5

 

 

  岩のうえで長い観想をした僕は、家に帰って布団にはいり、明け方ごろにはやっぱり自慰をした。暗闇に浮かんだのは、あいもかわらずの赤腕章と靴とシェイクスピア。紙くずを捨てながら、さすがに今度は僕もげんなりした。

 たしかに僕たちは和解に失敗した。しかし間尺に合わない話だと思う。

 昨夜、広場で病人を癒す聖ナターシャの像も、シベリアの大地に祈る宇宙飛行士のそれも、けっこう身に迫って感じられた。いまでも僕は、それを積極的に支持したい気でいる。それはつまり、僕を苦しめてきたあの魔女はいなくなったということではないか。それなのになぜ僕は今も片輪なままなのだろう。

 一度ためしに誰かから例の弱電屋の写真を借りてみてもいいが、そう考えるそばから、冷めた意識は、それが空しいごまかしであると知っている。つまり僕は生まれつきそういう人間だったということになるのか。それではあまりに救いがないから、また長い時間をかけて別の答えを探さねばならない。そう思うとため息が出てきた。

  服を着替えて食卓についた僕は、そこにあった新聞からまたひとつニュースに接した。ヴォクスレセニエ1号の飛行を記念する切手が発行されるというのである。

 これは前例からいって十分予想できたことだ。僕は指先で新聞を反転させて、そのデザインを見た。

 さすがに見慣れた宇宙船のシルエットを背景に、宇宙服姿の「H・A・ガリエナ大尉」の顔はこよなく美しかった。その形よく整った唇のあたりをじっと見ていると、僕を見下ろしていたまだ若い魔女の唇が被さってきて、またズボンに圧迫される股間が痛くなってきた。

  僕はすぐ新聞を裏返した。

 やれやれ、敵はこの騒ぎが収まってからも、なお毎日のようにわが家まで侵入してくる魂胆らしい。いつまでも若いわけでなし、家に手紙が届くたびに勃起していたら身がもたない。まあ僕が電気工事員で郵便配達夫でなかったのがせめてもの幸いか。実際、あやうく僕はもうすこしで逓信局へ就職するところだったのだ。

  父が向かいの席に座り、新聞を取り上げ読みはじめた。そうするとまずい具合に、魔女の瞳が正面から僕を見据える形となった。食事の途中だったが、僕は前かがみになったまま席を立ち、家を出て事務所に向かった。

  時間帯の割に閑散としている朝の道を、僕はふだんより速く自転車を走らせた。

  魔女から逃げ惑う僕は、そのとき事務所で待っているものを予想しなかった。あらかじめ言っておけば、驚くべきことに僕の昨夜の祈りは聞かれたのである。

 

                                 

 

 見たところ、町はどこも開店休業状態であった。僕たちの公団でも出勤している職人はそういないだろうと予想できた。

 僕は自転車を事務所の倉庫に止め階段をあがった。

 そこには主任職長のミハイル・フョードロヴィッチと蛇のフョードルだけがいて、ふたりは机をはさんで黙って向き合っていた。五十をやや出た熟練の主任職長は、でっぷりした体と濃い口髭で、わが公団の看板男である。

 職長はこっちを見た。

「ニコライ、熱はもういいのか」

「はい、おかげさまで」

「それはよかった。さて、これで昨日の馬鹿さわぎに加わらなったメンツが揃ったわけだ」

  職長は何かと忙しい地位だが、フョードルまでが参加しなかったのは意外だった。

「それがニコライ、困ったことだよ」

「何です」

  職長はちょっと勿体をつけてから

「部屋に断線があるとか電話してきた。ラジオと同じ声だ」

  …コチラ春楡1…ワタシノ知ッテイルミナサン…コンニチハ…。

  ミハイル・フョードロヴィッチは中継の台詞を真似ながら、その合間に拳を口元に当てては、雑音の忠実なる再現につとめた。

「ガリエナですか」

  職長は頷いた。僕は最大限の努力でもって落ち着いて言った。

「宇宙飛行士が帰ってきたのは、じゃあボロ屋の点検のためだったんですか」

  職長は鼻毛を抜く。

「結局そういうことだ。母親は前からもういろいろ動くのが億劫らしい。そろそろ娘息子に世話してもらう年だよ。あそこには息子はいないが」

  職長はもうひとりの方を見る。

「そこで手待ちになっているこのフョードル君にお願いしたんだが、どうも色よい返事をもらえんのだ」

  僕はフョードルを見た。ふつうそんなわがままが通らないことくらい、この男だって知っているだろう。フョードルは視線を移ろわせながら手を揉んでいる。その落ち着かない顔を見ているうちに、僕は思い出した。この男に最初に「蛇」という辛辣な、しかもおそらく生涯に及ぶであろう命名をしたのが誰だったかを。フョードルはあの「子ども共同体」の末端構成員であった。

