その一
■ 吉峯先生へ:「徹底考証! 一刀流は崩壊しているか!!」について(その1)
No. :132
Name :切際
Date :2002/02/28(Thu) 14:14
はじめまして。切際と申します。
一刀正傳無刀流、直心影流(法定のみ:加藤完治伝)、小野派一刀流(笹森順造->松元貞清伝)、一心流薙刀(旧制一高撃剣部伝)、寶蔵院流高田派槍術(旧制一高撃剣部伝)を修行中です。
武藝之網羅集(http://www.hoops.ne.jp/~izayohi/bugei.html)にてこの論文を知りました。史料にあたっているのに時間をとられ、すでに亀レスですが、御容赦ください。
本論文は一刀流に関しまして口伝にあたる部分もありご研究の苦労が伺えますが、吉峯先生の推測ならびに他資料との比較検討が行われないまま「一刀流極意」からの引用が多いように思われました。
単なる勘違い(例えば伊藤弥五郎->前原弥五郎)は除き、おかしいと思われるところにレスを付けました。下に示した文献にもあたっていただき、間違いがあればご指摘ください。また、先生がご存知の文献・資史料等がございましたら教えていただければ有り難いです。
なお、私の意図は、多くの一般の方に一刀流の本来の姿を知っていただきたい、一刀流に関する誤解を解いていただきたいということで吉峯先生への批判ではありません。文章では微妙なニュアンスの表現が難しく、非礼に感じられる所がございましても何卒ご寛恕願います。
また、甲野善紀先生には一面識もなく全く関係がないことを付記しておきます。
<用語ならびに参考文献>
本傳:小野家で行われていたと思われる組太刀の所作(遣い方)
・忠於先生の時代と思われる津輕公の「剣術組遣形覚書・一刀流剣術組」「(仮名)割目録口伝手控」(両者公開不得許可)
・忠方先生の一子相伝の秘書 地之巻 (一刀正傳無刀流開祖山岡鐡舟先生遺存剣法書 乾の巻:村上康正:自刊:国会図書館)
・一刀流兵法組数目録(「剣道日本」創刊号および1985年3月号:スキージャーナル社)
#残念ながら山岡先生が中西家の組太刀が伝書と違うと言われたその伝書は見たことがありません。
笹森傳:笹森順造先生が書かれた組太刀の所作(遣い方)
・「一刀流極意」:体育とスポーツ出版社、「剣道」:旺文社
小館傳:小館俊雄先生が書かれた組太刀の所作(遣い方)
・「日本古來武道藝術集」:自刊
津軽傳:笹森傳および小館傳より推測される津軽藩で行われていた組太刀の所作(遣い方)を仮にこう呼ぶ。
・組太刀写真(「剣道時代」1986年11月号:体育とスポーツ出版社)
無刀流組太刀
・剣道教範:柳多元治郎:宝文社(近代剣道名著体系第二巻収容)
・史談無刀流:浅野サタ子:宝文館
・剣法無刀流:塚本常雄:自刊:国会図書館
・「剣道日本」1976年8月号、1977年3月号、1978年8月号、1982年2月号:スキージャーナル社
・「秘伝」1999年10月号:BABジャパン
中西派&北辰一刀流
・一刀正傳無刀流開祖山岡鐡舟先生遺存剣法書 坤の巻:村上康正:自刊:国会図書館
・北辰一刀流組遣様口傳書:櫻田櫻麿
・千葉周作遺稿:千葉栄一郎編:体育とスポーツ出版社
・一刀流関係史料:筑波大学武道文化研究会
・兵法一刀流:高野弘正:講談社
・「剣道日本」1982年8月号:スキージャーナル社
・「剣道時代」1986年2月号:体育とスポーツ出版社
小野家伝書&山岡先生著述
・一刀正傳無刀流開祖山岡鐡舟先生遺存剣法書 乾の巻:村上康正:自刊:国会図書館
忠也派、溝口派&甲源一刀流
・一刀正傳無刀流開祖山岡鐡舟先生遺存剣法書 坤の巻:村上康正:自刊:国会図書館
・一刀流関係史料:筑波大学武道文化研究会
・甲源一刀流:酒井塩太:自刊:国会図書館
・一刀流兵法目録 :鵜殿長快‖〔著〕光田福一‖編著 :国会図書館
・「剣道日本」1995年5月号:スキージャーナル社 ・「秘伝古流武術」1993年春季号:BABジャパン
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■ 吉峯先生へ:「徹底考証! 一刀流は崩壊しているか!!」について(その2)
No. :131
Name :切際
Date :2002/02/28(Thu) 14:13
吉峯氏の主張
正式名称は高上極意五点。なお系統によっては、五天、五典、五行の太刀などとも言う。小野家伝書では単に「五點」です(眞行草の区別は有)。高上極意五点という記述は全くでてきません。
