第1話 始まりの前兆(1)

 大陸の主要都市を縦横に繋ぐ街道の上を、一台の幌(ほろ)馬車が通っている。
 大陸の南端に位置する港町アミラルから、大陸最大級の穀倉地帯であるノーブルを経由して、分断の山脈から南を制するロストール王国の首都を繋ぐ街道である。
 馬車は一頭引き。その馬は上等とは言えないが丈夫さでは文句の付けようがない。その手綱を取るのは、およそ四十路半ばの屈強だが温和そうな男である。
 男の名はフリント。彼の職はその荷を一見すれば瞭然であろう。幌の内部は概ね雑貨や小物類が占めている。つまり、行商を生業としているという証だ。
 その荷物の合間に、二人の少女が収っていた。無論、売り物ではない。彼女たちはフリントの連れであり、有り体に言ってしまえば娘であった。尤も、二人とも彼の実の娘ではないのだが。
 荷物を背にしてうつらうつらと船を漕いでいる、十歳ほどの年格好に見える方の少女はルルアンタ。彼女は陽気な草原の民、リルビーである。

 リルビーは、一見すると人間の子供にしか見えないが、彼らは成人してもそのままの姿な上、行動も言動も子供っぽく、実年齢が掴みづらい。彼らと人間の子供とを見分ける術は、リルビー独特の習慣である付け黒子(ほくろ)と、その体格に不釣り合いな大きさの帽子や靴などで判断する。
 また、彼らは手先が器用で動きが俊敏な事、各種の毒に非常に強い事でも知られているため、人間の世界に溶け込み、吟遊詩人や踊り子、または冒険者として暮らす者も少なくなかった。
 尤も、ルルアンタがフリント達と同行しているのは、単に道が同じだからではなく、彼女もフリントの被保護者であるからだ。これはやや特殊なケースに属する。リルビーが人間と共に旅をするケースは掃いて捨てるほど存在するが、しかしその大半は単なる道連れであるか、共に旅をする仲間という関係であり、言うなれば人間と対等な関係である場合が多い。
 ルルアンタの場合、まだ十歳に満たぬ頃に両親を亡くしてしまい、同じく妻を亡くしたフリント親娘と偶然出会ったのがきっかけで、共に行動するようになったのである。
 以来十年、ルルアンタはフリント親娘の、大事な家族の一員であった。

 そしていま一人。
 荷馬車の中でせっせと刺繍針と糸を動かしている十三歳の少女は、赤子の頃に母子共々フリントに拾われた身であった。
 それと最初に聞いたのは、彼女が養父やルルアンタと共に行商の旅に出るようになって後の事であったが、少女は別段、落胆も動揺もしなかった。感性が鈍いのではない。単に気にする程の事と思えなかった、それだけの事である。
 生みの親は、自分が必要でなかったから捨て、そして必要とされるところに拾われた。だから不条理ではない。それで何も問題はない。そう賢しげに答えた娘に、フリントはやや寂しげな微笑をみせたものであったが……

 彼女の名はルーミス。さして長くも複雑でもない名であったが、親しい者はその名を更に略してルーと呼ぶ。
 淡い栗色の髪は肩口程で揃えられ、陽に透かした琥珀のような澄んだ瞳は切れ長気味ではあるが、その顔(かんばせ)全体から受ける印象は柔らかい。未だ磨かれてはいないが充分に整った容貌は、その均整の取れた肢体と併せ合って、ルーミスの造形的な魅力を際立たせている。そして彼女の瞳に宿る意志の強さと、全身から発せられる生命の輝きが、彼女をより一層魅力的に見せているのは間違いない。
 しかし平凡な少女としては十二分に魅力的ではあっても、決して類い希などといった類の過剰な形容詞を賜る程ではない。また普段の素行も、およそ華美とか風格とかいった単語とは縁がなかった。彼女に一流の品を見出すとすれば、その余計な修飾語が付きそうなくらい丁寧な言葉遣いと、場所や状況を問わない柔らかな挙措くらいの物である。料理や裁縫なども一流であったと言われているが、それらはむしろ庶民に問われる類の技能だ。
 尤も、それが逆に彼女を民衆に近しく感じさせた要因であったのかも知れない。

