Hexagram

 氷村遊が気付いた時、そこは深夜の森の中であった。

 絶対にあり得ぬと考えていた『たかが人間』への敗北、そして血族である少女に自分の場所も立場も排され、彼は独り、姿を変その場から去った記憶は、確かにあった。それは忘れ得ぬ屈辱であったから。
 しかし、このような深い森のある土地にまで飛び立った――逃げ出した、とは例え事実であっても、彼は認める訳にはいかなかった――とは思えぬ。一体、ここはどこであるのか。遊には皆目、見当もつかなかった。

 あてなどある訳もないが、遊は緩い傾斜を登る方向に足を進めた。傾斜がある、ということは、ここは山中なのだろうか。そう考えつつ、足を動かしていた彼の目に、やがて一件の庵が映った。何しろ夜の森の中である。普通の人間であれば見逃していたであろう事は間違いないほど、それはささやかな建造物であった。
 己に流れる『血』に対する傷つけられた誇りが、ささやかな慰めを得て、遊はわずかなりとも自尊を回復する事ができた。尤も、それが前向きな人生を保証するかどうかという事については、また別の問題であったが。
 ともあれ、まだ夜の山中、着衣のみで過ごすのには寒すぎる季節である。遊はその庵に向かって歩を進めたのであった。

 扉に鍵はかかっていなかった。
 躊躇うことなく庵の中に入ると、中は想像していたよりも清潔で、整頓されている事に気付いた。正面には古ぼけたテーブルと二脚の椅子があるが、埃の類など全く見あたらない。つまり、誰かが住んでいるか、少なくともここで頻繁に起居している事になる。
 そうすると自動的に遊は不法侵入者、という事になるのであるが、彼は全く頓着しなかった。むしろ、人がいた方が好都合だ、とすら考えていた。人がいれば、この場所の情報を得る事ができるし、第一、人が頻繁に起居する場所であれば、食料の備蓄があるはずだからである。果たして、食料はあった。
 遊はその食料を食べる事に、なんら呵責を覚えなかった。後日、住人が抗議の行動を起こしたなれば、複数の手段で服従させる自信があったからだ。正確には、その自信が回復していた、というべきであろうか。ともあれ、パンとチーズで軽い食事を済ませると、遊は寝台を探して隣の部屋に入り、そして横になった。

 ――不法侵入、か。遊は皮肉っぽい笑みを浮かべて、現在の境遇を思いやった。
 不法侵入という言うなれば、人間どもにとっては、自分はまさしくそういう存在であろう。自分たちの社会に割り込んでくる、異分子だ、と。
 ――人間どもの思惑など知ったことか、と遊は毒づいた。
 世界は、元々人間などのものではない。勝手に、人間がそう考えているだけである。
 そんな奴らが自分を敵だ、と認識するのなら、自分にとっても人間は敵だ。自分は逆に奴らをうち倒すまでだ。自分と奴らは、天を共に戴(いだ)かぬ、敵だ。
 そんな奴らと共生しようなどと考える同族がいるなど、信じられない。
 奴らは、敵だ。そして、獲物だ。単なる。
 そして遊は眠りについた。

◆◇◆

 翌日。窓から差し込む陽の光で目覚めた遊は、寝台から降りて食卓のある居間へと向かった。顔を洗った後、昨晩と同様、食料庫からパンとチーズ、そして牛乳とジャガイモ他数種の野菜でスープを作り、朝食をとり始めた。
 遊がスープを半分程たいらげた時である。遊が昨夜使った部屋とは対面にある扉が不意に開き、中から老人が現れた。
 しかし遊は、その老人に一瞥をくれただけで朝食を再開した。相当に礼儀を欠いた態度であったが、老人の行動はさらに常軌を逸していた。
 老人は一片の感情をみせずにテーブルにつくと、遊の眼前にある食べかけの食事に手を伸ばし、おもむろに食し始めたのである。それはあたかも、テーブルで食事をしている者など存在せず、その食事は自分のために用意されたかのような態度であった。
「――おい」
 老人の態度に不快感を刺激された遊は、自分の度重なる非礼は棚に上げ、気圧の低い声を出した。しかし老人は完全に彼を無視していた。
 ――否。まるで、老人の他には、誰も存在していない。そういう態度であった。
 無視しているか、存在に気付いていないか、ということは、当人を目の前にしてそれを判断することは困難な事である。しかし、遊は気付いた。手段も論理的結論でもない。それは直感に極めて近いものであったが、彼はその判断が正しい事を確信していた。
 この老人は、自分の存在に、気付いていない、と。

