ある初夏の頃。
恭也は縁側で座禅を組んでいた。
――否。そのように見えるだけである。
実際を言えば、ただ無為のままに、ぼんやりと座っているだけであった。
希有な事であっただろう――以前までは。
しかし、美由希が皆伝を受けてからの恭也は、こうして独り、無為な時間を過ごす事が多くなっていた。
――自分の役目は、終わった。
その想いが、今の恭也にある。
美由希を一人前の剣士に仕上げるという、亡き父との誓い。
その目標が為された今、自分の新たな道を見いだす事が出来なかったのである。
右膝の怪我。これが、恭也の剣士としての大成を阻んでいた。
――否。
例えこの怪我がなくとも、自分は御神の剣士として大成する事はあるまい。恭也は自分をそう評価していた。
そして、他に評価をするものの無いまま、ここへ辿り着いてしまった。
故に、恭也はこうして無為の時を、無為のまま過ごしているという次第であった。
そんな恭也の背後に、人影がひとつ。
「……恭也くん」
美由希の実母、御神美沙斗であった。
「……御神の剣士が、簡単に背後を許してどうするんだい……?」
「……すいません」
美由希に聞いたのであろう、以前美由希をからかった時に使った台詞に、恭也は苦笑未満の表情を浮かべた。
そんな恭也を見やりながら彼の隣に腰を下ろすと、美沙斗はいきなり本題を切り出した。
「美由希に、聞いたよ……最近、練習に身が入っていない、とね……」
「……すいません」
恭也はもう一度、謝罪の言葉を口にした。
――そのまま暫くの時が過ぎる。沈黙を押し開いたのは、美沙斗の方であった。
「何も話しては、くれないのかい……?」
「…………」
黙したままの恭也に、美沙斗はやや戯けた風体で、
「……殺しあいまで、した仲だろう?」
その言葉にも、恭也は
「……すいません」
と継ぐだけであった。
――実のところ美沙斗には、恭也の悩みは想像の内であった。
生真面目で融通の利かぬ恭也のことである。剣以外の事にはろくに興味を持てないであろう。それだけの精神的余裕が、今までの恭也にはなかったのだ。故に美由希の皆伝以降、彼が己の道を見失ってしまうであろう事を予想するのは、美沙斗にとってそう困難ではなかった。
しかし、恭也の内には、確かに『剣士の誇り』が存在している。美沙斗は、そこに賭ける腹積もりであった。
美沙斗は立ち上がると、恭也に告げた。
「……明日、私がお借りしている部屋においで。君に、見せたいものがあるんだ……」
「……見せたいもの?」
訝しげる恭也に頷いてみせると、美沙斗は『準備』のためにその場を立った。
――次の日、美沙斗の言葉どおりに、恭也は美沙斗が使用している部屋を訪ねた。
「……ああ、来たね……」
そう言った美沙斗の手には、小さな方形の箱があった。
「……その箱は?」
恭也の問いに、美沙斗は、
「すぐに、解るよ……」
そう謎めいた事を口にして立ち上がると、恭也についてくるように促し、先に発った。
大人しく従う以外の手は、恭也には無かった。
――ついた先は、いつもの八束神社であった。
美沙斗は境内に腰を下ろすと、手にした箱を開け、恭也に中をみせた。
箱の中では――蚤が一匹、ぴょんぴょんと跳ねている。
その蚤を指して、美沙斗は言った。
「これが――今の恭也くんだ」
眉をひそめる恭也に構わず、美沙斗は境内でたむろっている野良猫を一匹抱き上げ、すぐに放す。そうして恭也のところに戻ってくると、手につまんだものを見せた。
それは、さっきと同じ、蚤だった。
さらに訝しがる恭也にまたしても構わず、美沙斗は、
「そして……これが、美由希」
そう言って、手につまんだ蚤を放した。
「……二匹の蚤を、比べてごらん」
言われるまでもなく、恭也は二匹の蚤を比べていた。
そして――暗い気分に囚われた。
二匹の蚤は、跳躍する高さが全く違う。そして、その高さは――『美由希』の蚤の方が、高いのであった。
「これは――美由希と俺の、才能の差、という事ですか……?」
なるべく感情を出さないように努めたが、負の念がこもっていなかったとは言えないであろう。しかし美沙斗は涼しい顔で、
「……さて、どうだろうね……?」
そうさらりとのたまうと、美沙斗は二匹の蚤をあっさりと捕らまえ、二匹を箱の中に入れると、その箱を恭也に押し付けた。
「……この箱を、君に預ける」
美沙斗は、有無を言わさぬ口調で宣告した。
「この二匹の蚤を見て、もう一度考えるんだ。今日の晩、箱を開けてみるといいよ……」
「今晩、ですか……?」
恭也の問いに、美沙斗は首肯した。
「……そう。夜になるまで、開けては、いけないよ……?」
そう告げると、美沙斗はさっさと石段を下りていってしまった。
仕方なく、恭也も家に戻ることと相成った。
その晩、恭也は胡座をかき、腕を組んで眼下の箱を睨み付けていた。
――この箱に、一体なにがあるというのか。
この箱の中には、例の蚤が二匹入っているだけである。訝しげながら、恭也は箱を開けた。
当然ながら飛び出してくる、二匹の蚤。恭也は熱のない瞳で、その蚤を見やり――ある事に気付き、瞠目した。
――どちらが、『美由希』だった……!?
