和久の部屋を出ると、中庭が見渡せた。司は天を仰ぐ。欠けた月が見えた。しかし『斎乃』は未だ欠けてはいない。その事を、素直に喜ぶべきなのだろう。
もうすぐ修行が始まる。しかし今日の修行を禁じられた司は、一人部屋へ戻って本でも読む事にした。皐に借りたままの短編集が、まだ未読了のままだ。 司は鞄からそれを取り出すと、ベッドに転がってそれを読む体勢に入った。と、不意に外から声がかけられた。 「司くん。入ってもいい?」 皐の声だった。司は「どうぞ」と声をかけ、身体を起こした。 皐は式服を纏ってはいなかった。どうしたんだろうと思っていると、皐の方から回答があった。 「今日は修行、お休みにしていいって兄さんが言ってた」 兄さんとは一輝の事である。一輝が、気を利かせてくれたんだろうか、と司が思っていると、皐は薄物一枚を纏ったままの姿で、司の寝ているベッドに腰掛けた。 「まずはお勤め、ご苦労様」 戯けているのか真面目なのか、皐は開口一番、そう言った。司は苦笑する。 「皐さん。僕は刑務所に入っていた訳じゃないんですが」 「刑務所に入っていなくても、だよ」 皐はどうやら真面目らしかった。 「法廷に立って、斎乃の名誉を守ってくれた。その事が、純粋に、嬉しい」 「僕はほとんど座っていただけですよ。皐さんこそ、法廷で堂々と発言していたじゃないですか」 皐は微苦笑した。 「ホント、今から思えばよくあんな事出来たなって思うよ。きっと司くんが憑いてたんだね」 「僕はまだ生きてますが」 司は苦笑した。だが、皐の言いたい事は理解できた。司が側で見ていたからこそ、皐はあんなに堂々と、公的な場で発言できたのだろう。もし司が見ていなければ、すくみ上がる事こそ無かっただろうが、あんな堂々としていられたかどうか、疑問が残る。 そして司も。 傍聴席に皐の姿が無くても、斎乃の名誉を守るために、ひいては自分と皐の名誉を守る為に、いざとなれば弁舌で戦っただろう。お互い様だ、と司は思った。 「ねえ司くん」 唐突にまた、皐が口を開いた。 「私達って、依存し合っているのかな?」 「そうかも、しれませんね」 司は応えた。 すると皐の瞳が、真剣味を帯びた。 「もっと上のステージに上がれるかな、私達の関係は?」 その瞳を見据えて、司は答えた。 「僕に言える事は、焦らなくていいと言う事だけです。僕たちはまだ中学生なんですから。結婚できるまで後五年もある。それまでにゆっくり、上のステージを目指せばいい。そう思います」 「別に、焦っている訳じゃないんだけどね……」 皐は俯いて、司の言葉を聞いていた。 「だけど時々不安になるの。私よりもっと魅力的な誰かが、司くんをさらっていってしまうんじゃないかって」 それを聞いて、司はくすり、と笑った。 そして皐の頭を抱き寄せて言った。 「皐さんは自分の魅力に自信がなさ過ぎます。皐さんは一人の女性として見ても十分に魅力的なんですから、そんな心配は無用ですよ」 「本当に?」 「本当ですよ。だから自信を持って下さい」 正直な所、司の方こそ、こんな魅力的な女性を独り占めしていいのだろうか、と悩んでいるくらいだ。尤も、他の男にくれてやるつもりなど、さらさら無かったが。 「結局、贅沢なんでしょうね、僕たちは」 司はそう口を開いた。 「恋愛のあれこれ無しに、お互いの想いを確認し合ってしまったから、きっと物足りなさを感じてるんだと思います。無意識のうちに。だからもっと上のステージを狙ってみたりとか、そんな事を考えてしまうんでしょう」 司は皐の頭を抱え込んだ。 「焦らなくていい。焦らなくても、僕は今の関係で充分、幸せですから」 「うん。私も、今のままでも充分幸せ」 皐は、司の胴に腕を回した。 