 ……後に様々な名と逸話とを残す事になる少女の、それが等身大の姿であった。

◆◇◆

 馬車の車輪が大きめの石に乗り上げ、荷台ががたん、と大げさに揺れた。
 針仕事に集中していたルーミスは前につんのめり、どうにか体勢を整えたものの、針を指に突立ててしまう。
「……お父さん、今大事なところなんですから、あんまりガタゴト揺らさないで下さい」
 刺した指に薬を塗りながら、ルーミスはややふて腐れた体で父に抗議したが、フリントとしても、別に彼の意志で荷台を揺らした訳ではないのである。娘の不条理な抗議に対しては「悪かったね」と殊勝に謝ってみせたが、その声は苦笑混じりであった。
「それより、私が任せた刺繍仕事の方は、ちゃんと仕上がったんだろうね?」
 その父の声が、懐疑と言うよりも本気で心配しているように聞こえて、さらにルーミスの癇に障った。
「もうすぐ最後の分が仕上がります! 少しは自分の娘を信用してください!」
 文句を言いながら、ルーミスは縫い終えた糸に止め玉を作り、生地裏で括って糸を断ち切った。仕上がったばかりの刺繍が入った白いテーブルクロスを勢いよく広げ、ルーミスは御者席の父に向かって誇示してみせる。
「ほら、綺麗に仕上がっているでしょう? 今回のはちょっと自信作なんですよ」
 フリントはやや無理をして――なにせ今は馬を御している最中である――荷台を振り返り、娘の自信作とやらを拝見した。二羽のツバメが寄り添うデザインの刺繍柄を一見して目を細める。
「フム。まあ悪くはないね」
 これはフリントとしては最上級の誉め言葉なのである。ルーミスは嬉しそうに微笑みながら、クロスを丁寧に畳んで商売物入れにしまい込む。その様子を見て、彼女の父は内心でやれやれ、と嘆息した。
 そもそも刺繍の仕事は、ルーミスの花嫁修業のために始めさせたものであったのだが、肝心の娘の方は何を勘違いしたか、商売物の付加価値のために針仕事を行っていた。確かにルーミスは器用で、刺繍も充分に商用に足るものであったのだが――
(いつになったら、私の手元を離れて嫁ぐ気になるのやら……)
 実際にそうなった時の自分の反応は充分に予想が付くものの、それでも平凡な父親の心境で、心配せずにはいられないのであった。
 さらにしばし道を行くと『この先、ノーブル』と焼き文字を入れた標識が見えた。フリントは後を振り返って娘に呼びかける。
「そろそろ、ルルを起こしてくれないか」
 父の言葉にルーミスは頷き、ルルアンタの肩を軽く揺する。揺すられた方は愛らしい仕草で目をこすりながら目を開いた。
「んー……なあに?」
 やや寝ぼけた風で、ルルアンタが問う。ルーミスは顔ふきのタオルを彼女に差し出しながら、「もうすぐノーブルに着きますよ」と答えた。
 小さな身体を精一杯伸ばして身体の凝りをほぐすと、ルルアンタは満面の笑顔で、
「それじゃ、今度もお仕事、頑張らないとね!」
 と元気いっぱいに告げた。
 そんな彼女に、フリントもルーミスも共に微笑みながら肯きを返す。
 馬車は間もなく、ノーブルの町へと到着した。

◆◇◆

(随分と、愛想のない町ですね……)
 それがルーミスの、ノーブルの町に対する第一印象だった。
 住人達は、何かに怯えた風にびくびくしているか、でなければ余所者であるルーミス達に対して敵愾心を見せているかのどちらかである。例外は取引先である雑貨商と、宿屋の親父くらいではなかろうか。
 平素なら歳の近い少女と仲良くなったりする事もあるルーミスだったが、この町ではそれを望むべくもなかった。
 嘆息しながら町を見て回るルーミスに、目つきの悪いリルビーがやたら横柄な足取りで近づいてきた。
「やい、そこの娘! お前どこのもんだ!」
 普段は穏健ながら、実は意外と沸点の低いルーミスである。種族や出自で差別も区別もしない彼女だが、このリルビーは出会い頭の言いぐさが癇に障った。無視してやろうかと反射的に考えたのだが、しかし相手の方はこちらを放っておいてはくれなかった。さらに因縁をつけてくる。
「この町で俺様に逆らっていいと思ってるのか? 俺様に逆らうって事は、ボルボラ様に逆らうって事だぞ?」
 ――ボルボラって誰でしたっけ?
 『余所者』である彼女が固有名詞で脅されても、すぐにそれと心当たる訳もない。当然ルーミスがその名を脳裏の図書館から発掘するのに、多少の時間を必要とした。
 しかもようやく探し当てたその人物は、決して親しみや尊敬に値する類の人物の名ではなかった。

