彼女の2月14日

「――よし、出来た……!」
 2月14日の朝。
 不破美沙斗は台所でひとり、小さくガッツポーズなどをとって呟いた。
 普段の彼女らしからぬ、妙に浮ついた格好ではあったが――それだけ彼女自身、気分が高揚していると言う事なのであろう。
 テーブルの隅でちょっとした小山になっている、焦げたり白い斑点が浮き出た、もとはチョコレートであった食品達も、自分達の犠牲が生かされてよかった、と安堵している事だろう。

 長めの髪を後ろで纏めて結い上げ、制服(当時はまだブレザーが一般化しておらず、学ランとセーラー服が主流であった)にエプロンをかけた姿で、美沙斗はラッピングの包装紙を選別する作業に入った。
 ――その彼女の背後に、突如として現れる人影。
「ほほぅ。旨そうなもの作ってるじゃないか、美沙斗」
 振り向きざまに慌てて身体で隠そうとするが、時既に遅し。テーブルの上のものは、しっかりとその人物に見られていた。

 ちなみに、この無神経な人物の名は不破士郎。彼女の不肖の兄である。
 不真面目で不遜で図々しい。しかも成績優秀でスポーツ万能、容姿も完璧。これで対人能力にも欠けていたら最悪であるが、神もそこまで手を抜かなかったようである。しかし、真面目で礼儀正しい妹と兎角比べられ、『愚兄賢妹』の生きた見本と評されるのが常であった。
 この兄でなければ、いかに浮かれていたとはいえ、美沙斗が背後を許すなど有り得なかったであろう。しかしこの愚兄は、家伝の『御神流』にしても、幼い頃から頭角を現していた。美沙斗自身の直接の師でもある。
 この兄の存在を忘れていた事は、迂闊と言えば迂闊であったが――どの道、今の美沙斗にはそこまで思考する余裕など、皆無であった。

「ふむ、チョコレートか。どれ、おひとつ……」
「や、止めてください兄さん!」
 無造作に魔手を伸ばす兄を、美沙斗は必死の思いで制止する。
 その様をみて、士郎はにやり、と邪悪な――と美沙斗には映った――笑みを浮かべてのたまった。
「そんだけムキになる所を見ると……こいつは本命用ってわけか?」
 全くの図星であった。そのため故に、美沙斗はムキになって否定せざるを得ない。
「ち……違います!そんなのじゃありませんっ!」
 美沙斗の否定を馬耳東風と受け流し、士郎は自明の独白――を装ったからかい――を続ける。
「って事は、こいつはビターチョコだな。静馬の奴、甘い物は苦手だからなぁ」
 『静馬』という固有名詞が出た瞬間、美沙斗の顔は血行過剰の症状に陥った。士郎はそんな彼女を見て、にやりと笑う。
「いやいや……静馬の奴は果報者だなぁ」
「知りませんっ!!」
 士郎の鼓膜に甚大な被害を与えた美沙斗は、手作りのチョコを抱え、台所を飛び出した。そんな妹を見送って、不肖の兄は頭を掻く。
「いかん、少しばかりからかい過ぎたか?意識しすぎなけりゃいいが……」
 無責任で計画性のない兄でも、この男なりに、妹の事を心配してはいるのである。
 しかし、その自省は決して長続きせず、
「……まあいいか。なるようになるさ」
 と証拠もなく勝手に納得して結論付けるあたり、やはり適当な男であった。

◆◇◆

 御神静馬は十六歳、高校一年である。そして不破美沙斗は十四歳、中学二年。私立でエスカレーター式の学校であればともかく、二人が通うのは共に公立校であり、従ってその敷地は当然のごとく離れている。
 その距離が、美沙斗にとってはもどかしかった。

 二年という差は、社会に出てしまえば、どうと言う事もない差であるが、学校――特に、中学から高校、大学に至るまでの年代にとっては、大きな間隙である。
 自分が進学した時には、相手はもう最上級生。次の年には卒業して、上級の学校へと進学してしまっているのである。
 時間的距離と、物理的な距離。二つの強敵に歯がみしながら、それでも美沙斗は真摯で一途であった。