「二日酔いでへばってる奴が多くてな」

  職長は工程表を見る。僕の心臓は鳴り出した。血液が耳元で音を立てる。僕は奥歯を噛んだ。ここが勝負どころだ。

「僕が行きます。今やってるプールは後で責任もってきちんと追いかけます」

 ほうほう、と職長はうなずき、

「フョードル、プールへまわれ」

  フョードルがきまり悪そうに無言で背中を向けて退室する。

「部屋うちの断線が一か所だけですか」

  つい意気込んで早口になった。

「行ってみなきゃ分かるものか」

  職長はのんきに鼻毛を抜く。

  僕は机上の「市内近郊配車地図」をにらんで、ガリエナ邸の所在を指で押さえた。まずいことに、それはぎりぎりで三輪バイク使用区域の中に位置していた。僕は職長の顔を伺う。

「自動車、使ってもいいでしょ」

「どうしてだ」

「どうしてって、相手はいまをときめく祖国の英雄です。車ぐらい乗っていってもバチはあたらないでしょう」

  職長はこっちに向き直った。

「英雄だぁ?」

  太い眉を寄せると、ゲラゲラ笑い出す。

「むかしあのアマッコの一味がな、電柱に登って何しているのかと思ったら、盗電して川の魚を取ってるんだよ。水面に感電した魚がプカプカ浮いててな。俺が追いかけていったら、その魚を投げつけてきやがった」

  職長は引き出しから葉巻を取り出した。

「かなり追いかけたがな。あのアマッコのケツを張り上げて、馬に乗れないようにしてやろうと思ったんだ。だがあいつらはすばしこい。当時の俺の体型をもってしても駄目だった」

  出っ張った下腹に向かい、両手で逆三角形を描いて笑う。

「まったく何が英雄だ。さあ、早く行ってこい。すぐ来てやっただけ感謝しろと言え」

  ミハイル・フョードロヴィッチのこういうところが僕は好きだった。別にナターシャに限らず、相手が地区政治委員だろうが党書記だろうが、まったくその調子を変えない。いつでも葉巻を吸い、鼻毛を抜きながらガハガハ笑う。

 しかし今度ばかりは事情が違う。僕は食い下がった。

「聞いてください。ミハイル・フョードロヴィッチ。僕もあの女を昔から知っているんです。乗り物が三輪では、みっともなくて宇宙飛行士の前に出られません」

  彼の前では、僕もずいぶん素直に言葉が出るものだ。ミハイル・フョードロヴィッチはニヤリと笑った。

「今日はばかに頼もしいことを言うな、君子ニコライ・ラザノフ。そうだ。男は女の前で見栄ぐらい張らんといかんぞ。俺の考えが足りなかった。Дa4をつかってよし。それからミーチャを横に乗っけていけ。受勲者未亡人世帯だから割引表を見るんだぞ」

  僕は彼に感謝した。

 うなずいて背を向けた僕のうしろで、ミハイル・フョードロヴィッチは、よほど気に入ったか、さっきの雑音入りの物真似をまたやりはじめた。

  …コチラ春楡1…ワタシニ魚ヲブツケラレタミナサン…コンニチハ…はーい、こんにちはー、ひさしぶりー

  僕の気も知らぬげに、興に乗ってひとりで返事までしている始末だ。

 

                             

 