 ボルボラとは、このノーブルの代官である。
 ノーブルの町は、ロストールの大貴族であるリューガ家の領地だ。無論、広大な領地を直接統治できる訳もなく、要所に代官が配され、統治する事になる。ボルボラはその一人という訳だ。
 だがこのボルボラ、『悪代官』という一般名詞が毒々しい化粧額付きでこの男を飾っていると言われるほどの評判であった。リューガ家の威を借りてやりたい放題だという噂もある。そんな男が何故代官をやっていられるのか不思議にはなるが、事実としてこの男は代官として三年の間、自己勝手にノーブルの町を支配していた。

 虎の威を借る狐がボルボラならば、その威を借る鼠が眼前にいるリルビーなのだろう。冷ややかな瞳で相手を見つめながら、ルーミスは思った。
 毒舌が喉から舌先まで到達したが、危うく呑み込む事に成功する。自分はこの柄の悪いリルビーと喧嘩をする為にこの町へ来た訳ではない。父の商売のためである。そう自分に言い聞かせて何とか落ち着きを取り戻すと、ルーミスは殊勝にもリルビーの問いに答えてやった。尤も、その声には霜が降りていたが。
「私は行商人フリントの娘です。この町には父の取引でやって来ました。これでよろしいですか?」
 その声を聞いて、リルビーの顔色が一変した。尤も、それはルーミスの予想とは真逆の変化だった。リルビーは明らかに狼狽の色を見せたのである。
「そ、そうか。それならいい。しかしだ! あんまりうろちょろするなよ!」
 それだけ言い捨てると、リルビーは逃げるように去っていってしまった。
「……なんだったんでしょうか?」
 やや呆然とその後ろ姿を見やりながら、ルーはひとりごちた。

◆◇◆

「ルー、私はこれから少し出かけるから、後の事はよろしく頼むよ」
 フリントがそう告げたのは、その日の夕食後の事だった。
「出かけるって……一体どこに出かけるんです?」
 ルーミスの問いに、フリントは少し困った顔をして答えた。
「領主様の館だよ」
「領主……エリエナイ公がここに来ているんですか?」
 ルーミスは少なからず驚いた。予測の外の話だったからである。

 エリエナイ公とはリューガ家の当主、レムオン=リューガの事だ。
 怜悧な貴公子として、また反王家の台頭として名を馳せている。
 現王家の実質的な権力者であるエリス王妃とは政敵として、水面下で冷たい闘争を繰り返しているという。
 その氷のような美貌と明晰な頭脳は、ルーミスのような下々の者までに知られている程の傑出したものだ。
 しかも身辺は清廉潔白。貴族の娘達が騒ぎ立てるのも仕方ない所であろう。