 彼女の想いが通じる――或いは叶う――のは、あと二年ほど先の事であったが、当人達にそれが予見できうるはずもなかったのである。
 それ故、彼女が自分の想いを伝えようと必死になるのも、当然であった。
 そんな彼女を、周囲の者達は――当事者達を除き――好意的に受容していた。
 たとえ、若さ故の未熟から発する純粋さであったとしても――むしろそれ故に、人は微笑を誘われる。
 甘い、とか世間の厳しさを知らぬからだ、という解釈は無論成り立つであろう。また、それを訳知り顔で説教する輩もいるが――そんな文学的野蛮人には、好きなだけ言わせておけば良いだけの事であった。

 さて、この件に関する問題はただひとつ。
 当事者達の、一方は積極性、もう一方は自覚が、乏しい事であった――

◆◇◆

 朝の登校時。
 下足室や廊下、教室など。あちこちで、チョコを手渡す女の子の姿が散見される。
 尤も――朝に手渡されるのは、大抵が既に恋人同士である者ばかりで、これを機に告白しようという気構えの者は、大抵は放課後に渡すものである。
 慣例というよりは、自然発生した習慣ではあるが――放課後という開放的な空気と、黄昏時という一種独特な時間帯が、こういった儀式めいた行為に似合う事は確かであっただろう。
 また、貰う側にしてみても、まだ義理チョコなどという面倒な代物が存在しなかったこの時代、貰えば素直に喜んでいられたのも、後年から見れば羨望の対象であるに違いない。
 まあどちらにしろ、貰えるだけマシ、と考える者がいる事については、今も昔も変わる事はないのであろうが。
 そんな一風変わった朝の風景の中、美沙斗はため息をつきながら歩いていた。

 朝の三時から起き出して、どうにか手作りのチョコを作る事ができたものの――
 その達成感と高揚感が去ってしまうと、冷静さを通り越し、そんな風にはしゃいでいた自分が恥ずかしくなってくるのである。
 それに――静馬は何も言わないが、高校に好きな人がいるかもしれないではないか。いや、それどころか、既に交際している女性がいる事だって、十分に考えられる。少なくとも、美沙斗はそう考えていた。
 ……もう少し冷静になって考えてみれば、そんなはずは無い事など、分かり切っているのであるが。
 静馬にそんな女性が出来れば、万一美沙斗が気付かなくとも、琴江や士郎などの年長組が、気付かないはずがないのである。そうなれば、あの二人――というより士郎一人か――が、騒ぎ立てない事など有り得ない。
 従って、美沙斗が考えているような事など、少なくとも現在においては起こりうるはずもないのだが、高揚感や達成感が冷え切った後の空疎感が、美沙斗の思考を、悪い方へと駆り立てていた。
 故に、周囲のクラスメイト達が、こんな会話を交わしていた事にも、気付く事はなかったのである。

「ねーねー、今日の美沙斗、どしたの?」
「バッカねぇ。決まってるでしょ、今日は何の日よ!?」
「あ、そっか!誰に誰に?……って決まってるかぁ〜」
「あったりまえでしょ。……あ〜あ、ライバルが美沙斗じゃなかったら、あたしも御神センパイ狙ってみるのになあ〜」
「美沙斗が相手じゃ、勝ち目ゼロだよねぇ……」

「あーあ、いいよな御神先輩。不破にチョコ貰えてさあ」
「だよなあ。俺も、御神先輩が相手でなかったら、不破の事――」
「アホか!お前、あの士郎さんに勝てんのかよ?」
「げ……んなの無理に決まってるじゃねーか!」