  駐車場に降りると、待っていたらしいフョードルが近づいて来た。

「悪いな」

「いいよ。俺だってこの間、お前のラスを間違って捨てたから」

  どさくさに紛れて僕は旧悪を謝った。フョードルは僕の肩に手を置いて、おもねるような薄笑いを浮かべる。

「ほんとはお前だってイヤなのにな」

「お前と違って俺は観念的人間なんだよ」

  僕はフョードルの手を払った。

 だが歩み去りながら、僕は少し考えを直した。こいつはこれでも家に奥さんを待たせているのだ。今のナターシャがどうあれ、そういう身空で、昔彼女の家来だった思い出なんか胸新たにしたいはずがない。それは自分に対するより、むしろ今の奥さんに対する侮辱的事実と感じられるのだ。

 僕は車に近づいた。職長のいったДa4はクラッチが真ん中にあるイヤなタイプだが、排気量2000ccと大きいから見栄えはそう悪くない。僕とミーチャはワックスをかけて車を磨き、車内の道具と材料を整理した。ただし艶の出たそのボンネットに、ガリエナ大尉歓迎委員会から支給された花輪飾りをつけることはしなかった。僕たちはまだ和解していないのである。

  僕らはペンチをはじめとする道具に潤滑油を差し、動きを確認した。

 ペトロイワノフスク電気公団第四出張庁舎を出発してから、僕は一度後ろを振り返った。建物の正面に「知識は力なり」という銘板が貼ってある。古代アレキサンドリアだかに由来するという格式ばった語の意味を、分かりやすい形で僕たちに見せてくれているのが、党書記の前で鼻毛を抜くあの職長である。だが知識なら僕にもそこそこあるつもりだ。何しろ職歴十年、宇宙飛行士が学芸会などやっていた頃から僕は電気工だったのだ。

  横を見ると助手席では、ミーチャが口の中で何かブツブツ言っている。吃音に悩む彼は、何か腹にあるときは、よくこうして発言の予行演習している。

「祝辞を言うなら作業の後にしてくれよ」

  僕は彼に釘をさした。

  市街を出て、イェニシテの支流である小川を渡る橋のところで、道端に歩哨小屋のようなものが見えてきた。空軍の服を着た兵士が近づいてきて誰何された。僕が身分証を見せると、兵士は腕で前方を指し、僕たちは直進し橋を渡った。僕たちの後ろから来ていた養豚所のトラックは、川沿いに迂回させられていた。

  橋を渡った一角はいたって閑静であった。

 ガリエナ未亡人は体が悪いらしいし、ナターシャだってわざわざ職人を呼ぼうというのだから、まさかコルホーズの田吾作どもの表敬訪問や、自称古い友人連中の対応に忙殺されていないことは分かっていた。しかしこれほど人の気配がないとは思わなかった。車がガリエナ邸の前に到着すると、静寂はいよいよ深くなってきたようだ。

 白い壁に茶色いスレート葺の屋根、緑のドアと窓枠のガリエナ邸はまさにひっそりと佇んでいた。廐はもう取り壊したらしい。

  車の左右のドアから同時に出た僕たちは、脚立を車の屋根からおろし、一式を収めた腰道具を身にまとう。

 小川のせせらぎと鳥の声を聞き、風の匂いを嗅ぎながら僕は何か不安になった。ちょっとこの寂寞感はどうだろう。こうして人の家に上がり込む商売だから、僕はその家の空気というものが多少は読めるつもりだ。少し立ち止まって工具を点検するふりをしながら考える。どうやらその正体が分かった気がした。

  ここの主人だったガリエン大佐はいまやなく、あのいまいましいブツェファルスもとっくに馬肉の缶詰にでもなったはずだ。母親はいるが、妹は嫁いでいて、そう長く家を空けられるはずもない。せっかくの凱旋も、いまのナターシャにとっては、むしろ喪失感をかきたてる帰郷であったと思うのが自然である。言うまでもなく、僕も好きだったあの校長先生もまた亡くなった。

  僕は、五年前に一度だけ会ったことがあるアレクサンドル・ステパノヴィッチ・ガリエン氏のことを思い出した。機甲兵舎の工事の視察に来た連隊長、クルスク突出部の会戦でファシストの戦車隊(パンツァーカンプグルッペ)を蹴散らした勇士は、僕のような小僧(本当に使いっぱしりの小僧だった)の挨拶にも、実に厳正に答礼したものである。

