他家との繋がり

現在は当時の関係や繋がりやどのようなお付き合いから縁があったのか?は知る由もありません・・・。
樋口家   舘野家(永井家)   谷口家(山口家・吉田家)
 


   細野村に住む宮田家に千福新村から「樋口與三松」と「樋口タ子」の長女「おい」が当家に嫁いで来ました。
   これはあくまでも推測に過ぎませんが、蓑谷村と北野村の度重なる抗争が続いてる時代であり、「長女を嫁に出すなら ・・・住民にまとまりが有り平穏な細野村のような所に行かせたい・・・。」そんな折、誰かから宮田家の事を「古くから住んでいる 田圃面積の広い「吉兵衛」の所で嫁探しをしてる・・・」と聞き、・・・お寺の住職などを通して縁談を持ちかけたのではなかろうか?
   また、「おい」の人柄については「舘野辰次郎」が生前に「おいさんは体の大きくガッシリとした頑固な婆さんだった ・・・」と言っていた事しか分りません。2002年9月城端町を訪問した折り、「樋口與三松」と「樋口タ子」の別筋の子孫の方が現 在もいらっしゃる事が判明しましたが、残念ながらお会いする事は出来ませんでした。


   舘野家は富山県西砺波郡東太美村大字立野新村から北海道に入植しています。舘野家の入植の方が10年程早く 岩見沢村、北野村を経て新十津川村に入ってます。富山時代からの付合いか?北海道に来てから同郷という事で親しくなったものか?は 分かりませんが、たぶん後者の方でしょう。しかし、「舘野彦次郎」の妻「舘野(永井)ヒロ」は蓑谷村出身であるため、細野村の 「宮田吉兵衛」血族の事は承知してたかもしれません。
   舘野家からは「舘野彦次郎」と「舘野ヒロ」の養女として西砺波郡城端西新田町の「福原」家より入籍していた 「志賀」が宮崎家に嫁いで来てます。当家では「平太郎」の後妻で2名の子供を出産してます。しかし、いずれも生後1年で死亡しており、 現在当家内に舘野の血縁者はいません。嫁いで来る以前に志賀には「辰次郎」と言う実の子供がおりましたが、その子供は舘野家に 残して1人で当家に来てます。先に記した通り舘野家には養女で入籍しているため「志賀」は舘野の血筋ではない可能性もありますが、 何の関係も無く養女に出される事は少ないため、福原家へ舘野家より嫁いだ誰かの子供とも考えられます。(宮崎ミヨのように・・・) 尚、「舘野辰次郎」の実父は不明です。
   「志賀」の人柄については背の小さい人で、若い頃京都で働いていてハイカラな所があり、後に「志げ」が川島家へ 嫁いだ際の結納金を歌や踊りに使い果たした・・・との話もあります。しかし、舘野家には実の子がいながら、血のつながってない 当家の義理の孫達を可愛がり、その反面大変厳しかったとの話しもあります。ともかく私個人としてはこの方が浦臼・白石時代を支えて いたのでは?と思えてなりません。



丸に蔦
   宮崎家がもっとも強い繋がりを持っているのが谷口家です。同じ細野村の出身、「平太郎」と「谷口弥一郎」 の年齢差は1つ、、どちらも渡道した時期は明治40年頃、渡道後の住居地も同じ所でした。付合いは遥か富山時代から親しい近所付合い があったと考えます。その後世代が代わり「平太郎」と「谷口弥一郎」の息子や孫の代になっても昭和後期まで親密な関係が続きました。 しかし、当家が札幌に来てからは冠婚葬祭程度の仲となって行ったようです。
   谷口家からは「キクエ」が当家に嫁いできてます。また、「弥一郎」の息子で長男「利尚」次男「孝次」が共に 「俊雄」と「井島敬」の仲人をしてます。私も記憶ですが、幼少の頃当時新十津川に住む谷口家の法事に何度となく行った記憶があり、 昭和44年頃の法事では子供心に「立派な家だなー・・・」と思いましたし、私が記憶の中にある初めて乗った自家用乗用車は谷口家の 車かもしれません。黒塗りの大きなセダンで法事後の父、兄、私を自宅まで送ってくださいました。
   また、「俊雄」が若い頃常々「敬」に「戦災で兵庫県から引揚げて来た際も、よく馬車で野菜や米を持って来てくれた りと、大変世話になったんだー・・・」とよく言っていたようです。
   それでは山口家についてですが、山口家も同じ細野村で「谷口弥一郎」の妻「こん」の実家になります。
   「キクエ」は若くして亡くなってますが、その人柄は朗らかでいつも笑い顔の絶えない人だったという事です。当家の 楽天的で明るい部分はそんな谷口家の血を引いてるのかもしれません。
   
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