ジジイ恐るべし

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私・盲管の私淑する心のおシショーさんが故・獅子文六です。

ただ寂しいことに、自分の周りを見回してすら、ほかに誰ひとり読んでいる人間はいない。薦めたところで「フーン」と言われるだけで、よほどの悪食と思われているのか。

しかし実際、これほど明晰で明朗な作品を書く人はいません。

「大番」「箱根山」「南の風」などがお気に入りですが、ここでは「大番」を少し取り上げてみましょう。

 

「大番(おおばん)」は、戦前戦後を通じて、兜町で名を成し、ついには日本一の相場師とまで言われる男の一代記です。当然ながら主人公・丑之助は、この世の栄耀栄華を極めもするし、ひとたび運が傾けば失意流竄の旅に出たりもする。間には戦争などもはさまるのですが、そういう特殊かつ極端な題材を扱いながら、作者の筆は決して急がず、うわずらず、悠揚迫らざる態度で進められていきます。

いかな早熟の天才作家でも、三十台や四十そこそこでこのマネはできまいなあ、と思って年賦を見ると、やはり文六先生もこれを執筆したのは六十すぎ。やはりジジイには、なったらなっただけのことはあるものです。

 

この小説中で、丑之助の株屋としての立身のほか、もうひとつ物語の軸になっているのが、ヒロイン・可奈子への尽きせぬ憧憬の行方です。丑之助が田舎の百姓の倅から、兜町の大立者にまでのし上がる間に、可奈子の方は、地方の素封家の令嬢から伯爵夫人、のちに戦争未亡人へとその境遇を変えますが、丑之助の年代記の要所要所にはこの女性が顔を出し、丑之助の向かう方向に多大な影響を与えるのです。丑之助は可奈子に、柄にもない崇高な憧れを抱いていて、それがためにどれほど女遊びに興じようと固く独身だけは守る、というおかしな操の立て方をしたりします。

小説の後半に来て、すでに大いに羽振りのよくなった丑之助が、夫を戦争で亡くし、資産も没収されて落魄した可奈子を大磯に見舞うというシーンがあります。このとき丑之助は、国許へ帰ってこないかという彼女の実家からの伝言を携えた使者でもあるのですが、もんぺ姿にひっつめ髪の伯爵未亡人は、この申し出をきっぱりと拒絶し、自分はここでひとり亡夫の菩提を弔わなければならない、と言ってのけ、丑之助を感心させます。

 

彼は、そういう可奈子を感嘆する以外に術を知らなかった。

束ね髪で、モンペをはいている姿が、かえって、美しく、ありがたく、どうやら、彼女は、再び、天上に帰ったのである。モンペ観音として、彼の拝跪を待っているのである。前回の大磯訪問の帰りは、彼も六根清浄を感じて、人格が向上したような気持になった。

 

 作中人物・丑之助の熱中ぶりとは裏腹に、作者である文六師匠の方は至ってクールなのが分ると思います。このエピソードを収める一章のタイトルは「モンペ観音」です。このナメたセンスがなんとも素敵です。

 

それでもこの「大河身分差恋愛小説」には、涙なくしては読めない結末が用意されています。手にとってご覧になることをおすすめします。お近くの図書館の隅に、おそらく朝日新聞社刊の獅子文六全集があることと思われます。長いですが、面白く読みやすく、決して退屈はしません。

 

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またも、ひとり謳う文六賛歌です。

文六師匠のシブい語り口を少しご紹介してみましょう。

まずは戦前の作品「南の風」から。

これはおでん屋を細腕で切り回しているヒロイン・島瑞枝のプロフィールについて述べた部分。彼女は家が成金で、景気のいい時分に「蝶よ花よ」の少女期を送ったのですが、十七の歳に父親が相場に失敗してからは、例によって例の如し、と。

 

