Blue Eyes

 ある冬の夜。
 耕介が二階に上がると、ベランダに人影が見えた。
 シンデレラがお城から逃げ出すまで、あと二時間程度という刻である。こんな時間まで起きているのは、例外を除けばこの寮では二人しかいない。薫の保護者兼パートナーである十六夜か――
「……真雪さん、今日も星見で晩酌ですか?」
 漫画家である、仁村真雪であった。

「……ああ、耕介かい。あんたもどう、一杯?」
 真雪は耕介の方を振り向くと、スコッチウィスキーのボトルを振って見せた。その中身は既に、三分の一ほど減っている。耕介はそれについては言及せず、
「いただきましょう」
 それだけを告げ、真雪の隣に立った。
「グラス、一個しかないけど、いいよな?」
 真雪の問いに、耕介は肩をすくめて答えた。
「真雪さんがいいなら、俺は構いませんよ。間接キスになっちゃいますけど」
「……ばか。あたしがそんな、中坊みたいなこと気にするわけねーだろ」
 そう言いつつ顔を赤らめる真雪に、つい耕介の頬がゆるむ。真雪は半眼の上目遣いで睨み付けると、耕介の腹に軽くボディブローを打ち込んだ。
「いきなり何するんすか、あんた……」
「うるせえ、恥ずかしい事真顔で言ってるからだ」
 耕介の抗議を理不尽な理由で一蹴すると、真雪は新たな一杯をグラスに注ぐ。琥珀色の液体から酒精の芳香がたち、耕介の鼻孔で弾けた。
「おお、こいつはまた……いい香りさせてますね」
 グラスに顔を近づけて芳香を楽しむ耕介に、真雪は得意げになる。
「そーだろ。こないだゆうひに送ってもらった奴だ。本場もんだぞ」

 スコッチウィスキーは、スコットランドの産である。水の質がよい土地では、必然的に旨い酒ができる。逆に言えば、銘酒の産地では水が旨いと言う事でもある。
「ゆうひがイギリスに行くって聞いた時は、水の事とか心配だったんですけどね」
「水が悪いのは、イングランドの方だからな」
 ブリテン島はあの狭い土地面積の南北で、水質が随分と違う。
 北のスコットランド地方では水質が良く、南のイングランド地方では水は生では飲めない。これは工業地帯がイングランドに集中しているというよりは、むしろ地形の問題であった。
 別にイングランド地方が悪いと言う事はないが――イングランドにもスコットランドに負けぬ程の見所が数多くある――やはり、水の良いところである方が安心できるのは、水には恵まれた日本人であるからだろう。
「ま、今度あいつが帰ってきたら、好物でもつくってやんな」
「そうします」
 話せば長くなるであろう、賑やかなうたうたいの話題は、そこで一度お開きとなった。

◆◇◆

「……で、真雪さんはなんで、こんな寒空の下で黄昏れてるんですか?」
「……誰が黄昏れてるって?」
「俺の目の前のひと」
 真雪はじろり、と隣にいる大男を睨み付けてやったが、相手は一向に答えた風はなく、抗戦不利を悟った彼女は、小さく息をついてそっぽを向いた。
 しばしの間、二人を静寂が包み込む。そうして光の天使が地球を数百ほど周回した後、根負けしたのは真雪の方であった。
「別に黄昏れてるって訳じゃないさ。……ただちょっとだけ、考え事を、ね」
 そう言うのを黄昏れている、と言うのではないだろうか?などと野暮な事は口にせず、耕介は、
「そうですか」
 それだけを言って、沈黙した。
 しかし真雪にとって、耕介のその反応はやや意外であった。思わず反駁してしまう。
「……聞かないの?」
「真雪さんが話したいなら、いつでも聞きますよ」
  耕介はそう告げると優しい微笑を浮かべ、真雪の頭に平手を乗せた。
「……そう」
 真雪はそれだけを返すと、グラスを脇に置き、ベランダの手摺に両手をかけて、その上にあごを乗せた。耕介の大きくて温かな手は、まだ頭に乗せたままである。
 再び、沈黙が彼らを覆った。しかし、今度の沈黙はさほど長命を保つ事は出来なかった。
 今度、沈黙の砦を陥落させたのは、耕介の方である。
「真雪さん、知佳のくれたピアス、ちゃんとつけてるんですね」
「ああ……まあ、ね……」
 真雪の耳には、真新しいピアスが光っていた。これは、知佳が真雪の反対を押し切って始めたアルバイトの初給で、真雪にプレゼントした代物である。
 大して高価なものではない。だが、それに込められた想いは、万金の価値があった。
 しかし――それは別の側面から見れば、知佳が真雪から離れていく証とも言えた。