 遅かりし、大尉どの。十年前、少女の頃にこの土地を離れたあなたが、遠い隔離されたところで、水にもぐって無線機のオモチャを組み立てたり、天秤のバケモノみたいな遠心訓練機に振り回されたり、その他いろいろ益体(やくたい)もないことばかりしているうちに、何と多くの時間が経ってしまったことでしょう。

 僕は垣根をくぐると、緑塗りのドアをノックした。

 

                             

 

  すぐに若い女が出て来た。はじめ妹かと思ったが、どうやらそれがナターシャ本人だった。長い髪をまとめないで垂らし、襟のある白いシャツに若草色の長いスカート。何も不思議ではないが、時の人にしては、あまりにさりげない服装という気がした。

  僕が身分を名乗ると、彼女は部屋へ向かって僕たちを案内した。

 後ろから観察して歩くが、やはり意外であった。背は女性にしては高いほうだろうが、しかし僕の知っているナターシャ・ガリエナはこんなに華奢なひとだっただろうか。いまのこの姿では、たしかに春楡というたとえがよく当たっている。

  僕はさっそく通された部屋で脚立を立て、天井をのぞき込んで見た。故障箇所はすぐ分かった。大したことではない。被覆電線がネズミに齧られているだけだ。僕は安堵もし、拍子抜けもしたが、同時にやや忸怩とした思いにもなった。

 こんなものは、その気になって道具があれば誰でも修繕できる。ましてやわれらがソ連邦宇宙飛行士ともなると、幼少のみぎりから電柱の架空高圧を扱っていらしたというではないか。ひとつ問題があるとすれば、その白いシャツが埃で真っ黒になるということか。

 しかしまあ暗黒の宇宙空間はともかく、この程度の暗闇はたしかに僕らの領分だった。

  僕は呟いた。せめて「活線」でやるか。穴から顔を出してミーチャに言った。

「開閉器、落とさなくていい。足場板いるぞ」

   僕は彼が運んできた足場板を梁の間に渡し、脚立に乗ったまま上半身をそこに乗せた。もちろん薄い天井板に直接体重をかけないための措置である。

 それをするとき、僕は自分の手が震えているのに気がついた。こんなことは本当に何年ぶりだろう。故障が隠蔽箇所だったのはまったく幸いだった。

身を乗り出して、ぎりぎり届く位置の切断箇所をつかんで引っ張る。梁に線を止めてあったごく小さな電工カスガイが飛んだのを拾い集める。電工ナイフで新たな芯線を剥き出し、圧着莢の中でひとつにしたとき、体を入れている穴から電灯の光が差し込んでくるのが分かった。

 僕は莢を圧着ペンチで力いっぱいかしめ込み、その上から絶縁テープを巻きつけた。普通の工事ならここでやめる。だが僕は口の中でぶつぶつ言いながら、さらに工事をすすめた。

「郷土の誉れに」。もう一重にテープを巻きつけた。

「祖国の英雄に」。それを接続箱のなかに収めた。

「将来の人類の指導者に」。入念に、見えている線のよりを取って、新しいカスガイを金槌で梁に打ちつけた。

  それらの作業で必要とされた道具と材料の、手持ちに足りない分は、すべてミーチャが穴の隙間から送ってくれた。

  僕はいったん脚立を降りて、天井板を元どおりに収めた。それからナターシャに向かって、採取した米粒状のネズミの糞をみせた。

「ネズミを退治しないと、またおこります。ちなみに役所で配る殺鼠剤は、もうまったく効きません。嫌いでなければ、猫を飼うといいと思います」

  ナターシャは頷いた。

  僕は彼女に所定料金を請求し、受け取った。それから領収書束の表紙をめくると、そこに「二級強電気工事員」という資格スタンプを押し、あとに「ニコライ・ラザノフ」と自分の名を書き込んだ。 

  僕はそれをミーチャに手渡した。ミーチャは腰を落として金額を書き入れる。達筆ミーチャは大まじめな顔付きで片目まで閉じ、活字に近いというよりは、ほとんどカリグラフィーともいうべき華麗な字を並べている。ここになかなか珍しい領収書が誕生し、支払い人の手に渡された。