 そういう人物であるから、ルーミスも少しばかり興味を持ったのである。しかしフリントはかぶりを振った。
「エリエナイ公はこの土地にお見えになっていないよ。私が今夜お会いするのは、代官のボルボラ様さ」
「なあんだ、そうですか……」
 ルーミスの興味はあっと言う間に冷めてしまった。
 ボルボラは単に悪代官と言うにとどまらず、その悪相でも知られている。年頃の娘の興をそそらないのも当然と言えた。
 すると今度は、猜疑心が鎌首をもたげてくる。そんな男に、父は会ってどうするつもりなのだろう?
「当然、取引の話だよ。この土地で商売をするための、お目こぼしを貰いにね」
「……なるほど、そういう事ですか」
 渋面でルーは納得した。ありそうな話だ。父ではなく、その父がお目こぼしを貰いに行く相手の方にではあるが。恐らくボルボラは、フリントのような行商人を相手に勝手な関税を取って、それを懐に押し込んでいるのだろう。そう勝手に想像して、ただでさえ冷めていた興が氷点下まで下がっていくのをルーミスは感じていた。好物の茶に砂糖を入れながら、意識は既に別の事に向いている。
 そんな男のところに、父一人で向かわせて良いものなのだろうか。どうせ何の役にも立たぬであろうが、それでも人数がいた方がいいような気がする。一種の示威行為だ。無論武器の類の携帯は許されないだろう。だが、ならばこそ頭数が必要なのではなかろうか、とルーミスは頭の中でぐるぐると考えながら、匙を動かす。
 ……そしてふと意識が周囲に向くと、彼女が心配していた当の父が、苦笑しながらルーミスのカップを指さしているのに気付いた。その指先を視線で追ったルーミスは、自分がしでかした事に息を呑む羽目になる。
 ルーミスの前に置かれているカップの中は、とんでもない事になっていた。白い丘が、レベルティーの中でちょっとした島を形成していたのである。目を二度三度と開閉しても無論現実は変わらない。夢でも冗談でもない事を再確認して、ルーミスは頭を抱えた。
「あああ……また、やってしまいました……」
 羞恥のため、顔が火照っていくのをルーミスは感じていた。頭を抱えたのも赤顔を隠すためである。ただしその試みは全くの失敗に終わっていた。顔に昇ってきた血液は、ルーミスの耳まで赤く染め上げていたのである。尤も、彼女の悪癖は父とルルアンタにとって概知の事であったので、例えルーミスが赤面を隠しきれていたとしても意味はなかったであろうが。
 フリントが苦笑しながら言葉を紡いだ。
「また考え事かい、ルー? 何を気にしているのかは知らないけれど、大丈夫だよ」
 赤く染まった小さな顔を小さな手で隠しながら、その指の間からルーミスは父を軽く睨みつけた。その言葉の内容だけで、彼女が考えていた事などフリントは既に勘付いていたという事が瞭然だったからである。
「お父さん……嘘をつくなら、もう少し上手い嘘にして下さい。逆に傷つきますよ」
 ルーミスがむくれると、慌ててフリントは頭と両手を左右に振った。その意はないと伝えたかったのであろうが、それこそ逆効果であった。しかし、自分の心境を正確に見抜かれていた羞恥や怒りはあるものの、本気で怒る気にはルーミスはなれない。年の功もあるのかもしれないが、自分の悪い癖を指摘されて怒るのは、悪い意味のみで大人げない事である。まだ外面内面共に大人とは言えないルーミスであったが、そのくらいの事は心得ている。今度からはあまり現実から足を離さないようにしよう――もう何度目になるか分からない誓いを、心の中で密かに立てているルーミスであった。
「それじゃあ、留守を頼むよ、二人とも」
 そんなルーミスの心境を、恐らくは察していたであろうフリントは、しかしそれを表さずに話を終えようとした。フリントの意を察したルルアンタは元気よく頷いたのだが、しかし肝心のルーミスは父の意に乗らない。言葉にはしないが、父の身を案じる視線を向けてくるルーミスに、フリントは微笑みかけながら娘の頭を優しく撫でた。
「心配要らないよ、ルー。いくらボルボラ様でも、人を取って食う事まではしないさ」
「ある意味『人を取って食べている』人だと思いますよ、ボルボラという方は」
 口調こそ穏やかだが、ルーミスの言葉は手厳しい。しかもその指摘は正しい物であったから、フリントは思わず苦笑を漏らしてしまった。父の苦笑の意味を正確に察して、ルーミスはさらに食らいつく。
「お父さん、やっぱり私たちも一緒に……」
「来た方がかえって危ないよ」
 娘の言葉を途中で引き取って、フリントはそう断言した。更に畳み掛けるように言葉を続ける。
「そんな強欲な人物の前に、大事な娘達を晒すつもりは私にはないからね」
 ルーミスは反論を飲み込んだ。不本意極まるが、確かに父の言葉は的を射ていた。強欲な男は往々にして好色であると概ね相場は決まっている。無論例外は存在するであろうがボルボラがその例外である可能性は極めて低い。所詮噂と切り捨てても良いのだが、ボルボラはそちら方面での評判も芳しくない。そして、その正否を自身で確認する気にはルーミスはなれなかった。