 ……有象無象の雑音など一切耳に入らず、美沙斗は悶々として、今日の一日を過ごす事になったのであった。

◆◇◆

 放課後。
 終学活(ホームルーム、などという単語は、当時存在しなかった)が終わるや否や、美沙斗は鞄をひっ掴むと、音や光をも舌を巻くような速度で、教室を飛び出した。
 向かうは無論、静馬の通う学校である。
 ――結局の所、静馬がどうであったとしても、美沙斗としては玉砕する以外、方策を見いだせなかったのである。
 頭の中で、様々に言葉を選び、準備しながらも、美沙斗はその俊足でもって駆け抜けていった。

 そして、静馬の通う高校の校門前である。
 ここまで来て怖じ気づく美沙斗ではない――と言いたい所であったが、実のところ、かなり怖じ気づいてしまっていた。
 元来、剣の修練を除けば、あまり社交的とは言えぬ美沙斗である。むしろ、内気という単語の方がしっくり来る。
 そんな彼女が、見知らぬ人間、しかも年長の者が通う学校を前にして怯むのも、無理はなかった。

 ――どうしよう?
 益体もない言葉が、頭の中でぐるぐると回っている。
 要はここで静馬を待っていれば良いだけのはずであるが、それすらをも躊躇ってしまう美沙斗であった。
 なれば、御神の家で待っていれば良さそうなものであるが――それもできない相談であった。理由は簡潔にして明瞭である。そんな事をすれば、士郎あたりに何を言われるか、知れたものではない。
 現状を打開する案もないまま、おろおろと立ちすくむ美沙斗の視界に、不意にある人影が映った。
 その人物を視界に捕らえた瞬間――美沙斗は全速力で、逃げ出した。
「……あれ?今の、美沙斗ちゃんじゃなかったかな……?」
 美沙斗が見つけた人物は――御神静馬が、その人であった。

◆◇◆

「な……何をやっているんだ、私は……」
 美沙斗は電信柱に片手をついて呼吸を整えながら、自問した。

 現実の事象としては、誤解しようもない。美沙斗は静馬を見て、逃げ出したのである。
 尤も、内面としては、外面ほど単純でもなかった。
 勇気を振り絞って、静馬のもとに駆け寄ろうとした自分。
 怖気づいて、隠れてしまおうとした自分。
 そんな背反する想いが、頭の中で混乱した挙句、身体は自動的に動いてしまっていた、という所であろうか。
 ――なんにしろ、美沙斗にとって不本意極まる結果には、違いなかった。

 無力感に囚われる美沙斗の脳裏に、ひとつのフレーズが浮かぶ。
 ――曰く、御神の剣士に、負けはない。
 美沙斗は苦笑した。
 確かに、逃げ回っていれば、勝てもしないが、負けもあるまい。
 だが――逃げ回っている間に、静馬を誰かに持って行かれたとしたら、それはやはり『負け』ではないのか……?

 深々とため息をついた美沙斗は、あまりにも思考の淵に沈みこんでしまっており、故に彼の接近に気づく事は無かった。
「や。美沙斗ちゃんどうしたの、暗い顔して……?」
「ぴ…………!!」
 不意に、声と同時にぽんと肩を叩かれ、美沙斗は意味不明の悲鳴をあげながら、振り返った。
 そこには――どうやって追ってきたものか。静馬の姿があったのだった。

◆◇◆

「し……静馬さん!?どうしてここに……」
 どうしてもへったくれもない。ここは天下の往来である。静馬どころか、万人が通っても、なんの疑問もないはずである――無論、美沙斗が問題にしているのは、そう言う事ではないが。
 答える静馬の方も、不明瞭であった。
「うん、いや……まあ、ね」
 などと言いながら、頬などを掻いている。……全く会話になっていなかった。