  さしもの見聞の広いナターシャも、これには目を瞠った。

Пышный(プィーシュヌィ) Почepk(ポチェルク)(綺麗な字)!」

  それから彼女は、その領収書と僕の顔を見比べた。

「ご父姓は何とおっしゃるの」

「パブロヴィッチ」

  さらに僕は一気に言った。

「ペトロイワノフスク技術学校・夜間部電気科卒業です」

 ナターシャ・ガリエナはなにを思うか、その目にはただ柔和な光があった。

「ありがとう、ニコライ・パブロヴィッチ」

  彼女は振り返ると、すぐ後ろのテーブルの上から何かの包みを取り上げた。

「どうかお持ちになって」

 菓子折りとおぼしきその包みは、モスクワかレニングラードのデパートででも売っていそうな垢抜けた包装だった。だが僕は即座に、いままで一度たりとも思ったことのない内容の台詞を言い放っていた。

「われわれはすでに十分な俸給を得ています。ナターシャ・アレクサンドローヴナ」

  ナターシャは困ったようになってミーチャの方を見た。

  そのミーチャが直立不動になって出し抜けに言った。

「同志大尉、遠くまでお務め、ご苦労様でした」

  ナターシャ・ガリエナ大尉はしばらく目を瞠いていたが、微笑すると背筋を伸ばしてミーチャに敬礼を返した。さすがにエリート士官だけあって、くだけた服装でもその姿は堂に入っていた。決まった姿勢のどこかが、微妙ながら決定的に素人とは違っていた。

 そして僕はそのとき、突然彼女の背後からはっきりと後光が射すのを見たのである。

 

                               

 

  僕たちは車に乗ってガリエナ邸を後にした。僕は運転しながら、あの後光のナゾについて考えようとしたが、すぐにそんなことは消し飛んでしまった。

  バックミラーに、見送りに出て来てくれたらしいナターシャの姿を認めたとき、僕のハンドルを取る手は再び震えはじめた。何となれば、その彼女の右手の指には、あのヴォスクレセニエ風船の糸が絡められていたからである。あれは昨夜、僕が飛ばした二個目の風船ではないのか。

  僕は必死になって、昨夜自分がそこに結ぶために書きつけた文面を思い出した。

 どうか深遠なる物理法則をほんの少し案配して、僕がもう一度ナターシャに会えるよう取り計らってください。

 そして末尾に、たしかに正確を期して署名した。電気工事員ニコライ・ラザノフ。

  彼女はあれを読んだから、工事にかこつけて僕を招いてくれたのだろうか。そういえば僕らにくれようとした菓子折りだって、誰にでも渡すというわけでもないだろうに、いかにも用意されていたようだった。

 しかしまさかそんなことはないだろう。だいたい風船はどれもみな同じだ。もう僕は自分で分かっていた。たぶんこの先何年経ようと、僕はそんなことを信じるほど耄碌はしないだろう。少なくとも今の父パブロと同じくらいの年齢までは。

  そして実を言えば、奇跡に頼らなくても彼女に会える奥の手を、もう僕はひとつだけ見つけていたのである。つまり校長先生ピョートル・ペトロヴィッチの墓前には、ナターシャもひとりで参ってくるだろうということだ。

 たとえ僕が下世話な待ち伏せのダシにしても、たぶん棺桶の中の校長先生は怒ったりなさらなかったと思う。なぜなら僕もナターシャも、それが唯一の有機的共通項であることに、あの先生の変わった教育の申し子であったから。先生がいればこそ、かつて彼女は大人の力から守られ、僕はほかの子どもから守られたのだ。

  僕は角を曲がるときにもう一度バックミラーを見たが、すでに垣根からナターシャの姿は消えていた。

  助手席を見るとミーチャは泣いていた。

「ひ、光が、ひ、光が」

  嗚咽しながら繰り返している。どうやら彼もまた、あの後光を見たらしい。

 僕は片手で煙草を吸いながら、アレクセイではないが、技術学校卒業生らしく、冷静に科学的仮説というやつを立てはじめた。

 これはひょっとすると、彼女が宇宙で浴びてきた未知なる宇宙線が及ぼす作用ではあるまいか。それならば病人を癒す奇跡というのもあながち実体のないものでもないかもしれない。

  そしてふと僕の頭にコンスタンチン・イリイッチの顔が浮かんだ。

  あのひとは最近、また猫の子が生まれたといっていなかったか。