 今少し冷静になって考えたなれば、驚くべき事ではあるかも知れぬが、それほど異常な事態でもなかったであろう。相手は老齢の人物である。外界認識能力が極度に低下していたとしても、不思議はないのだ。しかし遊は、そこまで思考を働かせることができなかった。その余裕を、完全に欠いていたのである。老人の挙措に驚き、不快に感じた時点で、老人のペースに呑まれた、という事も一理であったが、しかしそれは細事でもあった。
 この時、遊は、まぎれも無く、恐れたのである。
 周囲は人気どころか生物の気配も感じられぬ異様な森。
 そして唯一の人間である老人は、自分がまるでいないかのように振舞う。
 ――果たして、この場所は、自分が知りうる『場所』なのであろうか?
 そういう、異次元的な恐怖に、ほんのわずかな時間とはいえ彼は囚われ、遊は確かに、この小さな『世界』に、深刻な恐怖を感じた。しかしその恐怖は深刻であるが故に巨大であり、巨大であるが故にかえって遊のプライドに抵触したのである。
 遊は、怒った。恐怖を与えたこの『世界』に、そして何より、恐怖を感じてしまった、自分自身に。そして怒りの赴くまま、遊は力を振るった。大きく力強く打ち振るった右手から雷球がほとばしり、老人に猛々しく襲い掛かった。
 雷球が老人に直撃する、その光景を遊は幻視したが、まさしく幻であった。雷球は老人を素通りすると、老人が腰掛けていた椅子の背もたれに衝突し、空しく弾けた。背もたれどころか、老人が焼失するほどの力を込めたはずの雷球がもたらした被害は、たったそれだけだったのだ。
 しかしそれ以外の効果は、あった。弾けた雷球の着弾地点を、老人は感心したかのように振り返り、まじまじとそれを見つめると、初めて遊を視野に入れたのである。老人は上から下まで舐めるように遊の全身を見やったが、値踏みする、というよりも鑑賞する、という風であった。老人が初めて口を開いた。

◆◇◆

「創想術(そうそうじゅつ)、か。なかなかに強い力のようだが、しかし創想の力など所詮幻に過ぎぬ」
 老人の声は、いかにもつまらぬという風に響いたので、遊は自分の誇る力をけなされたと感じて激した。
「幻と思うなら勝手に思いこんでいればいい。どうせならその身で幻とやらを――」
 味わってみるか、と続けようとして、続けられなかった。つい先ほど、自分の力がこの老人に通用しなかったのを、思い出したのである。
 確かにそれは幻のようであった。遊の力が、ではなく、老人が、であったが。
 しかし視点を変えてみれば、つまり老人が確かに実在しているとするなれば、確かに遊の力で発生した雷球の方こそが、幻に見えるに違いなかった。
 それはつまり、幻なのは老人ではなく、遊のほうである、という事でもある。遊は自分が幻などではなく現実に存在している、という事を自分では知っているが、しかしそれを証明できるものがないのだ。何も。
 少なくとも、この『世界』では、何も。

