込むのが普通で、支払いは盆と暮れの節季払いというのが習慣となっていた。得意先が裕福な商家や大名、武士といった特権階級に限られていたためだが、これでは金利がかさむ分、商品の価格は高くなる上、資金の回転も悪い。それを高利は、店先で販売する現金売りに改めた。これなら外回りの経費や金利がかからないため、掛け値なしの正札で販売することができた。 この方式があたり、越後屋の客層は大いに広がった。 切り売りも好評だった。当時は反物単位の販売しか行われていなかったため、切り売りは江戸の人々に大いに支持された。 他にも、来客にはお茶を出す、雨が降り出すと貸傘を置くなど、現在でも通用する独創的なサービスを次々と打ち出し、商店文化の先駆者となった。 余談だが、とにかく高利はスケールの大きな人物であり、エネルギッシュだった。彼は妻・かねとの間に十男五女をもうけている。高利、三十二〜五十八歳のことだが、それだけではない。何と七十一歳のとき、脇腹にも十六人目の子を産ませている。恐れ入る話である。 「松阪商人の館」から一〇〇メートルほど歩くと、 「三井家発祥の地」 がある。高利の生まれ育った場所である。今は門の戸が閉められ、その前に柵がこしらえてあって中に入ることはできないが、それを眺めながら、ここから三井家のすべてが始まったのだと思うと胸が躍ってくる。 ちなみに、この三井家と宣長の旧宅があった場所は、実は数十メートルしか離れていない。時代が違うとはいえ、宣長と高利はご近所だった。 |
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