春原七瀬は旧校舎から出ると、ふわりと飛び上がり、新校舎の屋上までゆっくりと向かった。
月夜の散歩。それが、最近の彼女の日課であり、楽しみでもあった。
「今日は十六夜さんか真一郎くん、来てるかな?」
そんな独り言を楽しげに呟きながら、屋上を見下ろす。
果たして――人影はあった。
ただし、その人影はフェンスを乗り越え、僅かな足場から、下界を見下ろしていた。
「ちょ……ちょっとちょっと!!」
ひとりでわたわたと慌てると、七瀬はその人影に向かって急降下した。
人影――ここまで近づくと、高校生くらいの男の子だと分かった――の頭上で浮かぶと、姿を表して思い切り怒鳴りつけた。
「こら!君なにやってんの!?」
「うわぁっ!!」
その男子は、七瀬の声に驚いて、思い切り飛び上がり――
「なぁっ……!!」
勢い余って、足場を踏みはずした。
「…………!」
七瀬は、とっさ『力』を開放して、転落しかけた彼を支えた。
「はぁ……はぁ……」
「ぜぃ……ぜぃ……」
しばし、二人して荒い呼吸を整える。
そして、先に立ち直った男子が、七瀬に話しかけた。
「あ……ありがとうございました。お陰で助かりました」
「あぁ、いえいえ」
七瀬はいつものノリで、その謝辞を受ける。
「ところで……」
彼は再び、七瀬に話しかけた。
「あなたは……いったい……?」
七瀬はまたしても、あっさりと答えた。
「あたし?自縛霊」
……しばしの静寂の後。
「のわぁっ!!」
再び飛び上がった男子は、またしても足場を踏みはずし。
「ちょっとちょっと!!」
七瀬は再び、彼を支える羽目になった。
「まったくー、びっくりさせないでよね!」
「びっくりしたのは僕の方ですよ……」
七瀬は甚くご立腹であったが――残念ながら公平に見るに、少年の言い分の方にこそ理があったであろう。
眼前に突然幽霊にお出ましになられて、驚かない方がどうかしている。
しばらくの間むくれていた七瀬だが、ふと最初の疑問を思い出して、少年の顔を覗き込んだ。
少年の方は驚いて身を逸らすが、七瀬は構わなかった。
「ところで君、こんな時間にこんな所で何してるの?」
少年はその問いに、年に似合わぬほど大人びた微笑を浮かべた。
「ちょっと……考え事がありまして……」
彼の微笑にどこかか陰を感じ、七瀬は内心で訝しげつつ、故に殊更戯けて言った。
「ふーん。そんじゃ、飛び降り自殺じゃなかったんだ?」
「えぇ……」
「そんじゃさ……」
七瀬は切り込んだ。
「なんでわざわざ、学校の屋上で考え事なんて、しようと思ったのかな?」
「はあ……何と言いますか……」
少年は頭を掻いた。そして、視線を遙か下の地上に落す。
「――何で、人間は空を飛べないのかな、と思いまして」
「…………は?」
七瀬は唖然とした。
人間が空を飛べない、と言う事を疑った者が、今まで一体どこにいたであろうか?
