「デストロイヤー」の両義性
先日、たまたま手もとにあった「プロレスラー年鑑」をぱらぱらと拾い読みしていて、いくつか目から鱗が落ちるような新発見がありました。
まず往年のスター、テキサスの荒馬ザ・ファンクス。父親ドリー・ファンク・シニアは元レスラーで、NWAの役員までつとめたとあります。あれ、聞いていた話と違うなぁ。いや、子どもの頃読んだ梶原一騎先生の「プロレススーパースター列伝」なのですが、それによると、この男はルー・テーズ打倒を念じて果たせなかった悪役で、晩年は業界の鼻つまみ者。その不遇の怨念から、息子たちのレスラーとしての育成に執念を燃やしたことになっていました。しかしNWAといえば最大手。実は悠々自適の日々だったのね。
もうひとつは暴走戦士ザ・ロードウォリアーズについて。中坊のとき欠かさず見ていた「世界のプロレス」のアオリでは、シカゴのスラムのストリート・チルドレン出身で、ドブネズミの生き血をすすって育ったとか言ってなかったか。それがここで見ると、ちゃんと大学に通ってアマレスのキャリアなんか積んでいる。実に十年以上にもわたって騙されていました。ウソツキ。
騙すといえば、本人は意図せずして多くの日本人を騙したレスラーが、あのザ・デストロイヤーです。「デストロイヤー」はむろん「破壊者」ですが、ちょっと突っ込んで辞書を引くと「駆逐艦」という意味も出てくる。駆逐艦というのは排水量少なく、戦艦・巡洋艦の露払いといった格の船です。
で、あの白覆面の彼は、日本にいるときこそ「破壊の化身・大魔王」というような顔をしているが、本国へ帰るとどうやら、軽捷・機敏が売り物の「駆逐艦野郎」だったらしい。けだし戦後史的大発見というべきでしょう。
ハットリ君フォビア
春という字は「三人の日」と書いて春ラララですが、忍という字はヤイバにココロと書きます。
まだ藤子不二雄にAもFもなかったころ、そのキャラクターの中で、誰が一番頼り甲斐があって、誰が一番使えないかという話をしたところ、頼れるのはハットリ君、穀潰しは当然のことオバQ、という結論になりました。
しかし「ハットリ君」、まあアニメでしか知らないのですが、あれはなかなかの不条理劇でありました。「ドラえもん」などはしばしば劇中に文学性を垣間見せるところがあって、今日そういう部分をピックアップして「恋愛編」とか「感動編」とかの基準で再編集・出版がなされていたりしますが、「ハットリ君」においてそういう陰影は皆無です。
第一キャラクターがすごい。「ヒロイン」のユメコちゃんは、呆れるほどに、ハットリ対ケムマキの忍術合戦の賞品という役割に徹していますし、ケムマキの目的も謎なら、ハットリ君のモチベーションのありかもよく分らない。
そして首筋の寒いのが、ハットリ君の例の「ニン、ニン」という口癖であります。
忍は「耐え忍ぶ」ということですが、同時に「残忍」ということでもあります。あまり長きにわたって「ご無理ごもっとも」と耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいると、そのうちに「このガキ、いつかみておれ、たたでおくものか」という不穏な心情がおのずから醸成されてくる。
とりわけ封建時代の忍者という「職業」は、故・隆慶一郎によるならば、その実際の行動様式において、ダイレクトに「残忍なる者」の意味合いを強く帯びているといいます。
そう考えると、のべつ「ニン、ニン」と唱えているハットリ君は、実は剣呑な存在です。あの「ドングリ眼にへの字口」という、やたらと表情に乏しい顔は仮面にすぎず、その下には太平の安楽を貪るケンイチへの憤怒の相があるのかも知れない。
そのうちに地金を表して、「かくなる上は、いさぎよく自害して果てるでござるよ。ケンイチうじっ。拙者が介錯するでござる。シンゾウ、シシマル、手足を押さえるでござる。ニンニン」などということになるような気がします。
共通の筆致