 そんな遊の内心を見透かしたように、老人は唐突に言葉を発した。
「コギト・エルゴ・スム、我思う、故に我あり、というのは、随分と傲慢な言葉だ。そうは思わぬか?」
「どういう事だ?」
 漠然としたイメージが、一瞬遊の脳裏に触れかけたが、しかしそれは捕まえる前に消え失せてしまい、鮮明なイメージとして捉えることができなかった。故にあまりやりたくはなかったが、遊は老人に反問したのである。歴然とした答えが返ってきた。
「我思う。それだけで、<我(われ)>とやらが存在できうるのなら、この世からほとんどの苦労が消え失せるであろうさ。<我>が思う、それだけで<我>が存在できないからこそ、この世には<我>以外の存在があるのだから。この世の苦労は、全てそこから発していると言ってもよい程だ。だがその苦労があるからこそ、<我>とやらは存在する事ができるのだ。そういう苦労という物は、<我>と外界との摩擦から発するが、だがそういう摩擦が刺激となって、刺激は<我>という存在を、確かに<我>に感じさせる。だから、<我>は存在できるのだ。この世に」
 ここで老人は言を切ったが、遊は特に何も反応しなかった。だが特に気分を害した風も落胆した風もなく、老人はまた淡々と言葉を紡ぎだした。

「存在する『もの』達の想いという物は、清潔で、上品だ。イメージだけで構成された、言葉という物が介在しないそれは、しかし上品であるが故に、現実に対して実効力を持ちえない。対して、言葉という物は、下品だ。想像や空想といった清潔な物に、名を与えるという行為によって汚し、それを確固たる物にしてしまう。しかし、汚く下品であるが故に、言葉という物は、現実に対して力を発揮しうる実効力を持つ。清潔な想像、想いというものは、言葉によって汚される事で、初めて世界に対し、力を発揮しうる」
 その内容は先程との繋がりが見えず、何の脈絡もないように思われたが、老人は元より遊も意に介さなかった。
「だが、創想術というものは、想いを言葉で汚す、という手順を踏むことなく、想いが直接現実に対する実効力となるよう、試みるものだ。それは一見、大した力に見えるだろうが、そうではない。通常の手順を外したそれは、単なる幻想の押し付けにすぎない」
 その言葉に、初めて遊は反応した。不愉快そうに眉を跳ね上げたのである。『創想術』という単語は聞いた事もなかったが、要するに彼の誇る『力』を指し示す単語であろう事は、ほぼ疑いなかった。故に、遊は不快感を禁じえなかったのである。『力』は、彼の誇りであり、そしてそれ故に、彼の存在意義に関わるものであったから。

 遊は不快感もあらわに言い捨てた。
「お前が何をどう考え、どう思っているかなど僕には関係ない。僕の力が、実際に現実に対して実効力を持っているのは、紛れもない事実だ。お前が何を言おうと、だ。実際には幻想であろうがそうでなかろうが、そんなことはどうでもいい。現実に現れる現象、それだけが、真実だ」
 老人は重々しく反論した。その声には、わずかに憐憫の情が込められていた。
「他人がどう思おうが関係無く、自分の力は実効力を持っている、というその考え自体が誤りだ、と我はそう言っている。はっきり言わねば解らぬか?」
 老人は嘆息をもらした。できの悪い生徒を思う老教師の態度であった。
「自分だけが自分の力を信じているだけでは、意味がない。他者にそれを認めさせて、初めてそれは世界に存在を認められる。存在できるのだ。しかし創想術は世界に認められるべき手順を踏まずに行使される。そういう行為は、自分の幻想を他人に押し付けようとするものであって、他人に認められようとする行為ではない。他者に、自分の幻想を押し付けるという事は、自分の世界、幻想に他者を巻き込む行為だ。そんなものが他者に、世界に認められる訳がない。そんなものは、単なる自己満足と虚栄に過ぎない。現実に実効力を持っていようがいまいが、関係無い。他者に認められずして、存在できるものは、何ひとつ、ありはしない」