「だから、今の関係が壊れる事が何よりも怖い。今のままでも充分に幸せ。なら一体上のステージには何が待ってるんだろうって、不安に思うと同時に、期待もしてるの。もっともっと、幸せになれるんじゃないかって」 「皐さんは卓見ですね」 司はそう応じた。 「そう。きっともっと、幸せになれる。だけど、そこに至るまでの道を誤れば、僕たちはきっと、不幸になる」 「……厳しいんだね」 「そう。きっと、厳しい道のりだと思います。だけど、きっと乗り越えられると思います。皐さん。貴女となら」 「えへへ。嬉しい事、言ってくれるね」 皐はぎゅっと、腕に力を込めた。司の身体と、密着する。 「きっと乗り越えていこうね。二人で」 「ええ。ゆっくりと、二人で」 そして二人は、ゆっくりと顔を近づけて、口づけをして別れた。 少し欠けた月が、二人を祝福している様だった。 半月後。 「……という訳で、今回の相手は、鬼だ。司君、覚悟は出来ているかな?」 「ええ、生きる覚悟を」 その言葉を聞いて、一輝は微笑んだ。 「そうか。いい覚悟だ。皐の方は、準備は出来ているか?」 「はい」 「よし。それじゃ、無事を祈っている」 「はい。それでは、行って参ります」 「行ってきます」 一輝に見送られて、司と皐、そして久遠は家を出た。 空には既に、月の姿がある。好条件と言って差し支えないだろう。 結局、あの後遺体も見つからなかった日下仁は、行方不明という扱いになった。 真相は、〈斎乃流〉の者を除けば審議に出た弁護士、それから監査機関から出向してきた者しか知らない。 特異家出人を捜す部署が、仁を探している事だろうが、それは無駄だと知っている者がいる。それともその捜査を打ち切る様、監査機関が圧力をかけているだろうか。 〈日下八光流〉の中に厳重にしまい込まれていた、膨大な鬼に関する文書、そして人を鬼に変える為の研究に関する書物は、全て監査機関の預かりとなった。恐らく、初めからなかった物として封印されるだろう。 普通人が異形狩り師に対して不信の目を向け出したら、大変な事になる。どんな異形狩り師でも狩れない様な鬼が、現出するだろう。 そうならない為に、監査機構はこの手の文書を決して公開しない。存在すらも。良くない事かも知れないが、これは仕方のない事だろう。ささやかな平穏を守る為には、時には嘘も必要なのだ。 司も、その嘘の片棒を担いでいる。 日下仁は、今も、司の中で息づいている。生きている訳ではない。だが、確かに存在しているのだ。 しかし、この事を一般の警察に言っても無駄だろう。司が、逮捕されるのが落ちだ。監査機構はその事に関しては免除してくれた。 司と仁は、生涯を共に生きていけるのだ。例え、使役者と鬼という関係でも。だから司は落ち込まなかった。真っ直ぐ、仁の分まで生きていこうと今は思う。 ともかく、今夜は鬼狩りだ。気を引き締めていこう、と司は思った。 鬼は、大きかった。さぞ大量の陰気から生まれたのだろう。しかしその分、鈍重に見える。 しかし油断は禁物だ。相撲の様に、瞬発力が勝負のタイプかも知れない。この体格で、角を腹に刺されたら、間違いなく、致命傷になる。百舌のはやにえを連想して司は内心、気が滅入った。しかしすぐ、気を取り直す。 結界は既に張られている。皐に害が及ぶ事はない。思う存分、剣が振れると言う事だ。 そして司は剣を抜く。 いつか、剣が思う様に操れなくなるその日まで。 或いは、異形に食われる日まで。 そして或いは、後継者に後を委ねる、その日まで。 司は戦い続ける。皐と共に。 |
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