 音を運ぶ天使が五キロほど距離を稼いだ頃、ようやく静馬が会話の矛先を見出した。
「美沙斗ちゃん、それは……?」
 それ、とは無論、美沙斗が後生大事に抱えている、チョコレートの包みである。
 美沙斗は、あたふたと包みを後ろに隠そうとし――渡そうとしている相手に、無益な事をすると気づいて、前に抱えなおした。それでも、肝心の言葉が出てこない。
「あの……その……」
 意味不明な言葉を繰り返すのが、やっとである。そんな美沙斗に、静馬が声をかけた。
「ひょっとして……それ、チョコレート?」
 その言葉で、美沙斗は茹で蛸のようになってしまう。朴念仁の静馬でも、バレンタインくらいは知っていたらしい。
 その勢いで、静馬にチョコを渡してしまおう、と勢い込んだ美沙斗の気勢を、当の静馬が削いでしまった。
「誰かに渡すつもりだったのかな?だとしたら、悪い事したかな……?」
 ここで、渡したいのは貴方です、と言える美沙斗なれば、苦労はない。深い淵に沈みこんでしまう美沙斗である。
 そんな彼女を見て、静馬がやや慌てた風体で言を継いだ。
「ゴ、ゴメン。ひょっとして……渡せなかった、とか……?」
 ――渡せないかも、しれません。
 美沙斗は、そう心中で呟き、さらに沈みこんでしまう。
 一方、完全に弱ってしまった静馬は、苦し紛れか否か、こんな事をのたまった。
「じゃ……そのチョコ、俺が貰っても、いいかな……?」

「…………え?」
 単に美沙斗を元気付けようとしたのか、最初からそれを言いたかったのか判別し難いが、その言が美沙斗を窮状から救ったのは、事実であった。
「は……はい!ではこれ……どうぞ……!!」
 一呼吸で叫びつつ、勢いで静馬にチョコの包みを押し付ける。そして美沙斗はそのまま走り去る――茹で蛸のように赤い顔を隠すように。

 そして、取り残された静馬は、というと。
 押し付けられた包みをしげしげと眺め、それを夕日に透かしたりなどと無駄な動作をしばし行った後――頬を掻きながら、大事そうに包みを鞄の中に潜ませた。
 その顔は――何となしに、嬉しそうであった――

◆◇◆

 その晩、床についた美沙斗は、夕時の事を反芻していた。
 静馬があのような事を言った深意については、見当もつかないが――少なくとも、美沙斗の事を気遣ってくれたのは、確かであった。
 その事は素直に嬉しいと思うが……一方で、自分の不甲斐なさが情けなくも思える。
 第一、あの状況では、静馬が『他人に渡す物の後始末を任された』と解釈しても、仕方のない所である。
「はぁ……」
 ため息をつきながら、美沙斗は寝返りをうった。この事を考えると、どんどん鬱々としてくる。美沙斗は、せめて別の事を考えようと努めた。――それでも、やはり浮かんでくるのは、せいぜいがチョコレートの出来具合であったが。
 ――チョコレート自体の出来は、自分としては上出来の部類に入るはずだった。包装も、出来るだけ静馬の好みに合わせたつもりである。そして、その中にいれたカードは――
「カード……?」
 美沙斗は訝しげた。もう一度、今朝の自分の行動を辿ってみる。
 士郎に見つかった後、結局部屋でチョコを梱包した。
 小奇麗な箱に一口サイズのチョコを一ダース並べ、蓋をした。そして包装紙で包んでリボンをかけ――
「あぁ…………」
 そのリボンに、裏向きにしたメッセージカードを手挟んでいたはずだ。無論、落下しないように厳重に。
 つまり――美沙斗がチョコを渡したい相手が静馬であった事は、明々白々である、という事である。
「あうぅぅ…………」
 なにやらうめきながら、顔を真っ赤にして美沙斗は布団の中を転げまわった。恥ずかしいやら何やらで、じっとしていられなかったのである。

 ちなみに、メッセージはたった一言。
 『静馬さんへ』
 ……それだけである。尤も、美沙斗にとってはそれだけでも、大事業には違いなかったのだが。

 美沙斗は布団の中で枕を抱きしめ、転がりまわって一夜を過ごしたのであった――


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