欲しいもの、したいこと、なんでも自由になる身の上だつた。名家の令嬢だつたら、名家の掟に従わねばならぬが、富だけもつてる庶民の娘は、その点まつたく自由だつた。女子修学院の生徒のうちでも、瑞枝ほど贅沢と我儘をつくした娘は、少かつたであろう。彼女は、それを当然のことのように、心得ていた。いい気なものだ、といえば、それに違いないが、土地と気候を無視して、温室で咲き出した花を、花の責任というわけにはいかない。といつて、一夜の嵐で、温室のガラスも枠も、散々に打ち砕かれたことを、同情するにも当らない。

 

 ね、シブいでしょ。私は文六師のヒロインの中では、この島瑞枝が特に好きです。それについてはまた今度。

もうひとつ、高度成長期の作品「箱根山」から。

主人公・乙夫とヒロイン・明日子の関係は、てっとりばやく言えば「ロミオとジュリエット」なのですが、そのロミオからジュリエット名義の封書が舞い込んで、彼女の母親がそれを前に疑心暗鬼になる場面。

 

結局、母親は、憲法違反の意志を起した。信書の秘密は、旧憲法にも保障されているくらいで、親といえども、これを犯すことを許されないが、親のうちでも母親とくると、憲法なんて何よ、きっと親の気持も知らない人が、つくったにちがいないわよと、何の躊躇もなく、大法を破ってしまう。

 

やはり随分と高所から俯瞰する書き方で、凡手ではイヤミに堕してしまいます。少し前の話題作で、丸谷才一の「女ざかり」というのがありましたが、私などはあれを読んでいて、地の文の「旦那語り」に辟易させられ、「エラそうに床の間背負ってんじゃねぇ、ジジイ」と本を投げ出してしまいましたが、文六師においては、リズミカルな文体に飄逸を失っていません。

 

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今日は「南の風」について少々。

この作品、お世辞にもウェルメイドとはいいがたい。作品全体のモチーフとしても、「時局の要請」などというショッパいものが、時折舌を刺したりします。にもかかわらず、ヒロイン・島瑞枝のために私はこの作品が好きです。特に序盤で、彼女の来し方について述べた部分は出色です。芸のない話ですが、そのくだりをダラダラと引用してみましょう。

 

麹町から、高円寺へ引っ越した時には、それでも、まだ七間の貸家へ入るだけの余力を、父親はもつていた。

「どうだね、ここから学校へ通うかね」

半蔵は、シオシオとして、娘にいつた。内心は、近所の実科女学校へでも、転校して貰いたかつたのだ。

「いいえ、あたし、もう学校へは行きませんわ。レヴュウ・ガールになつて、身をたてようと思うの」

とんでもない。娘の決意を聞いて、半蔵は、どれほど反対したか、知れなかった。没落したりと雖も、島半の娘が、人前で脚を見せる商売なぞは、恥曝しである。

だが瑞枝の態には、断固たるものがあつた。もしも、彼女が十六歳だつたら、旧の学校へ行きたいといつて、駄々を捏ねたであろう。或いは、十八歳だつたら、おとなしく、境遇に順応する道を、選んだかも知れない。しかし、十七歳の娘をもつ親は、注意が肝要である。今朝、殻を脱いで、鳴くことを知つた蝉のようなもので、彼女がどんな唄をうたうか、どこへ飛んでゆくか、知れたものではないのである。

わが儘ではあつたが、素直で、快活だった瑞枝が、ひどく強情な娘になつたのも、その一例である。彼女は何といつても、初志を翻さなかつた。新聞で見た、A・S・K舞踊団の研究生募集広告をたよりに、あられもない、海水着一枚の姿になつて、選抜試験を受けてきた。そして首尾よく及第した。

半蔵も娘の強情さに、手を焼いて、結局それを許すことになつたが、

「どうも呆れたもんだよ。ああまで性質が変わるもんかね。どう考えたつて、瑞枝のしぐさじやないぜ」と妻に語つた。

まつたく、瑞枝の性格は、一夜にして、変わつたのである。

彼女は笑わない少女になつた。父と母に対して、笑わなくなつたが、A・S・K研究所の教師や朋輩に対しても笑わなかつた。好きで、その道に入つたのだから、満足である筈なのに、サッパリ、嬉しそうな顔を見せないのである。いつも、ツンと澄まし、プンと膨れているのである。その癖、声楽でも舞踊でも、教科の時間には、人一倍、熱心に励んだ。但し、熱心の割合いに、成績は悪かつた。それで、面白くなかつたのかも知れない。

