悪の華タッグタイトル二十年間防衛

 

「悪の華」とか「悪の輝き」とか「悪の美学」とかいう、いささかどころではなく陳腐な言い回しがありますが、私の中で「キング・アンド・クイーン・オブ・悪の華」として燦然と君臨しているのが、イーデン・フィルポッツの古典ミステリー『赤毛のレドメイン家』に出てくる一対の若く美しい男女です。(ここからはネタバラシ)

 男の名がマイケル・ペンディーン、またの名をジュゼッペ・ドリア。女の名がジェニー・レドメイン、のちにジェニー・ペンディーン、さらにジェニー・ドリア。今からかれこれ二十年前、小学生のときにジュブナイルのダイジェストで「レドメイン」を読んで以来、私の中の彼らの王座が揺らいだことはありません。

 ご存知ない方のため、まず作者から紹介しましょう。イーデン・フィルポッツ。通りよく言えばアガサ・クリスティーの師匠です。元来はミステリー書きではなく、田園小説の老大家なのだそうです。「田園小説」というのがいかなるものか、邦訳されていないのでよく分りませんが、ハーディの『テス』のようなものではないかと思います。

 冒頭、休暇でダートムアの田舎に釣りに来たロンドンの刑事マーク・ブレンドンは、荒れ野を歩く、輝くばかりに美しい乙女を見かける。まさに『テス』的情景です。乙女と見えたのは、実のところ若妻なのですが、誰ぞ知らん、この妖精のようなジェニー・ペンディーンの内面に宿る、凡人の世の道徳・秩序を嘲笑してやまぬ不羈の精神を。

ジェニーはブレンドンの素性を聞き及び、夫・マイケルの失踪について相談をもちかけてきます。捜査の結果、諸々の状況の指すところ、ジェニーの三人の叔父のひとり、ロバート・レドメインがマイケルを殺害して死体を持ち去ったという説が有力になる。まあ、種を明かせばこれは話が逆なのですが。

「未亡人」になったジェニーは、残る二人の叔父のもとに身を寄せますが、その二人、ベンディゴとアルバートの命を狙って、またしても「ロバート・レドメイン」の悪魔のような影が出没します。ブレンドンはそれを追って北イタリアまでジェニーに付き従いますが、日を重ねるにつれ、独身の刑事の中で、若き薄倖の未亡人に対する慕情は募るいっぽう、と。

ここで登場するのが、ジュゼッペ・ドリアというイタリア青年。ベンディゴ・レドメインのモーターボートの運転手ですが、ギリシャ彫刻のような肉体の持ち主で、美貌に謎めいた微笑をうかべてジェニーに接近する。美男美女である二人の親密度が増すにつれ、傍で見ているブレンドンはやきもきするというわけです。

この三角関係の実相はといえば、上述のとおり、ドリア=殺されたはずの夫マイケル・ペンディーンであって、女と懇ろになるもならないも、最初からブレンドンをなぶるための段取り芝居にすぎないのですが、こういうシチュエーション、自分的には非常にそそるものがあります。何か、光源氏と紫の上という輝かしい男女が、容貌と知性に不自由な末摘花をからかっているような、そんな風情が漂います。

急ぎ足にその後のストーリー展開を追いますと、マイケルとジェニーの二人は、ロバート・レドメインの幻影を隠顕させつつ、二人の叔父を亡き者にし、レドメイン家の財産を一手に収める。だがその直後に、不甲斐ないブレンドンに代わって探偵役を引き継いだアメリカ人・ピーター・ギャンズが真相を解き明かし、その場から逃走を図ろうとしたドリア=ペンディーンは警官隊に銃撃され、それを庇ったジェニーが銃弾を受けて命を落とす。生き残ったマイケルは法廷で裁かれますが、獄中で手記をしたため終えると、義眼の中に隠し持っていた毒薬を服して自殺を遂げる。これにて幕です。

 

このストーリーの中で、ただひとり完全無欠の意志と知性を授けられたのがジェニー・ペンディーンです。夫のマイケルよりも、名探偵ギャンズよりもはるかに格上という位置付けが、両者の承認をもってなされています。ファム・ファタルの面目躍如ですが、私がよりいっそう魅了されるのは、むしろ夫のマイケル・ペンディーンの方です。

もちろんこれまた非情で冷徹な悪の申し子なのですが、犯罪を遂行するうえで、無用のイチビリを発揮したり、ついつい仏心を起こしそうになったりして、けっこうケレン味のある性格が魅力的です。病弱で陰鬱な髭を蓄えたインテリのコーンウォール男・ペンディーンと、闊達で蠱惑的なラテン的ブルーワーカー・ドリア、二つの姿の使い分けにも、自ら演じる喜びを見出しています。

ジェニー同様、並みの道徳や倫理を唾棄していて、とりわけ粗野で単細胞なロバートあたりが体現している、安い愛国主義とマチスモが大嫌い。それゆえ第一次大戦に際しては、クスリを服用して心不全を装い、兵役を逃れています。このときの三人のレドメインとの心情的軋轢が、今回の事件の根だったりしますが、とにかく文弱のダーク・ヒーローというのはあまり類例がなく、盲管のツボにはまりました。少年時代早くも人を殺し、それ以来尽きせぬ悪の快楽に身を委ねているところも、人知れない義眼の中に切り札を隠しもっているという設定も、無性にカッコよく映ったものです。

そういうマイケルならばこそ、才色双絶のジェニーから命を捧げられるのですが、ジェニーを失ったマイケルの方も「わがこと終わりぬ」とこの世を去る覚悟を決めます。実にええ話です。至純の愛、無二のパートナー、無私、献身、自己犠牲。普通ならば問答無用で正の符号のもとに捉えられるべきこれらのタームが、少なくとも、形式上の主人公ブレンドンに感情移入した身には、なんと皮肉で憎態にひびくことでしょう。