昼間見た時は、二匹の蚤は明らかに跳ねる高さが違っていた。
なのに――今、二匹の蚤は、全く同じ高さで跳ねている。
しばらく呆然として眼下の光景を見やっていた恭也であったが、片側の蚤が箱の脇を跳ねるのを見て、気付いた。
――蚤の跳ねる高さは即ち、箱の高さと同じなのである。
「……どういう、事だ……?」
胡乱に独語したその言葉に、答える声があった。
「本当は、もう答えが解っているのだろう、恭也くん……?」
神出鬼没の美沙斗であった。
「……最初はどちらの蚤も、箱の高さより高く跳ぼうと、あがいていたのさ……」
美沙斗は箱を拾い上げ、言を紡いだ。
「だが……箱より高く跳べぬと悟った蚤は、高く跳ぶ事を諦めてしまった。そして……」
美沙斗は足下の蚤を見やる。
「……箱から出ても、高く跳ぼうと思う事すら、できなくなるのさ……」
恭也は無言で、その言を聞いていた。
「……人は自分で、自分に『蓋』をしてしまうけれど……高く跳ぼうと思えば、今よりもっと、高く跳べるさ……それに」
美沙斗の視線が、恭也の瞳を捉える。
「例え、君が跳べなくなっても……君の想いを受け継ぐものが、君の姿を見ている。君が跳ぼうとしている姿を見て、自分もより高くを目指すのさ……
――そうやって、想いの火は松明となって、次の世代へと受け継がれていくのだから……」
恭也は美沙斗の視線から瞳を逸らし、問いかけた。尤も、それは美沙斗に問いかけたのか否か、不明分であったが――
「……美由希は、俺の意志を……受け継いでくれたのでしょうか……?」
「……さて、どうかな?……少なくとも、今の恭也くんの事は、しっかり見ていると思うけれどね……」
恭也は赤面した。
「第一……君もまだ若いんだ。まだこれから、いくらでも伸びるさ……その意志があれば、だけれどね……」
美沙斗はさらに言を継ぐ。
「『才』というのは……結局は『差違』でしかないのさ。誰しも何かしらの『差違』があり……それはその者の『才』となる……
……君と美由希の『差違』は……似ているようで、やはり違うものだからね……」
同じ道を歩む者でも、決して『全く同じ』道では有り得ない。
自分の道とは、結局は己が選ばざるを得ないのだ。
それが厭なれば――死を選ぶより、他はない。
人の生きる道は前にしかなく、後ろに向かって生きる事はできないのだから――
次の日の早朝、道場にて――
ベキイッ、と荒々しい音が響いて、美由希が受けに入れた木刀が、綺麗に折れた。
同時に、恭也の木刀が、美由希の喉元に入る。
「――参りました」
美由希は降参すると、折れた木刀を拾いにかかった。
「……丁度良い。少し休憩にする」
「はぁい」
恭也の言葉に素直に返事を返すと、破片を片づけ、美由希はぺたり、と座り込んだ。
その視線がやけに嬉しそうで、恭也は訝しげた。
「……どうした?」
その問いに、美由希はやはり嬉しげな声で答えた。
「今日の恭ちゃん、すごく調子良さそうだから」
「……そうか?」
韜晦した恭也に、美由希は優しい声で問う。
「……迷いは、晴れた?」
「……どうかな……?」
答えた恭也の答えは、真情であった。
迷いは、まだ晴れない。
――否。
これからも、一生晴れる事など、有り得ないであろう。
しかし、自分で決めた道なれば、迷い、手探りながらでも、前に進むと決めた。
先達から受け取った想いの松明は、今自分たちの手の中にある。
そして、その火を貴重に思うなれば、その火を絶やさず、次代へ受け継ぐ事も出来うるはずであった。
いつか、箱の蓋を突き破る者が現れると信じて――
「……美由希。そろそろ、ラスト一本、いくぞ」
「はいっ!」
初夏の太陽が、朝の高町家を明るく照らそうとしている。
今日は、暑くなりそうであった――
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