物理的に不可能だとか、そういった理屈以前に――それは『常識』というもので規定されているはずであった。
その強固な壁に向かって、この少年は無造作に蟷螂の斧を振るって見せたのだ。驚かない方が、どうかしていた。
少年は、言を接いだ。
「……ひょっとしたら、本当は人間も空を飛べるのかも知れない――ただ、それに成功した人がいないだけで」
「あたしは結構長い事、自縛霊やってるけど……そんな話は聞かないわね」
軽く聞こえるように答えつつ――七瀬は内心で冷汗をかいていた。
静かな狂気――大別するなれば、こうなるであろうか。
確かに、『常識』とされる事が全て正しいとは限らぬ。客観的に見れば、おかしい所も無論存在する。
だが――これは、もはやそういう次元の問題ではなかった。
人が何の道具の力も借りず空を飛ぶ――もしそれが実現しうるとすれば、それは既に『人』ではなく、別の存在であろう。これはそういう、人智を越えた次元での問題であった。
尤も、当人が己の理屈を信じ、それに殉じるのは、当人の勝手である。
しかしその後、当人にしか解らぬ理由で怨に呑まれ、怨魅(おに)と化すとすれば――それは迷惑以外の、何者でもなかった。
「君は……何のために、空を飛びたいの?」
七瀬は気軽に聞こえるよう、問うてみたが、声が微妙に震えるのは押さえきれなかった。
もし、奇妙な妄念に憑かれているなれば……なんとかせねば、彼を含め、複数の人間が不幸になる。
そう気を張っていた七瀬であったが――少年の答えは、予想を大きく外れていた。
「いえ――空を飛べたら、地上のしがらみも、全部振り払えるかな……なんて下らない事です」
そう言って、少年は苦笑したのである。
「な……なぁんだ……」
七瀬は脱力した。
外面は酷く深刻に思えたが――蓋を開ければどうという事もない、少年期のストレスや悩み、それらからの逃避的思考であった。
酷く詩的で深刻な事をのたまうから、こちらもそれに呑まれ、事を深刻に受けすぎただけのことである。
尤も――この少年が、それだけの事を思い、考える事ができうる能力を有している事は確かである。その点については大したものであったが――それは同時に、ひどく危ういものでもあった。
ふとした拍子に、容易に『死』へと転ぶ、そんな危うさ。
そして――『残念』を持たぬが故に、かえって七瀬のような『自縛霊』と化してしまう可能性は高かった。
『残念』とは元来『念を残す』の意である。
この世に『念』――心残りを残してしまった者は、亡霊となってこの世に留まる。
心残りとは、悔いである。『悔い』は『杭』に通じ――故に『悔い』はこの世に死者が留まる『杭』となる。
しかし、それは裏を返すと、『悔い』が晴れればこの世に留まる必然性が消失する、という事でもある。『残念』自体は厄介なものであるが、それが明確でさえあれば、この手のものは一番『成仏』させるのに容易いのである。
逆に、『残念』を持たず、しかし明確な意志を持った亡霊こそが、最も祓う事が難しい。七瀬などが良い例であったろう。
念を晴す事で成仏させる事も出来ぬ。「お前はもう死んでいるのだから、成仏しろ」と告げた所で、亡霊にとっては現在の姿こそが『生』なのだ。拒否するのが当然であろう。それは彼らにとっては「死ね」と言われているのと同義である。
第一、それは生者の都合であって、死者の都合ではない。他人の都合で「死ね」と言われてほいほい死ぬような者は――『馬鹿』と称されるにのみ、相応しいであろう。それは生者死者と共に、変わる事はない。
だが、死者がこの世に残るという事自体、道理に外れるのである。複数の意味において、ろくでもない事には違いないのであった。
――尤も、七瀬はそんな理屈をいちいちひねくりだして、答えを用意した訳ではない。
ただ単に、自分と同じような思いをする者を増やしたくない、ただそれだけの理由であった。そしてそれこそが、恐らく一番肝要な事であっただろう。
「……君は、何のために生きているのかな?」
唐突な問いであった。少年が戸惑うのも無理はないであろう。
「何のために、ですか……?そんな事、考えた事もありませんでした」
正直な答えであった。
「そう。何のために生きているか、何て考えながら生きてる人なんて、ほとんどいない。逆に言えば、そんな事、考えなくても生きていられるんだよ。幸せもね、きっと同じ。『幸せ』っていうのはね。その中にいる間は感じられないんだよ、きっと」
七瀬は、空にかかる月を仰いだ。
「幸せな時とか、輝いてる時とか……そういうのって、過ぎ去って初めて解るものだと思う。手元にあったら、かえって解らないんだよ」
残酷な現実だ、と七瀬は思うのだ。過ぎ去って初めて、その価値が理解できるとは。
造物主とやらは、人間の感性に悪意を持って罠を仕掛けたのではないかとすら、思えるほどに。
それを知り、常に感じながら生きる事は難しい。そうしなくても生きていられるのだ。
考えなくても生きていられる。感じなくても幸福でいられる。
だが、それを感じながら生きる事ができるならば、後悔という名の悔いを少しでも減らす事ができるのではないだろうか。
すでに死したる身なれば、七瀬にできることは、それを伝える事しかなかった。
伝えたとて、実感できるとは限らない。むしろそうでない可能性の方が高い。だが、賽を振らねば目は出ぬ。たとえ自己満足であったとしても、七瀬は伝えたかった。
今、手の内にある幸せを。
喜びも、苦しみも、全ては生ある故にあるものなのだと。
結局、七瀬は最後まで、少年の名を聞くことなく別れた。
七瀬も、少年に名乗る事はなかった。
それでも。
彼の心に何かが残ったはずだ、と七瀬は信じたい。
七瀬はその夜、ずっと、月の光を浴び続けていた。
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