 降参の意を込めて深々とため息をつくと、ルーミスはおもむろに匙を手にして、『茶入り砂糖』と化したカップの中身を強引にかき回し始めた。だがそんな事で『茶入り砂糖』が『砂糖入り茶』に戻る訳もなく、砂糖は『茶の色をした粘液』となってカップの中で糸を引く。その惨状を見て、ルーミスは深々と、今度は絶望の意を込めたため息をついた。彼女が次に何をするつもりなのか、付き合いの長いフリントやルルアンタにも予測は出来ない。何故か息を呑んでルーミスを見守る二人。そして次の瞬間、彼らは心底から仰天する事になる。
 ルーミスは常人なら絶対に手を付けない『茶入り砂糖』を、思い切りあおったのだ。
「「ル、ルー!」」
 全く同じ言葉が、異なる口から同時に発せられた。当然と言えば当然だが、ルーミスは目を白黒させていた。危険域に達した『甘さ』が原因ではない。粘度の高い糖蜜が、彼女の喉内に絡みついてしまったのである。何度も可愛らしい咳を繰り返すが、その程度で解消される程度の粘度ではない。彼女としては精一杯咳き込んでいるつもりだったが、明らかに力不足だった。
 そんなルーミスの背中をフリントがさすり、ルルアンタは急いで厨房へ水を貰いに駆けていった。「食堂では走らない!」といつものルーミスなら叱っていた所だが、今は当の本人が声を発する事すら出来ない状態である。それ所か呼吸すらおぼつかなくなってきている。危うく意識が消え失せそうになった所で、ルルアンタの水が間に合った。水差しごと持ってきた水を、木製の杯へ大量に注いでルーミスへ手渡す。
 生命の危機に瀕しているというのに、そんな時でもルーミスの挙措は乱暴でも品を失していてもいなかった。筋金入りと言うより、ほとんど本能のレベルである。誰が躾けた訳でもない筈なのだが、とルルアンタだけでなくフリントも、そんな事を考えていた。
 左手を杯の底に添えて、ルーミスは一見優雅に水を飲み干した。しかし、たった一杯の水だけでは糖蜜は流れ落ちてくれない。杯を差し出しながら、ルルアンタに訴える。
「ルル、お水、もう一杯……」
 下さい、と言おうとして、ルーミスはまた咽せ込んだ。慌ててルルアンタが水を注ぐ。一杯目と同じく、ゆっくりと優雅に二杯目を飲み干すと、ようやく落ち着いたという体でルーミスは深く息をついた。その姿を見て、フリントとルルアンタも安堵の息をつく。
「……死ぬかと思いました」
「……私たちも心臓が止まるかと思ったよ」
 ルーミスが慨嘆するのを聞いて、フリントも深くため息をつきながらやり返した。ルルアンタもフリントの言葉に賛同して言葉を紡ぐ。
「本当だよ! 第一、あんなの無理に飲まなくても良いじゃない!」
「だって、ちゃんと飲まないと勿体ないじゃないですか」
 ルーミスの反論に、ルルアンタは軽い目眩を感じた。昔、ルーミスは旅路で料理を失敗した時、その残骸を躊躇うことなく口にした事があった。どうやらルーミスはその時から全く変わっていない様であった。変わらないで良い事は数多くあるが、こういう所は変わっていても良い筈である。しかしルーミスは頑固、或いは頑迷であった。
「第一、今のは私の失敗なんですから、自分でちゃんと片を付けないといけない事です」
 フリントはルーミスの言を聞いて心中で頭を抱えた。確かに『自分でした事は自分で後始末を付ける事』と教えた事はあったが、当然今のルーミスの所行は想定外である。どう育て方を誤ったのかと、本気で思い悩む父であった。
 そんなフリントの心中は察するに余りあるが、ルルアンタとしてはただ彼を慰めている訳にもいかない。より正確に言えば、そんな場合ではなかった。ルルアンタは椅子の上に乗ってルーミスと視線を合わせると、年相応に『お姉さん』らしく説教を始めた。
(全く、ルルがいなかったらどうなっていたか……)
 ルルアンタの可愛らしい説教と、神妙にそれを拝聴しているルーミスを見比べながら、フリントはしみじみと今の状況に感謝していた。無論、信じてもいない神にではなく、実在している竜王にでもない。強いて言えば、亡くした妻であるルーミスの母に、であったろうか。何にせよ、人の巡りとは数奇な物である。
「それじゃあルル、後は任せたよ」
 そう言い置いて、早々にその場を立ち去ろうとするフリントであった。取り繕うまでもない。要するに逃げ出したのである。そんな父をルーミスは慌てて追いかけようとしたのだが、ルルアンタに短衣の裾を掴まれて阻止されてしまった。
「ルー! お話はまだ終わっていません!」
 そう叱られて、ルーミスは小さくなりながら椅子に座り直した。背や力は子供とそう変わらないルルアンタであったが、しかしそれを強引に排除して、我を通そうという考えはルーミスにはない。無論我を通すべきだと思う場面では意地を通す。だが少なくとも今はそうすべき時ではない。そのくらいの分別はルーミスも持ち合わせている。
 素直な割に妙に頑固な所がある娘に、ルルアンタという存在を引き合わせてくれた事に対して改めて誰かに感謝ながら、フリントはその面構えを『仕事』の物へ切り替え、領主の館へ向かったのであった。


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