 真雪と知佳の関係は、一言で言えば、保護者と被保護者の関係である。それも、かなりの過保護であったろう――端で見れば。
 実際には、どうだったであろうか……?
 本当は、自分の方こそが、知佳を必要としていたのかもしれない。知佳を――文字通りあらゆるものから――守るという事。それが今までの自分の、レーゾンデートルであったような気がする。
 そして、知佳が自分を必要としなくなった時、自分は果たして、どこにいるのか――不安は、不思議とない。だが、さしあたっての答えも、真雪の手元には存在しなかった。
 今は、隣に耕介がいる。だが、彼に寄りかかってしまう事などできない。
 自分がそんなに『弱い』人間だと思いたくないという事もある。だがそれ以上に、他人に自分の運命を委ねそこに安住する事に対し、嫌悪に近い感情を抱いていた。
 真雪は親元を離れて以来、ずっと自分の足で歩いてきた。矜持というべきであったろうが、無理をしていたという側面も、否定できぬ事実であっただろう。

「あたしの周りは、いつも時間の流れが早いから……」
 いつかも言った言葉を、真雪は繰り返した。そして耕介は、唐突にも思えるその言葉に口を挟む事はしなかった。
「みんなどんどん大人になっていって、あたしはなんだか取り残されて。別に寂しいとか、そんなんじゃないけどさ。なんか、そうなんだなあ、なんて思ったりするんだ……」
 さざなみ寮で暮らす人々は――極少数の面子を除き――早くて中学生から、遅くて大学生までの年代までである。
 その年代の頃ほど、ひとりの人間が大きく変わっていく時代はないであろう。元より時は玉のごとき貴重な物であるが、青春と呼ばれる時を生きる者にとって、時はさらに凝縮され、その輝きはいや増す事となる。

 知佳も友人と、泊まりで遊びに出かけるようになった。
 愛ももうすぐ学校を卒業し、地元の動物病院に勤めるようになるであろう。そしてほどなく、自分の病院を持つようになるはずだ。
 ゆうひは既に世界に羽を広げ、少しづつ飛び立とうとしている。
 薫も、みなみも、リスティも、いずれはこのさざなみ寮を巣立ち、自分の道を踏み出す事になるはずだった。
 そんな中、先にひとり背伸びして『おとな』になってしまった真雪が、そんな周囲の『時』を見て感慨に浸るのも、ある意味では仕方ないとも言えた。

◆◇◆

 だが――と、耕介は思う。
「変わっていくものもいっぱいありますけど……そんな中にも、変わらないものっていうのも、いっぱいありますよ」

 例えば、真雪と知佳が姉妹である、という事。耕介と愛が従姉弟だという事。薫に優れた霊能力が備わっていたという事。知佳に『能力』と『病気』が備わっていた事――
 そんな神様が適当に投げつけたダーツの矢のような、偶然が引き起こした必然は、人力で変えうるはずがない。
 その様な例でなくとも――耕介と知佳の『兄妹』の契り。真雪の漫画に対する熱意と姿勢。薫と十六夜の繋がり。ゆうひの、うたに対する想い。みなみのバスケに賭ける情熱。美緒の、猫たちに対する信頼関係。リスティの、哀しい記憶から起こる正当な怒りとひとつの意志。
 そして――知佳の、己が身をしばしば忘れうるほどの優しさや、そんな知佳に対する真雪の不器用な優しさ。
 そんな『大事な想いの欠片』は、余程の事がない限り、変わる事はないだろう。
 知佳が『知佳』であったから、或いは真雪が『真雪』であったから、今の『真雪と知佳』があり、これからの彼女らがあるのだ。
 今までの事で悩むのは良い。反省すべきは反省すれば良い。だが、二人が過去を見て後悔するような事は、絶対にして欲しくはなかった。
 仮に、知佳が自分の『正体』が知られる事を恐れ、あえて人を見殺しに出来うるような者であったとすれば、真雪は果たして知佳に対して、ここまで過保護になれただろうか?
 答えは、否であろう。
 お互いが相手の美点欠点を認め合い、それをお互いで補完しあう事で、二人はお互いをたいせつな存在として、尊重しあう事ができるようになったのだから。
 『宿命』とは『命(めい)を宿す』、つまりは己で背負うものである。他人に負わされるものでは、ない。