 反射的に言葉を返そうとする遊の瞳を見据えて黙らせると、老人はさらに言を接いだ。
「何度も言っているはずだ。存在というものはそれだけで存在できるものではない、と。例えば汝は、どうやら自分が『ここにいる』という事を疑っていないようだが、実際にここにいる、という事をどうやって証明するつもりだ?」
 遊は反論できなかった。つい先程感じだ不安を、それに対して未だ回答を見出す前に、再び眼前に突きつけられたのである。答えられるはずなどなかった。沈黙する遊に、老人は畳み掛けるように言い放った。
「今、我とこうして会話をしている、この『今』が、例えば汝の夢ではない、という事は誰にも否定できない。我はそれを否定せず、そして汝も、それを否定しきれないからだ」
「……お前は、自分の言っている事が解っているのか?お前は今、自分自身が僕の夢中の存在であって、現実には存在しないのだ、と言っているのも同様なのだぞ?」
 苦しげに、ようやく遊は口をはさむことができた。

 彼には信じられなかったのだ。自分が実際には存在していないかもしれない、などと考える事ができる、という事が。そういう者がいる、という事実が、信じられなかった。
「汝の夢であろうがそうでなかろうが、我の存在そのものには関係無い。実際に存在していようがいまいが、我はここにいる。それを、汝が認識しているからだ」
 老人の追言に対し、遊は苦し紛れの反証をひねり出した。
「ここが、この場所が、僕の夢だと言うなら、お前のような存在が出てくるはずが無い。僕は、お前のような主張をする存在を想像できるはずがないからだ」
「どんな事にも可能性はある」
「可能性と実現性は、イコールではない。そんな可能性は、万に一つも、ない」
「実現性がどんなに低くとも、実際に存在しているそれに対してその奇跡性を説くのは無意味だ。理由と原因はともあれ、我は、ここにいる」
 揺らぐ自信を鼓舞して、遊はさらに反論した。
「言っている事が先程と違うぞ。お前は先程、自分が『ここにいる』と思うだけでは存在できない、と言った。今は、可能性など関係無く、自分はここにいる、と言っている。それらは相互に矛盾する」
 老人は小揺るぎもしなかった。
「人の話は、他者の言葉は、注意深く聞く事だ。どういう理由で存在しているか、という経緯については論じるだけ無駄だ、存在しているかどうかはそれとは関係無く、存在の証明には、他者が自分を認識する事のみ必要だ、と我はそう言っているのだ。これらは矛盾する事実ではない」
 そう言ってのけた後、老人は不意に、肩をゆすった。笑ったのだ。そして、またしても唐突に話題の矛先を変えてみせた。

「事実を言うとな。ここは確かに、汝のいた『世界』とは違う。尤も、汝の夢の出来事でもないが」
 老人の唐突すぎるその表明に、しかし遊は訝る余裕は皆無であった。あえぐように反問するだけで、精一杯である。
「……つまり、ここは異世界だ、とそういう事か?」
「汝にとっては、そういう解釈が成り立つかもしれぬな」
 老人のいささか人を食った表現に、しかし遊は怒気を発するでもなく、ただ呻き声をあげるのみであった。

「……僕をここから、元の場所へ帰せ」
 ようやく立ち直った遊が、居丈高に要求した。尤もその態度は表面的なものに過ぎず、内心は焦燥で焦げ付くようであった。まあどちらにせよ、その要求が真摯なものであった事は確かであったが、老人の態度は飄々としていた。
「さて、果たしてそんな方法があるものやら。第一、なぜ無理をして帰る必要がある?この『世界』には、我と汝しかおらぬ。我がいなくなれば、汝はこの『世界』の支配者だ。汝は、それを望んでいたのではなかったか?」
 冗談ではない、と遊は思った。
 彼が望んでいたのは、こんな孤独すぎる世界そのものなどではなく、元の世界そのものでもなく、要するに元の世界の人間を支配する事であり、それ以外の何物でもなかった。彼の思い描く『世界』とは、つまり『人間社会』と等号で結ばれているのであって、世界そのものには、何の興味もなかったのである。
「何を躊躇う?何を戸惑う?ここには汝以外の存在は、ない。汝が望めば、全て叶う。この世界は、汝の想いのみで構成されているも同様なのだからな。汝の元いた世界では、そうはいかぬ。想いは無数にあって、そのどれもが叶う可能性を持つ。汝の想いが叶う可能性は、限りなく低い」
 老人の表情は変化が乏しいが、その声はなかなかに表情豊かである。そしてこの時の彼の声は、まるでメフィストフェレスの呼び声のようであった。