しかし公爵夫人とか、名妓とかが、笑わない場合は魅力を増すが、十七歳の少女が笑わないのは、気味が悪く、また滑稽でもあるのだ。

瑞枝は、研究所の中で、゙腹立ちの花゛という、綽名をつけられた。ただ、笑わないというだけで、立腹の証拠にはならぬけれど、妙齢の乙女等の世界では、その印象を免れがたい。しかも゙花゛ば鼻゛に通じて、ツンと怒つたように、独得の尖り方をした彼女の鼻端は、いよいよ、綽名の巧妙さを、称えさせた。勿論、こんな綽名は、好意から生れない。彼女は、仲間から疎まれ、かつ憎まれた。

それでも、冷然と、反抗的にさえみえる彼女の態度は、一層、周囲の憎悪を、挑発してしまつた。舞踊の実習室で、些細なことを、寄つて集つて、詰られ、苛められた時に、さすがの、彼女も壁際の練習棒につかまつて咽び泣いたのである。

それで気が済んだように、悪意の童女達は、ゾロゾロ、廊下へ出て行つたが、やがて一人が、声高らかに歌い出した。

                                                                                      

腹立ちの花が泣いたよゥ…

 

それを聞くと、瑞枝は、ピッタリと、泣くのをやめた。そして、もう、生涯泣くまいと、決心した。彼女は、笑わないばかりではなく、泣かない女にもなつたのである。

やがて研究生時代が終わつた。彼女が、いよいよ、舞台に立つ日がきた。誰も彼も、百人一首を参考にしたり、知人の文士に頼んだりして、芸名をこしらえたが、瑞枝ばかりは、敢然として、本名を名乗つた。

島瑞枝、悪い名ではないが、父親が、文句をいつた。

「頼むからほかの名にしてくれ。外聞が悪くて、耐らない…」

「お父つァん、まだそんなことをいつてるんですか。まだ、あたし達の現実が、わからないんですか」と、彼女はひどくマセたことをいつた。父親は、呆れた顔をして、娘を眺めた。

現実、現実、と、よく口にしたが、その声に応ずる木魂の如く、いろいろの現実が、彼女の前に、展がつてきた。

蚊の頭のような活字で、プログラムに印刷された彼女の名を、級友の一人が、目慧くも発見したのである。それが、母校の団体である松柏会の問題になり、校友から除名するという騒ぎになつた。

 

 それに応じる瑞枝の言葉は当然、「除名は、こつちから、望むところだわ。舞台をやめるなんて、思いも寄らないことだわ」です。

 

蛇足を申しますと、ASKのSKというのは、「少女歌劇団」ででもあるのでしょう。芸名を百人一首に因むというのはタカラヅカ的です。「腹たちの花」というのはむろん、北原白秋の童謡「からたちの花」のもじりです。

 

だが当人の瑞枝は、将来だの、結婚だのということを、てんで、考える気がしなかつた。というよりも考える余裕がないのである。彼女の心理は、仇討ちに出た若い武士に似ていた。そういう武士は、仇を斬つて捨てる以外に、なにものも考えない。それが唯一の将来であつて、身の栄達や幸福を、考えることはできない。

瑞枝がそれに似ているといい條、一体、彼女の仇が、どこの誰やら、まるで雲を掴むような話だつた。松柏会の事件なぞ、彼女も既に忘れているくらいである。その点は、まつたく漠然としている。しかし、彼女の心理は、明瞭に仇討ち前の気組である。腹が立つてる。恨みに燃えてる。不正と不合理に対して、一撃の機会を狙つてる人物であるかのように、彼女の形相は凄まじいのだつた。

 

なんかスカーレット・オハラみたいですね。

しかしこのヒロインについての素晴らしい前フリの割に、結末はあまり感心しないので、強くはお勧めしません。