 耕介がそんな事を告げると、真雪は
「……あんたってさ、時々恥ずかしい台詞を平気で言うよね」
 などと誤魔化し、そっぽを向いた。
「そーすか?」
 きょとん、として真雪を見る耕介の表情が可笑しくて、真雪はつい笑ってしまった。耕介の手が、頭から外れてしまったが、これはもう仕方がない。
「そこ、笑うとこじゃないと思うんですけど?」
 やや憮然として耕介は抗議するが、真雪の笑いはしばらく収まらなかった。

◆◇◆

「そーだな、変わんないものも、たまにはあるよな」
 真雪は耕介の方を振り向いた。
「たぶん、耕介は一生そのままだ。ずーっと、そのまんま」
「誉められてる、と解釈したいとこですね……無理にでも」
「馬鹿。誉めてるんだよ」
 口調は冗句であったが、それは真雪の真情であった。
「あんたはきっと、ずーっと耕介のまま。世話焼きでお節介で、鈍感な癖に時々妙な時だけ鋭くて――」
「……百歩ほど譲っても、貶されてるようにしか聞こえないんですが……」
「じゃあ一万歩譲れ」
 耕介の抗議を、意味不明な言で両断する真雪であった。しかし耕介は苦笑しながらも、真雪の言が正しい事を認めた。
「まあ確かに、俺はこれからもずっと、ここで管理人やってるでしょうね。ほんの二年足らず前には、想像もできませんでしたけど……今じゃ、ここで管理人やってる以外の自分の姿なんて、やっぱり想像つかないですよ」

 勿体ない話だ、と真雪は思わなくもない。
 耕介の腕は、身内のひいき目を抜きにしても、そんじょの料理人など歯も立たぬであろうほどである。機会さえあれば、一流レストランやホテルからの勧誘があっても不思議ではない。
 だが同時に、そんなしゃちほこばった場所は、この大男の柄でもないような気もするのである。清潔な調理場で、激を飛ばして部下を指導するような耕介も、悪くはないとは思うが……やはりこの男には、平凡な日常を陰日向となって守り続けるような、ここの管理人のような仕事こそが、似合っている気がした。
 ――尤も、その見解には、公平な予測よりも、願望の成分の方がより強かっただろう。その事を、真雪自身がよく知っていた。
 だから、耕介の今の言葉は、正直嬉しかったのだ。さりとて、それを正直に表せる真雪でもなかったが……

 耕介の言葉は、まだ続いていた。
「それに俺は、これからもずっとここで管理人をやっていきたいです。みんなの帰ってくる場所を守る仕事――って言ったら、格好つけすぎですけどね。やってみて気がついたんですが、俺、こういう仕事が好きみたいです。だから……多分俺は、ずっと変わらないと思います。……尤も」
 耕介は苦笑しながら、冗談で紛らわせようとした。
「その前に俺がなんかやらかして、愛さんから免職(くび)にされるかもしれませんけどね」
「大丈夫だ、そんな心配は、ない」
 妙に断言する真雪に、耕介は不審気な表情を作った。凄味の効いた笑みを浮かべ、真雪は保証した。
「耕介がなんかやらかしたら、あたしが手打ちにしてやっから。だから、免職になる心配は無用だよ」
「……そいつはどうも、ありがとうございます」
 ジョークとしても本気としても、笑いかねる言であった。力無く笑う耕介に、真雪は笑った。
 そしてその笑顔のままで、
「あたしも、簡単にゃ変わってやらねーからな!一生、迷惑かけ続けてやっから、覚悟しろよ!」
 端から聞けば、悪魔の宣告に等しくあっただろうが、耕介はむしろ嬉しかった。だが、口に出しては、こう言うのみにとどまる。
「それなら、一生退屈だけはしないで済みそうですね」
 と。



 透明な涼気の中、空気すらも透明に透き通るようなこんな夜は、世界のなかで自分たちだけが取り残されたように思える。
 だけど――それでもきっと、笑って暮らしていける。

 変わっていくもの、変わらないもの。それらを全部、胸に抱いて。
 どんなに離れていても、繋いだ手は、きっと離れる事はないから。


よろしければ感想をお願いします。

『作品タイトル』『評価(ラジオボタン)』の入力だけで
送信可能なメールフォームです。
勿論、匿名での投稿が可能になっております。
モチベーション維持の為にも、評価のみ送信で構いませんので、
ご協力頂けると有り難いです。

メールフォームへ移動する前に、お手数ですが
『作品タイトルのコピー』をお願い致します。

ここをクリックすると、メールフォームへ移動します。


目次へ