高上極意は、正しくは向上極意で、強いて上げればは五點のうちの眞劍の一つの遣い方。(津輕公手控、小野家伝書より)
小館傳では極意向上とあり津輕傳での独特の言い回しと思われます。
吉峯氏の主張
高上極意五点=一刀流の根本原理、元来が中条流の奥伝の型。
大太刀五十本=五点から技術を分解し、初学における基礎作りと、基本的術理の習得を眼目として制定された組太刀
大太刀五十本を基礎に小太刀九本、合小太刀八本、三重三本、刃引、他流勝之太刀、詰座抜刀(2)が制定。これらは小野次郎右衛門忠明によって制定された。
忠明の代には大太刀二十五本との傳えあり(小野家伝書)。三重(古くは三從)は一本。笹森傳もそのはずです。
五點は大太刀と別にあるのではありません。組太刀であり既に組み込まれているのです。「一刀流極意」では指摘がありませんが、高野佐三郎先生はご存知だったようですね(本目録聞書の記述より推測)。つまり折身の組が五點です(小野家伝書より)
他流勝之太刀、詰座抜刀は本傳には無いです。私自身、笹森傳での十二點巻返以降の太刀は遣っていて違和感が有ります。小館傳にもなく津輕公の覚書にも無。忠也派には他流極意勝とあり、一部名称が笹森傳と一致します。また元々一刀流には抜刀・居合はないはず(忠也派の伝書に記述有。忠也派にて後世に追加とのこと)。一刀流本目録では詰座刀抜とあります。抜刀ではありません。
吉峯氏の主張
忠常が二つの切り落とし、寄> 身、越身の四本を追加。五点の用法を創意工夫した新真之五点を制定。
一刀流で四本追加というのは無いです。切り落しの組として五本追加。(津輕公覚書)
新眞之五點は津輕公手控には「新の字は忠常の撰」となっており、「これほしゃとう也」とありますが、小野家伝書では「割目録は一刀斎のときの假名字目録」とあります。新真之五点の眞劍は地生の四番目(巻カスミの最初)とあり、忠常が創意工夫したかは疑問です。
吉峯氏の主張
忠於が、更に大太刀に合刃三本、張合刃三本を追加。十二点巻返(五点を解釈したもの。別名をハキリ合)九個之太刀(払捨刀から編み出されたもの)もこの時期に制定。
合刃は先の切り落しの五本目を三回行うようにしたもので、言わば忠常、忠於の合作、張合刃(正しくは張)は忠於の作。それで合刃の前、張の前に礼を行います。
十二點巻返とは言いません。ましてハキリ合は忠也派の組名称です。小野家伝書では第一、第二は表のマキカエシのことだと書いてありそれが訛ったのでしょうか。九個之太刀(笹森傳ではクカノタチですよね)は九ツノ太刀と小野家伝書にありますが、十二點と共に笹森傳とは遣い方が異なります。また、忠常が小野助四郎宛に出した目録にすでに十二點、九ツノ太刀ともあり、忠於の時期に制定されたわけではありません。
吉峯氏の主張
五十本では一刀流の基本であり核心である切り落としの技術の養成が眼目。先ず一本目の「一つ勝」によって、先ずは大きい動作で正確に機を捉えて切り落とすことを学ぶ。
「一つ勝」の一本目についてです。向身について吉峯先生も馬庭念流との比較を述べられていましたが、この馬庭念流の表の一本目(上略)は頭上に振りかぶらず(体中剣)で切り割ります(見学しただけですが)。この遣い方が一刀流の源流とすれば笹森傳の切り落しはかなり相違してきていると思います。私見ですが、本来堅固なせいがんを大きく崩して振りかぶり、相手の太刀筋の変化にも対応が難しい技法で対応し、しかも振りかぶっていながらも敵を切るのではなく最後は突く形になるのは真剣での勝負を考えたときにどう考えても不自然です。
本傳では切り落しに関して刀法の詳しい説明はなく解明はできませんが、一部に「遣方せいかんに出 打懸るとき不動して下段にさけ云々」(乗身)とか「打太刀陰ヨリ打 遣方清眼ニテ下ケ左ノ手ヲ切云々」(二ツ勝)とあったり、小野家伝書に車輪前転とは打太刀の動作として説明(「一刀流極意」では遣方の動作となっている)されていることから少なくとも振りかぶらず最後は下段に取る技法と思われます。ちなみに中西派や北辰一刀流の五行の形の切り落し突きは振りかぶりませんね。
「一ツカチノ事。セイガンニテ切ヲトシヲツカイ候モ、我ガ面ノヒタイニアツル心ナリ。然者、ヲノヅカラ我ガ面ヲカコウモノナリ。勿論、打太刀ノ面ニハ印置、聞キカケノ通リナリ。尤、ヨロシキ所迄行、打太刀打不出時ハ、ヂキニセイガンニテ勝ナリ。ヨロシキ所マデ行候ハ、早ク左ノカタニ心ヲ可付カンヤウナリ。口傳有。尤セイガン斗ニカギラズ。一サイノワザ皆左ノカタナリ。」(小野家伝書より引用)