あるとき大学時代の友人のリョウという男とふたりで、それぞれの小学生時代を語り合ったのですが、そのときお互いよく忘れ物をしたという話になりました。そしてそれぞれの持ちネタを晒してみれば、どうもこれ、私は近畿の、やつは中部の、「忘れ物全国選手権」ブロック代表であるということが明らかになりました。
算数の教科書を忘れればその時間は教室の後ろで正座、という具合の罰則規定にしたがって、一時限から六時限までずーっとエンドレスに正座していたというのがリョウ。すっかり学級内禁治産者という扱いになり、「盲管くんの忘れ物をなくすにはどうしたらいいですか」という「盲管くん補完計画」が学級会の議題に上せられたのが私。違いといっては、愛知と阪神間の教育的風土の差異があるのみです。
「だいたい小学校って、持っていかにゃならんつまんないものが多すぎるよ。カスタネットとか」とは、そのために正座したリョウの弁。私も消しゴムひとつ忘れて、それをごまかす為に一日の精魂を使い果たしたりしていましたが、どういうものなんでしょう、そのへんの「罪と罰」に関しては。
それはともかく、習字ならびに図工の実作において、われわれふたりが共通の筆致をもっていたことも、このとき判明しました。すなわち習字では字画をなす線がやたらに細く、図工ではむやみに色が強い。
なにゆえそうなるかというと、習字の筆を洗わないため、穂がガチガチに固まり、力ずくでほぐそうにも辛うじてほぐれるのは先端だけ。それで書くから線が細くなる。
図工の場合は、絵の具の管理ということができない。たいていバッグの中に各色のチューブが散乱しているが、チューブ自体もフタをしめ忘れてすでに凝り固まっていることが多い。なかでも真っ先にアウトになるのが使用頻度の多い白。やむをえずチューブを帝王切開し、小片を取り出してパレットの上で溶く作業を試みるのですが、充分な量は得られず、自然に画く絵はマイルドさに乏しいものになるのです。水バケツを忘れて、水彩のくせに丸っきり油絵タッチという絵を画いたことも二人してあります。
こういうのを「下部構造決定」っていうのかな。シンクロニシティー? いえ、ただ類は友を呼ぶという話がしたかったのです。
少年名探偵の受難
私が思うに、『名探偵コナン』やら『金田一少年』やらの読み物と、現実との間の最大の隔たりは、だいたい大人というものは、子どものことなど、まったく少しも露ほどにも相手にしないということです。
はたして、大人を一堂に集めて、「犯人はこの中にいる」だの「まず事件をはじめから整理してみよう」だのと講釈を聞かせる少年名探偵というものが現実にありうるか。
ふつう子どもがアタマで考えた推理などしゃべり出そうものなら、まず即座につまみ出されるに決まっています。たまたま彼が重要な事実を見聞きしていたとしても、大人は決して子どもの長口舌を許さない。
そんなとき彼らはうるさそうに腕を一振りして(ああ、その音が私には聞こえる)、少年探偵がその場に立ち上げようとしたコーチクブツを崩し去る。そして以降は、会話を逐一の質疑応答という形に組み替え主導権を奪還するのである。
かかる現実を前に少年がとりうるのは、やはり「押し入れへの立て籠もり」という年相応、地に足のついた戦術であろうか。だが刑事が同席のときにはそれも少しまずい。錬磨の逮捕術の前に、大人になりきらぬ少年の細いカラダは拘束され、なおふて腐れて口をつぐんでいれば、最悪の場合、警察署の二階にある柔道場へ連れていって乱取りの相手にされかねない。
畳の上でよれよれになって、少年探偵は思うだろう。どうせこんな目に会うのなら、はじめから犯罪を企む側にまわった方がまだ納得がいく、と。
その点、神戸のサカキバラ少年は、現実をまだよく知っていました。彼は法に対峙することで、一足飛びに大人と同じ目線に立とうとした。しかしお話と違い、現実の警察は馬鹿ではない。愚鈍で名うての兵庫県警でさえ、おそらくただの一日だって、彼の小細工に欺かれたりはしなかった。悲しいけれど、ま、それが大人と子どもの現実ってものです。