 しかし遊は、きっぱりと宣言した。
「僕は、元の世界に、帰る。僕の望みは、奪い、貶(おとし)めることだ。創造する事ではない。この世界ではそれは出来ない。元の世界でなければ、意味が無い」
 この期に及んで、まだそのような事を大声でのたもうことができるのは、いっそ天晴れと言うべきであったろう。また一方で、遊の精神がある意味では健全である、という事の証明でもあったかもしれない。
 もし遊がより矮小な精神の所有者であれば、この小さな『世界』で、自分の望みだけを『叶えてもらう』事に安住し、自分独りの楽園に恍惚となっていたであろう。実際この世には、ただ望みを空想し、ねだるのみで自力ではなにもせず、他者を貶めることだけが楽しみ、という者が多く棲息するのだ。そういう者たちにとっては、この『世界』は楽園であろう。少なくとも、遊は自らの望みを、自力で叶えようとしたのだ。決して誉められた願いではなく、その手段もまたそうではあったが、その姿勢自体は、決して間違ってはいなかったのである。

◆◇◆

 老人は、しばし黙考すると、フム、と自分独りで納得するようにひとつ頷いた。
「帰りたいか。まあ、それはそれで、構うまい」
 他人事のように――実際、他人事ではあるが――論評すると、遊の方を再び見やった。
「ならば、これから汝にスペルをやろう。汝が帰るために、必要なものだ」
 老人の言葉に、遊は眉をひそめた。
「スペル、という事は……呪文なのか、それは?」
「そうだ」
「……馬鹿げている」
 遊は軽蔑の意を隠そうともせず、眉をひそめたまま鼻を鳴らした。彼は呪文による『魔法』などといった物を軽蔑していた。呪文を唱える、などという冗長な手段を取らねばならぬ、そんな技術が滅びたのは、当然だと思っていたのだ。だが、老人は呆れたような口調でたしなめた。
「すでに言ったはずだ。想いをそのまま押し付けるような術などに意味は無い、と。汝が帰るには、言葉が、絶対に必要なのだ」
 遊は舌打ちしたが、逆らわなかった。老人と自分の、どちらの主張が正しいかなど、彼にはどうでもよかった。そんな、事実を確認しようの無い事柄について長々と論議しているより、彼はさっさと元の世界に帰りたかったのだ。そのためにはどうやら、この老人のルールに従わねばならぬようであり、ひいては老人の言葉に従うより他はないのである。彼にとって、非常に不愉快な事ではあったが。

 そんな遊の内心など構う風もなく、老人は淡々としていた。
「スペルは、ふたつある。ひとつ目は『私は想う、だから、私はいる』」
「フム」
 遊はその通り、唱えた。何のてらいも無かった。滑稽なことを、などと考える余裕は、すでに無い。
 老人に与えられたスペルを唱え終わると、赤く赤く輝く光が走り、遊の足元に三角形を描き出したのである。
「それが、汝の想い、汝自身だ」
 老人は厳かに告げた。
「しかしそれだけでは、汝はその想いを実現させることはできぬ。汝の願い、汝の信じる現実へと帰りたいという想いを実現させるには、もう一つの三角形が必要だ」
「もうひとつの呪文か。それは何だ、早く教えろ」
 性急な遊の言葉に、しかし老人は特に気分を害した風はなかった。
「『あなたを想う、だから、あなたはいる』」
 それを聞いた途端、遊は眉をひそめた。
「それが先のスペルと、一体どんな違いがあると言うんだ?それはつまり、想うことの出来るわたしがいるからこそ、全てがある、という事と、全く変わりないじゃないか」
 遊のその追求に、老人はしかし、ゆるゆると首を左右に振った。