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■ 吉峯先生へ:「徹底考証! 一刀流は崩壊しているか!!」について(その3)
No. :130
Name :切際
Date :2002/02/28(Thu) 14:13
吉峯氏の主張
二本目以降では一本目の変化として、ある時には直線的に、ある時は空間で切り落とし、またある時は角度を変えて打ち落としたり、あるいは逆の動きで下から摺上げることを学ぶ。
直線的とは一つ勝の二本目(向突、突き返し)のことを言われていると思いますが、本傳ではこの遣い方はありません。甲源一刀流にあります。(名称は體當ですね)
空間で切り落としとは一つ勝の三本目(鍔割)のことを言われているのでしょうか。本傳、中西家、北辰一刀流でもこのように遣いません。津輕傳独特の遣い方です。無拍子の切り落しは一つ勝の下段ノカスミです。
打ち落としは切り落しとは明らかに異なる技法です。組太刀の名称も違います。技法的には切り落しとは(打太刀の)「上にある太刀が切り出し、落ちる」もしくは「上にある太刀を切り出させ、落とす」で遣方の太刀に觸れた處、カチッという處に勝ちがあることです。つまり摺り上げも確かに切り落しです。よくご存知ですね。
吉峯氏の主張
大太刀五十本は五本ずつ十組になっていて、それぞれ、様々な切り落としの方法がテーマになって編成。共通するのが、相手の中心を制することによる中央突破。合刃、張合刃は切り落としを螺旋状の動きで行うのが特徴。
合刃、張は卍の所を学ぶもので決して切り落しではありません。(合刃はもともとは切り落しでしたが)「一刀流極意」でも切り落しとは書いてないはずです。
吉峯氏の主張
十二点巻返、九個之太刀も技は比較的小さく、細密な技術を多用。全ての武道に体と用の二つの要素があると仮定すれば、さしずめ十二点巻返と九個之太刀は、一刀流における用の部分。
前にも書きましたが、本傳には十二点巻返、九個之太刀はありません。小野家傳書にあるように十二點、九ツノ太刀は表五十本や拂捨刀、小撓などの中に組み入れられています。
吉峯氏の主張
北辰一刀流の組太刀の手順を記した「北辰一刀流組遣様口伝書」には、表組、切り落とし、合刃、張、小太刀、相小太刀、刃引き、払捨刀などの組太刀の手順が列記されているが、それを読むと、千葉周作が学んだ技術が、現在行われている一刀流とほとんど変わらないことがわかる。
つまり、現在行われている一刀流(とは小野派一刀流津輕傳)が中西道場で行われていたものとほとんど同じということです。小野家傳書では中西家にて組が亂れている・崩れていること(もはや當流のわかれニ相成、伊藤先生よりの傳來ハ不存云々)を嘆いています。この時点で本傳の遣い方と相違が出てきたと考えます。
つまり竹刀打ちや御前での演武(こういう言葉ななかったと思いますが)に合わせて変化していったのではないかと考えています。
ただ、根本(おっしゃられている五點の意味)をなすものは変わっていないし、求める先がムソウ劍であることも変わっていません。ここが一刀流のいいところで、非常に盛んになった要因の一つと思います。
吉峯氏の主張
山岡鉄舟によって創始された一刀正伝無刀流では、組太刀における所作が小さくまとまっており、おそらくは禅の影響と、山岡鉄舟自身の剣腕が非凡なレベルに達していたことが反映。技術的には、
北辰一刀流が下敷きになっていることは、組太刀の内容から察することが出来る。
簡単に。
山岡先生は大悟の後、無刀流を創始されたが、ご自身が習われた組太刀が傳書と一致しないことに惱まれ、千葉縣東金に隱居なされていた小野業雄忠政先生(九代次郎右衛門)を迎えたところその組太刀が傳書と一致したという。修業後業雄先生より一刀流十世と甕割刀・朱引太刀や傳書類を譲られ、一刀正傳無刀流と称した。無刀流組太刀は山岡先生の工夫ではなく一刀流なのです。
なぜ、小野派一刀正傳と言わなかったのか? これも山岡先生の著述にありますが、何々派というのは門人ということなのだそうです。
だから、中西道場の看板は小野派一刀流なのです(小野家の門人だったから)。本家(小野家)は一刀流と言い、傳書も全て一刀流○○目録と成る譯です。閑話休題。
私見:全く山岡先生の工夫が無いとは思わない(特に正五典)し、北辰一刀流の影響がないとは言いません。ただ、打太刀と遣方の構えが逆の場合も散見されますが、忠於・忠方・忠喜の時代の組太刀手控・覚書や傳書と非常にマッチします。これは「千葉周作が学んだ技術が、現在行われている一刀流とほとんど変わらないことがわかります」と同じくらい相似しています。