「スペルを。言葉を。注意深く、使う事だ」
 老人の声は恐ろしいほどに、深く深く響いた。
「二つの三角形が、同相、同じ形に重なってしまってはならない。六芒星形、ヘクサグラムを作らねば意味がない」
 わかるか、と老人がフードに隠された視線を遊に向けると、遊は自分の爪先に形成された、ひとつの三角形に視線を落した。
 その三角形は、底辺を彼に向けて、その頂点を前方に向けている。まるで、兵器かなにかのレティクル(照準)マークのようだ、と遊は考えた。

「あなたを想う。だから――」
 あなたがいる。そう口にしようとして、他人の声のように自分の声を聴いて、遊は気付いた。怒りをこめた視線を、老人に突き刺すが、当の老人はと言えば、
「ほう、気付いたかね」
 と、遊の怒りなど意に介した風もなく、喉の奥で嗤(わら)っていた。
 老人の態度に、遊はさらに怒りを膨らませたが、しかし一方では、奇妙な敗北感を覚えてもいたのであった。

 この三角形が、レティクルマーク、つまり自分から誰かに向ける矢印だとしたら。そしてその三角形が、六芒星形にならねばならぬ、と言うのであれば。
 ふたつめのスペルは、誰かから、遊に向けて贈られるものでなければならぬ、という事になる。
 自分は、誰に向けてこのスペルを贈るのか。そして誰が、自分にこのスペルを贈ってくるのか。それに気付いた時、遊は愕然とせざるをえなかったのである。

 そんな遊の内心を知ってか否か、老人は言を紡ぐ。
「『存在』というものは、それだけで独立して成立するものではない。自分独りで、どれだけ強く想ったとしても、それを受け取るものがいなければ、その想いは幻にすぎない。どれほどの事を為そうとしても、それを受け取るものがいなければ、その行為は幻想にすぎない。全ての想いというものは、発信と受信、それが相互になされて初めて、世界に対して力を発揮しうる。その片方でも欠けた存在は、たとえ実存したとしても、世界にとって存在しないも同様。存在していようがいまいが、どうでもよい存在。どうでもよいというそれは、存在していなくてもよい存在。つまりそれは、存在しないものなのだ」
 何度か繰(く)って言うたがな、と老人は肩を竦める口調で言を切り、再度続けた。

「そのスペルが完成しない限り、汝は元の世界に存在するが、しかし汝は誰からも無視され続ける事になる。つまり、存在しないままである、という事だ。そしてその間、汝の創想術は何ら効力を及ぼさなくなる。当然だ。汝の空想を、幻想を、受け止めるものが存在しないのだから。汝が『帰る』方法はただ一つ。誰かに、認められる事だ。その者に、スペルを与え、汝に与えてもらう事によって、汝は帰還を果たす」
 それができるか否かは、汝の器量次第だが、と、老人はからかうように言った。

 遊は歯軋りしながら、しかし確固とした口調で宣言した。
「やってやる。僕という存在を、世界に認めさせてやろうじゃないか」
 宣言を受けた老人は、フム、とひとつ頷いた。
「そうだ。今までの汝は、汝だけの世界に、汝しかいなかったも同じだった。丁度、この『世界』のように。しかし、このスペルが完成する頃には、汝は、汝の外にも世界がある事を知るだろう」
「……なんだと?」
 遊の反問を表面上無視しておいて、老人は続けた。
「汝という存在が無ければ、汝の世界は存在しない。しかし汝のみで世界が形成されているわけではない。汝の外にも、他者の世界がある。それを知る事が、生きる、と言う事に繋がる。皆、それをやって生きている。汝も、そうするがいい。創想の術は、そんな他者の世界を感じるのには邪魔なだけだ。少なくとも、汝にとっては、そうなのだ。そのままでは、生きているとは言えない。生きるが良い。氷村遊」

 それが、遊が聴いた、最後の老人の声であった。





わたしは想う

あなたを想う

あなたは想う

わたしを想う

だから

あなたは

わたしは

ここにいる


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